著作者_halfrain

8-4.イノベーションのジレンマ

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


「社会を変える」というフレイレ由来のテーマから引き継ぐ形でいよいよ「イノベーション」という言葉が指し示す当のものについて考えていきたい。

昨今、人材育成や企業戦略の文脈で「イノベーション」の文字を見ないことはありません。恒常的な成長を見込むことはもちろん、状態を維持することはさえ一筋縄でいかない現在、劇的な変容への対応が求められているのでしょう。

バウマンが「リキッド化」という言葉で指摘したように現代社会は一瞬たりとも形を同じにはとどめておきません。かつて首相が所信表明演説でダーウィンの説として取り上げたために流布するようになった警句「「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」は、現代に仕事をするビジネスマンの無意識的な信念を強く刺激するものなのではないでしょうか。

いずれにしても変化を起こし変化に対応することが企業にとっても人にとっても喫緊かつプライマリな生存課題であることは確かなようです。


イノベーションの理論はいくつもあるのですが、ここではクレイトン・クリステンセンの「破壊的イノベーション」を取り上げます。クリステンセンのイノベーション理論の要諦は、イノベーションは狙って起こせるものではないという点にあります。

イノベーションはまったくの偶然に不可避的に起こるものです。そして、それまでの文脈を劇的に変容させてしまうものです。優良企業は既存のビジネスの文脈に最適化した存在です。だから、その文脈が変わってしまえば途端に適応力を喪って没落してしまう。優良だからこそ敗れるのです。

インプロへの問いを通じてインプロバイザーは文脈の変化に対応し、文脈を自ら変化させる存在であることを書いてきました。破壊的なイノベーションに臨んでイエス・アンドが力を発揮する場面はきっとあるはずです。

既存の文脈に深く拘束された人はそこに生じてくる細かな差異に意識を向けることができません。「見えるもの」のなかに潜む「見えないもの」に関心(ゾルゲ)を向けることのできる人だけがイノベーションに対応することができます。ここにフレイレ的なミクロのイノベーションに通じる視座があります。


破壊的イノベーションとフレイレのソーシャルイノベーションを接続しながら、ジャック・ラカンが精神分析の倫理の範とした『アンティゴネ』の振る舞いに言及します。「汝の欲望を諦めない」こと、そこにイノベーションのエッセンスがあります。そして、欲望を諦めないということは、自身の身体に宿るスタイルを信じぬくことなのです。


以下12300字です。


8-4. イノベーションのジレンマ

「イノベーション」という言葉の歴史は1912年に公刊されたヨーゼフ・シュンペーター『経済発展の理論』に遡ると言われている。「イノベーション」は、日本でははじめ「技術革新」という訳語で用いられていたため長らく技術理論として認識されてきた。しかし、リーマンショックや東日本大震災を経て、技術的な領域にとどまらず社会に大きな変化を生み出していくアクションを意味する言葉として変わっていったように感じる。

 現在、ものづくりの世界を超えて医療やサービスなど人にかかわる職種の世界でもイノベーションという言葉はごく当然に使われるようになった。いまや教育とはイノベーションを起こせる人材、すなわちイノベーターを育てることであると言っても過言ではないほどだ。

 それではイノベーター教育にインプロはどう関われるのだろうか。イノベーションと一口に言ってもいろいろな側面がある。グーグルやフェイスブックといった世界的な大企業の起こしたイノベーションの研究はそれを専門に掘り下げた研究がいくらでもあるだろうし、いまさらグローバル企業の戦略をインプロに引き寄せてぼくが語るのもミスマッチだと感じる。

 したがって、ここではイノベーションの理論からぼくが学んだ知見をインプロの学びと交差させながら、ぼくたち自身の具体的な実存の様式へと落としこんでいくことを考えていきたい。イノベーションを起こすとはどういうことで、イノベーションに対応できる存在であるために何が必要なのか、インプロを引くことで示すことができたら幸いだ。



8-4-1. 破壊的イノベーション

シュンペーター以後、イノベーションの理論としてピーター・ドラッカーの理論などが知られている。インプロの知見がいかにイノベーションとリンクするかという問いを立ててみるとき、たしかに、シュンペーターが指摘する生産構造の変化を敏感に悟ることも、ドラッカーの指摘する新たなニーズに機敏に応えていくことも、インプロバイザーの細かく気づいていく能力に関係ないとはいえない。ただ、それではあまりにストライクゾーンが広すぎるという印象はぬぐえない。イノベーションとインプロの関係を考えるためにも、まずイノベーションの意味するところを考え直してみたい。

 しかし、いきなりだが、イノベーションという言葉にはヘーゲル的な狡賢さの臭いがする。たとえば「イノベーションとは顧客の新しいニーズに応えることである」とドラッカーフリークが好みそうな仮定を考えてみたい。

 毎年多数の起業家たちが会社を起業している。新しく起業するからにはそれぞれに「顧客の新しいニーズ」に応えることができると信じてするはずだ。しかし、その大半が長く続けることができずに市場からの撤退を余儀なくされているのも事実である。これをどう考えるか。結果の見えたそのときに、上手くいった企業は顧客のニーズを掴んだ企業で失敗した企業は顧客のニーズを掴めなかった企業だと分析しても、いかにも取ってつけた話である。

 要するに、イノベーションの話はイノベーションに成功して生き残った企業や人の話ばかりに焦点が当てられて、イノベーションを起こそうとして失敗した人の話が取りあげられることはない。要するに、イノベーションの物語はいつも後出しジャンケンで語られているのである。

 顧客のニーズであれなんであれ、定められたゴールを目指すことがイノベーションのスタート地点だとしたら、ゴールに辿り着けたかどうかは、ゴールに行かないとわからない。だとすると、そのゴールを目指すこと自体がそもそも妥当なのかという疑問が湧いてもくる。


イノベーションにまつわる胡散臭さを自覚的に批判しているように感じられて、とても興味深く拝読した著作がクレイトン・クリステンセン『イノベーションのジレンマ』だった。同書においてクリステンセンは「持続的技術」「破壊的技術」の別を論じて、いかに破壊的技術を有した新興企業が先行する大企業を市場から追い落としていくかを分析している。

 「破壊的イノベーション」の名で知られるクリステンセンの理論のおもしろいところは「大企業の敗北する理由が経営の失敗にはない」ことを指摘したところにある。むしろ経営に優れた企業であればあるほど、努力を重ねる企業であればあるほど、その強みのゆえに必然的に没落するという悪魔のような逆説を白日の下にさらしたのである。


『イノベーションのジレンマ』には日本のオートバイメーカーであるホンダのケースが分析されている。ホンダが北米のオートバイ市場に参入する際、当初はまったく勝ち目のない挑戦だった。当時の北米にはホンダが日本で開発してきた小型オートバイを求める顧客のニーズは皆無だった。ハーレーダビッドソンに代表されるような大型でパワフルな長距離移動に適した性能こそ、バイクに求められるものだったのだ。

 しかし、あるとき状況は一変する。北米ホンダの社員が支社のあったロサンゼルス近郊の山へ小型バイクに乗って気晴らしに出かける姿がロサンゼルス市民の目に留まるようになった。郊外のレジャーを軽やかに楽しみたい層にとって、その姿がとても魅力的に映ったのだった。ホンダは思いもしなかった市場のニーズを開拓することに成功する。

 偶然の賜物ではあったにしても、パワフルで長距離を走ることができるという移動手段という既存の文脈から、スポーティなライフスタイルを楽しむためのツールという新しい文脈へのチェンジをホンダは果たしたのだった。既存のバイクユーザーのニーズに応えていた北米の主要バイクメーカーはホンダの見いだした新しい市場にまったく対応することができなかった。結果、ホンダの技術は北米オートバイ業界にとって破壊的技術となった。しかし、ホンダ自身まったく予期していなかった展開だった。

 畢竟、破壊的技術は持続的技術とはまったくの別物である。持続的技術はいまあるプロダクトの質を高めるものだ。だから、どれほどその方向を極めたとしても文脈は同一のものに留まってしまう。オートバイは「いかに長距離を走行できるか」「いかにパワフルか」を競うものとなる。しかし、破壊的技術は文脈そのものを違えてしまう。オートバイを移動手段からライフスタイルのアクセサリーへと変えてしまったのだ。

 持続的技術を誇る先行大企業は持続的技術の進化と深化を目指すものだ。だから、彼らにとって破壊的技術は畑違い、土俵違いもいいところなのだ。そのため新技術の登場の際、その価値を正当に評価すること自体不可能なのである。


破壊的技術もはじめから完全な状態で現れるわけではない。むしろ、不完全で粗の多いものとして現れる。ホンダのオートバイも、北米参入当事、製品の質においてまったく他社に太刀打ちできるものではなかった。

 だから、そのレベルの技術に大企業が予算を割くことは難しい。大企業は予算規模も莫大でステークホルダーも多岐に渡る。必要とする利潤も莫大で調整しなければならない利害も多様である。評価も定かでない質も怪しい破壊的技術に多額の投資はできないのだ。もしそのような暴挙をしようものなら四方八方から圧力がかけられて頓挫してしまうだろう。

 規模に見合う収益も上げられずコストもかさんでしまう可能性のある新技術にギャンブル的な投資をするよりも、今ある技術を伸ばして既存の顧客のニーズに応じていくほうが大企業にとってよほど合理的な経営判断である。しかし、その合理的な意思決定のために破壊的技術の拡大をずるずると許してしまう。結果として取り返しのつかない優位を新興企業に与えてしまうのである。

 思えばiphoneの初代機が日本発上陸をした際、日本の通信会社や端末メーカーは新し物好きの興味を引くだけでどうせすぐダメになると高をくくっていた。たしかに当時のiphoneは不具合も多くて日本の一般的なユーザーの満足を充たす質とは程遠いものだったと記憶している。しかし、現在の日本市場におけるアップル社の存在感、そして国産通信端末機器メーカーの惨状を見てみればそれが破壊的技術であったことがよく分かる。



不可知論的マーケティング

クリステンセンの議論はイノベーションにおける進化論的な狡さをよく理解したものだと思う。クリステンセンは破壊的イノベーションの登場に際して「専門家の予測はかならず外れる」あるいは「大多数の顧客が知らない存在しないニーズが存在する」と論じている。破壊的イノベーションは起こそうと思って起こせるものではないことを明言しているのだ。

 つまるところ、イノベーションは、歴史の審判を待った後に生き残った企業の姿を見てから、過去に遡ってあれが破壊的イノベーションだったと指摘するにすぎない代物だ。おそらく、ある破壊的技術が誕生したときに他にも無数の破壊的技術の候補たる技術があったはずなのだ。しかし、それらは残念ながら生き残ることはできずにイノベーションとして認知されることもなかったのである。ある技術が偶々幸運に恵まれて生き残った結果、イノベーションとして認知されるようになったにすぎず、破壊的技術が破壊的イノベーションとして迎えられるかどうかは偶然に依る部分が少なくない。

 だから、クリステンセンは遂には「不可知論的マーケティング」という言葉さえ使っている。破壊的な製品が誰にどのようにいつ使われるかは、そもそも使われるかどうかさえ、使ってみるまでは、企業にも顧客にも誰にも分からないという仮定でなされるマーケティングのことである。ここまで不透明なマーケティングならしないのと同じではないだろうか。ある意味、事前のマーケティングなどするだけ無駄と言っているに等しくもある。

 破壊的イノベーションの理論に従えば顧客の新たなニーズなどというどこにあるかも定かではない幻影を追い求めるよりも、とにかく四方八方撃ってみて当たったところで勝負をするのが効果的であるようだ。きわめてダーウィン主義的な戦略なのである。


イノベーションはいつどこで起こるか予見できずまったくの偶然に発生する。とはいえ、いつか必ず破壊的に起こる。まるで天災のような出来事である。変化の激しい現在はイノベーションの発生率が極限まで高まっている状態にあるとも言えるだろう。だから、現在を生きるぼくたちには不条理なイノベーションの嵐に対応する能力を事前に身に着けておく強かさがいるはずだ。

 破壊的イノベーションに敗れた企業は優秀であればこそ敗れた。優秀さにこだわったからこそ滅びたのだった。優劣とは絶対的なものではない。畢竟、優劣はそれを測る尺度に依存するものでしかない。尺度とは文脈にほかならず、文脈を離れれば尺度は力を失ってしまう。

 ある文脈では優れた仕事ができる人でも別の文脈ではまったく力を発揮できないのと同様で、現在の業界で優れた経営をしている企業はその業界の文脈に最適化できたから優れているにすぎない。現在の文脈の内部であれば最大限の力を発揮できても、文脈が変わってしまえば為す術なく敗北するほかはないのだ。

 適応した環境でしか力を発揮できず、環境を変えればまったく無力に堕してしまう現象を社会学者のロバート・K・マートンに倣って「訓練された無能」と呼びたい。マートンは官僚化した組織が組織内部のルールに拘束されることで外的環境の変化を無視してしまうこと、変化に対応しようとするアクションを抑圧してしまうことを指摘した。それが「訓練された無能」である。それが現在では組織にとって致命的な欠陥を露呈するリスクとなる。

 間違えてはならないのは訓練された無能はきわめて有能だということだ。ビジネスのエージェントとして、顧客のニーズに誠実かつ適切に応えていくことのできる優れた存在なのだ。しかし、それゆえに失敗してしまう。

 クリステンセンの主眼はニーズに応えられないから失敗するのではなく、ニーズに応えているから失敗するのだという逆説にある。破壊的なイノベーションは未来の顧客に求められる価値を提供するものである以上、既存の顧客の興味を引くものではない。現在の顧客が必要としていないものに賭け金を措くのだから、そもそも顧客を頼りにしてはならないのである。


   ***


進化論的な偶然性を絶対的に肯定した「破壊的イノベーション」は遂に「不可知論的マーケティング」にまで辿りついた。これらの概念に対立するのは旧来の「既存顧客という共同体」に根ざしたマーケティングではないだろうか。

 マーケティング的な視線の陥る罠こそ「顧客」という言葉だと思われる。果たして「顧客」とは誰のことだろうか。そう問いを立てても「私が顧客である」という人に会うことはできない。「顧客」と呼んでいるとそれがどこかに実在する誰かであるかのように思われてくるけれども「顧客」そのものという人はどこにも存在しないのだ。たしかに商品を買ってくれる人はいるけれど、「顧客」そのものは誰でもあって誰でもない。

 畢竟、顧客とは誰でもあって誰でもないハイデガーの「ひと」なのだ。既存技術の形成する共同体のなかで規格化=標準化されてしまった「ひと」、それが顧客の正体だ。そして、そのような顧客を追い続けているかぎり破壊的イノベーションに打ち負かされてしまう。


破壊的イノベーションは「ひと」から漏れ落ちてしまう細かな差異からこそ生まれてくる。現時点で評価されている価値観が明日も同じように妥当するとは限らない。大多数にとって見えるものは未来の見るべきものと一致するわけではない。現在の評価に違和感を覚えるのであればそこが破壊的イノベーションの戸羽口となるはずだ。

 このような破壊的イノベーションの性質を自分事として受け止めてみたとき、ひとりの実存としてイノベーションに向きあうとき、何をすべきであり、何を指標として生きるべきだろうか。その問いに対してはフレイレ的な視線を大事にしたらどうだろうかというのがぼくの考えだ。

 フレイレは貧しい人たちの暮らしを見てしまった。他の誰にも見ることのできない、フレイレだけに見ることの許された微かな兆しだった。「ひと」には「見えないもの」を「見えるもの」と受容したとき、それが彼にとっての運命となった。出会いは偶然の出来事だった。けれど、教育の世界における彼の破壊的な存在感を導くものともなったのだ。



イノベーションの呼び声

破壊的技術のイノベーターは自身の運命としてイノベーションの呼び声を聞いてしまう存在なのではないかと思う。出会いに理由はない。ただの偶然かもしれない。でも、それが彼の運命となる。しかし、それはまったくの偶然でもなく、必然でもある。なぜなら、関わるべきアフォーダンスとしてその兆しを彼に見させてしまったのは、彼の身体に眠っていた彼自身のスタイルにほかならないからだ。

 もちろん、はじめから上手くいくわけではない。まだこの世界に存在しないことをする以上、誰も成功するやり方を知らない。結局、誰からどのように評価されるかはまったく未知数なのだか、できるだけ多くの文脈で自分の試みを投げかけてみることも重要である。だから、はじめのうちは小さな挑戦と試行錯誤を反復しながら、周囲からのフィードバックに的確かつ迅速に応答する姿勢が大切である。

 水に溢れる国で水は売り物にならないとしても水のない国では高く売れるとは、ごく当たり前の話ではある。けれど、文脈を超えて動いてみようという意識は、自身の無意識的なスタイルを反省して無自覚的なビリーフを意識しなければ、なかなか見いだすことの難しい盲点となる。この業界で育ってきたからと思いこんで関わる業界を限定するのではなく、まったく関係のない業界に接木してみれば見たことのない反応が起こるかもしれない。

 破壊的イノベーターの生き方をこのように素描してみれば、ハーミニア・イバーラの分析から考えてみたインプロ的キャリアデザインの形と近似してくる。クリステンセンによれば、破壊的イノベーションを推進するには小回りの利く小柄な組織が適していて、大企業では大きすぎる。イバーラもはじめからゴールを決めつけて大きく構えるのではなく、致命的な失敗をしない程度に試行錯誤を繰り返して小さく勝っていくのがキャリアチェンジに有効な手立てとして勧めていた。


イバーラのキャリアチェンジ論と同様に破壊的イノベーションも想定とは違った文脈で花開くものである。そして、キャリアチェンジの過渡期は不完全な情報しか手に入らない不確定な状況のカオスに耐える期間でもある。このときひとつの方法や見方に固執するのは危険だ。別の可能性はないかをつねに模索することも忘れてはならない。

 破壊的イノベーションの考え方を個人的な人生を生きる実存の文脈に落としこんだとき、キャリアチェンとイノベーションは同一のものとなる。畢竟、イノベーションを起こすことのできる人材とはキャリアチェンジに耐えることのできる人材であり、最後には幸運のシンクロニシティを引き寄せることのできる人材にほかならない。これこそ優れたインプロバイザーの資質として語ってきたことではなかっただろうか。


   ***


営利企業のイノベーションであれば、利益に紐づかせないわけにはいかない。そこに難しさがある。しかし、ライフデザインのイノベーションだけに限定するならば、やってみること、経験することそのことが大きな資産となる。いま立っている文脈の地平から一度離脱して無重力の空間を漂い別の文脈の地平に降り立つこと、自身の身にイノベーションを起こすにはこの地道な反復のほかにはない。そのときインプロバイザー最大の力が多様な文脈を渡り歩く能力であったことを思い出してほしいのだ。

 インプロバイザーは自身の身体に宿るスタイルを発揮しながら微細な他者のオファーにも関わることができる存在である。フレイレがその「わざ」で自身のミッションを見いだしたようにインプロの経験者も自身の「わざ」から関わるべきアフォーダンス、すなわちミッションを見いだすことができるはずだ。

 顧客とは匿名な「ひと」の塊である。しかし、ミッションを伝える他者の呼び声は個別の固有名をもった「誰か」や「何か」だ。「顧客」のニーズに応えようとすることは他者の欲望を欲望することに等しく、幻影をつかみ損ねて終わるだけかもしれない。けれど、他者の呼び声はつねに個別的で具体的だ。だから、それに応えることはすくなくとも徒労に終わることはないだろう。イエス・アンドには何らかの反応がかならず存在するわけであって、もちろん、それが大きな成功を生みだすものではないにしても次のきっかけを用意する縁にはなるはずだからだ。


フレイレは貧しい人たちの呼び声を聞き届けてしまった。山中教授はIPS細胞の呼び声を聞き届けてしまった。自分の見知っていた当たり前の領域を超脱して見知らぬ世界のメッセージを受信してしまった経験が彼らにはある。きわめてレヴィナス的な経験だと言えよう。レヴィナスによれば他者の到来は師の教えに等しい。教えは有限な内部に外部への裂け目をいれて無限へと開いてしまうものであった。

 外的な他者と関わりあうことは「訓練された無能」が自明にしている前提を揺さぶるものにほかならない。当り前の前提が揺らいで綻びや欠損がいくつもできたとき、そこから新たなイノベーションへと抜け出ていく突破口が開かれていく。新たな裂け目をすり抜けていくのは、まずは目にした自分からである。でも、それを呼び水として周囲の環境に変化を及ぼすことができたとしたら、そこが真のイノベーションのファンファーレとなる。そのときにはフレイレがして見せたように訓練された無能へと陥っている共同体を変えることさえできるかもしれない。



8-4-2. 汝の欲望を諦めてはならない

「イノベーション」という言葉だけを独り歩きさせとおくと「次のビジネスモデルをつくるイノベーションとか」「新しいビジネスチャンスで勝利をつかむイノベーション」といったどうにもマッチョな言葉を引き寄せてしまいがちである。それを引き受けて生きられる人はそれでもいいけれど、そうではない人もいるわけで、そうでなくてもいいはずだ。

 イノベーションという言葉は稀有壮大で誇大妄想的なものでなくてもよいし、もっと身近で具体的に手をつけられるものでよいし、まず「私」にとって価値のあるものでなければならないだろうとぼくは思っている。インプロに学んだ身としてクリステンセンのイノベーション論に共感するのは、彼のイノベーション論が小さなイノベーションの試行錯誤を肯定するところにある。ぼくが実存のスタイルとして取りいれたいのはこのミクロのイノベーションなのだ。

 ミクロのイノベーションもイノベーションなので「いまだ存在しないもの」を生みだすことには変わりない。より正確に言えば、他の人には見えないけど「私」には見えているというアフォーダンスに適切に「イエス」と言うこと、大多数の人には現在まだ見えてないものに眼差しを向けて多くの人と共有できるものとすることである。


   ***


パウロ・フレイレはレシフェに生きる貧しい人たちの暮しを見てしまった。世間のほとんどの人にとっては当たり前のもので目を止めることさえなかった日常のなかにフレイレは見てしまったのである。そのときから彼はいまだ見えない未来、しかし、あるべき未来のために生きることを約束したのだった。

 畢竟、望ましい未来とは現在は望ましくはない状況にある他者との密かな約束ではないだろうか。ミクロのイノベーションは「見えるもの」を通して「見えないもの」と交わす約束なのだと思う。

 「見えるもの」はそれぞれの目に異なる。それぞれの身体に刻まれた記憶の差異が「見えるもの」に偏差を与えるからだ。ミクロのイノベーションは身体に宿る経験の語りから始めるイノベーションであり、それぞれの身体に宿るそれぞれのナラティブから生成するものだ。

 だから、ミクロのイノベーションは誰にもでも起こすことができる。なぜならば「あなた」の周囲の世界には必ず「あなた」にしか見えないものがあるからだ。この広い社会に波立たせる変化が起こせるかは別にしても共に生きる人との間にはささやかでも起こせる変化があるはずである。


ソーシャルイシューを取り扱う活動にイノベーティブに携わる人が近年増えてきた。彼らに共通する姿勢は「自分ごと」として関われる領域を変えていこうという姿勢である。大きく天下国家について考えることはなくても、当事者として関われる範囲のことに目を向けるミクロの視線がそこにはある。

 2014年にマギーズセンター東京設立のクラウドファンディングに参加した。マギーズセンターとは英国に存在するがん患者の暮らしを支える場のことである。がん患者やその家族なら誰でも利用することができて、病気のことや生活のことを相談したり、ヨガやレクリエーションを楽しんだり、居合わせた人と会話したり、読書をしたり、自由に使うことのできる場である。そのマギーズセンターを東京に作ろうというプロジェクトだ。それ以前から東京都新宿区にある「暮らしの保健室」にちょくちょく出入りしていたから「秋山正子の願いがついに叶うのか」と思って参加したのだった。

 秋山正子さんは訪問看護師である。英国のマギーズセンターに感動して同じものを東京にと思いたち、都営住宅戸山ハイツの一角で「暮らしの保健室」を始めた。戸山ハイツは高齢化著しい団地であって高齢独居の住民も多い。そういった人たちが心を休められる場所として出入り自由の「暮らしの保健室」はある。看護師や医療福祉に対応できる人が常駐していて世間話から相談までいつでもできる。「暮らしの保健室」が仲介することで適切な行政サービスを受けられた患者さんも数多い。

 その秋山さんのもとを訪れたのがテレビ局で働く鈴木美穂さんだった。彼女は若くして乳がんに罹患した。その経験から若年性がんサバイバーのためのフリーペーパーを作る「STAND UP!!」という団体を立ち上げて活動してきた。そして、彼女も英国のマギーズセンターの存在を知って、これを日本にもと決心した。そのとき「暮らしの保健室」の存在を知って秋山さんを訪ねたのだった。そこからの流れはあっという間だった。クラウドファンディングは2000万円を突破してマギーズ東京はいま豊洲に建設中である。

 マギーズ東京に限らない。世に活躍するソーシャル・イノベーターたちの活躍の原点は大半が個人的な体験に根ざしている。シングルマザーになってしまったことや、重い病気にかかったこと、職を失ったこと、自身が困難な境遇を体験したり、家族や身近な人に痛みを抱えた人がいたりした経験がより望ましい未来を求めて彼らや彼女らに一歩を踏み出させてしまったのである。



アンティゴネ

古代ギリシアの戯曲家ソポクレスの戯曲『アンティゴネ』は一歩を踏み出してしまった女性、テーバイ王女アンティゴネの悲劇を題材にしている。アンティゴネの二人の兄、ポリュネイケスとエテオクレスは長くテーバイ王位をめぐる争いを続けていた。テーバイを追われたポリュネイケスは、ある日他国の援助を受けてエテオクレスの守るテーバイに攻め寄せてくる。二人は激しく戦う。最後は刺し違えて共に命を落としてしまう。その後、空位の王座に就いたのはアンティゴネの叔父クレオンだった。

 クレオンはテーバイの法に則り反逆者であるポリュネイケスの埋葬や葬儀を禁じた。だが、アンティゴネは妹としてポリュネイケスの埋葬を強行してしまう。アンティゴネは禁を破った罪で捉えられ、クレオンの前に引きだされる。しかし、国家の法の厳正さを主張するクレオンに対して、アンティゴネは自然による兄妹の情愛の法を主張して譲らない。アンティゴネを地下に幽閉するようにクレオンは裁きを下す。地下でアンティゴネが自ら首を吊って命を落とす場面で戯曲は幕を閉じる。

 アンティゴネは自己の信念を譲ることがない人だった。たとえ、人の法に背いて命を落とすことになってもである。アンティゴネの譲ることのない姿勢は後年ジャック・ラカンが「欲望を決して諦めない」という命題で精神分析の倫理の模範とすることになる。たしかに彼女は自身の信念を諦めなかった。精神分析風に言えば欲望を譲ることをしなかったのだ。

 しかし、アンティゴネの欲望がユニークなのは、彼女の欲望が「他者の欲望を欲望する」という欲望の定式から逸脱していることにある。「他者の欲望を欲望した」ならば、他者の眼差しを求めて他者から認められることを求めて、きっとアンティゴネは自身が称えられるような素振りをしたことだろう。でも、そうではなかった。たったひとりになったとしても誰のためでもない自分のためだけの欲望を貫いたのである。


といっても、アンティゴネの欲望はただ自分のためだけのものでもなかった。自身のものであることを超えて兄ポリュネイケスに捧げられたものでもあったのだ。人間の法の裁き、畢竟「ひと」の評価がどうであれ、ひとりの人間として他に替えることのできない唯一の兄の存在を肯定しつづけたのだ。そうしてアンティゴネは兄への約束を守ったのだった。それが彼女の唯一無二なるスタイルだったのである。

 ラカン的な欲望とレヴィナス的な責任=応答可能性とメルロ=ポンティ的なスタイルは身体に他者を引き受けることにおいて一致しうるとぼくは『アンティゴネ』を読みながら思った。メルロ=ポンティのスタイルは「ひと」なら見ようともしない世界の片隅に幽かな痕跡を見止めさせる。見たからには見なかったことにはできず、そこにレヴィナスの責任=応答可能性が生じる。そして「ひと」が見ようとはしないものをあえて見ようとする振る舞いはラカンの「欲望を諦めない」という振る舞いと一致する。最後にこの経験の記憶は身体に保存されて次なるスタイルを用意することとなる。もちろん、そのスタイルが発露されるときグッドネイチャーは輝くはずだ。

 ミクロのイノベーションはここに生まれるものだと思う。自身の身体に生まれるミクロの触発を発火点にして周囲の環境に影響を与えていくリーダーシップをミクロのリーダーシップとするならば、そのリーダーシップは他者応答のリーダーシップ、他者への奉仕と責任に貫かれたリーダーシップであるはずだ。強さや大きさを求める力の前では抑圧され抹消されてしまう弱さや傷つきやすさに応えるリーダーシップである。これこそ日々繰り返される日常、レールの定められた一方向の流れ、無限に続く悪循環、それらに歯止めをかけえる唯一のリーダーシップではないだろうか。


   ***


なにがなんでも世間の流れに逆らって刃向かえばよいものでもないし、自分がやりたいようにやればいいわけでもない。状況のなかで与えられた役割を果たすこともまたとても大切なことである。そうではなくて「私」が引き受けるべき他者への応答を見過ごさないことが「私」の果たすべきミッションを告知させ「私」を唯一無二の存在へと変容させることを言いたいのだ。

 世界の内部至るところに張り巡らされた権力の関係を引き受けながら、しかし、それに屈服せず「私」の力場へと変容させることをフーコーは「自己のテクノロジー」と呼んだ。「自己のテクノロジー」としての「わざ」は主体(エージェント)が単体でするものではない。周囲との関係性のなかから浮かびあがってくるものなのだ。そのようにして生まれた「わざ」は周囲の人を巻きこみ、場の流れを変えてイノベーションの萌芽となる。他者に応答するリーダーシップこそ、自己を生まれ変わらせ唯一の本来的な存在へと変容させてくれるテクノロジーだ。

 イノベーションのリーダーシップはまだ誰の目にも「見えないもの」であるものを「見えるもの」へともたらすことだ。リーダーだけに見えている「見えないもの」としての未来の姿を皆に見える「見えるもの」へともたらすこと、それを「ヴィジョン」と呼ぶのであれば、ヴィジョンを示すことで周囲との関係性を変化させていくことこそリーダーシップのエッセンスである。ヴィジョンを見せることもまた「テクノロジー=わざ」の現れにほかならない。


【了】

画像著作者:halfrain
画像は著作権フリーのものを使用しています

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