0.Prologue はじめに(後)
ねぎぽんです。ワークショップのデザイナー兼ファシリテーターです。マインドフルネス瞑想やインプロを取りいれたワークショップや読書会をしています。
「マインドフルネス瞑想」「哲学」「心理学」「心理療法」「教育学」「学習理論」「組織論」といった多種多様な領域の知を、インプロという即興で演じられる演劇の語彙を使って一つに縫い上げようという、無体な試みとも思えるテキストを公開しようと思っているところです。
「Prologue」の前段では、ぼくの人となりをご紹介いたしました。後段では、前もって、これから公開されるテキストの構成をご説明しておきたいと思います。
0-2.Prologue
テキスト全体は8つのセクションに再構成されて書かれている。以下の通りの構成である。
01 Mindfulness
02 Impro
03 Brief Therapy
04 Philosophy
05 Motivation & Leadership
06 Synchronicity
07 Mastery
08 Innovation
「01 Mindfulness」は、マインドフルネス瞑想について書いてある。マインドフルネス瞑想の概要と、それを経験してぼくが何を思ったのか、それが書かれている。狙いは、いまや最先端のビジネススキルとして、あるいは、ストレス対策の有効なメソッドとして認知されるようになってきたマインドフルネス瞑想を「入口」にして、哲学を語ることである。瞑想を楽しむように、哲学を楽しむこともできる、その可能性を示したい。マインドフルネス瞑想には、東洋思想、そして、フッサールやハイデガーの現象学に通じる考え方があることを語るだろう。
「02 Impro」は、インプロについて書かれてある。ぼくがインプロの師から教わったインプロのエッセンスを、様々な切り口で描写する。狙いは、マインドフルネス瞑想をインプロの語彙によって再構成することである。インプロとマインドフルネス瞑想には共通するものがあって、マインドフルネス瞑想に大きな力があるのなら、インプロにも同じ力があるはずだという主張をすることになる。
「03 Brief Therapy」は、インプロと心理療法の関係性について書いている。インプロとマインドフルネス瞑想に親和性があるのなら、マインドフルネス瞑想を接点として、インプロと心理療法にも親和性を見いだすことができるはずだ。それを「ブリーフセラピー」という心理療法の一群に見ようとする。狙いは、心理療法をインプロの言葉で語りなおすことであり、セラピーの世界にインプロの面白さと有用さを伝えることである。
「04 Philosophy」は、インプロの語彙によって哲学を描写している。取り扱う哲学者及び思想家は、ジョルジュ・バタイユ、ジル・ドゥルーズ、エマニュエル・レヴィナス、モーリス・メルロ=ポンティ、ヴァルター・ベンヤミン、ジャック・デリダ等である。彼らの思考はすべてインプロから切り取ることができる。一般に哲学は難解で人を寄せ付けないものとして思われている。それに対して、インプロは誰でも大笑いできる親しみやすいエンターテインメントである。しかし、そのインプロで哲学を語ることができることを伝えたい。
「05 Motivation & Leadership」は、インプロと教育理論について書いている。取り扱うテーマは、組織学習論や経営理論でもよく言及される「モチベーション」と「リーダーシップ」である。モチベーションのセクションでは、キャロル・ドゥエックの「マインドセット」やデシ&フラストの「内発的動機づけ」、チクセントミハイの「フロー」などを、リーダーシップのセクションでは、グリーンリーフの「サーバントリーダーシップ」やエドガー・シャインの「問いかける技術」、デヴィッド・ボームの「ダイアローグ」などを取り扱う。狙いは、インプロを、ただのアイスブレイクやレクリエーションを越えた学びのツールとするために位置づけていくことにある。
「06 Synchronicity」は、インプロによる「幸福」の引き寄せ方、シンクロニシティについて書いている。ぼくの人生には、運命の出会いや偶然の幸運が繰り返し訪れてくれたと思っている。ただ、それを「引き寄せ」ることができたのも、インプロで培ったスキルのおかげだとも思っている。そこから、マーティン・セリグマンの「ポジティブ心理学」やジャック・メジローの「変容的学習」について筆を伸ばしていく。キャリアチェンジやトランジションの過ごし方にも触れるだろう。狙いは、インプロを通じて、経験から学ぶ技術、幸運をつかみ取る技術を具体的に素描していくことだ。
「07 Mastery」は、インプロに熟達することについて書いている。「熟達」は成人の教育研究において重要なテーマである。人はどのように学び、どのようにして人に教えていくのか、それをインプロの学びと熟達に重ねて考えていくのが狙いである。インプロに学ぶことで、仕事を熟達する仕方のコツも身に着けることができる。仕事に熟達して自身の力を発揮することは、自身の幸福を見いだすことであり、他者と共に学ぶ共同体の有り方に目を向けることでもある。取り扱うテーマは、「アフォーダンス」「省察的実践」「発達の最近接領域」「正統的周辺参加」など。
「08 Innovation」は、インプロとイノベーションについて書いている。インプロの学びは、クリエイティビティを高め、イノベーションを起こすと、まことしやかに言われていたりする。けれど、それって、本当のところどうなのかという問いが出発点となる。イノベーティブな人材となるためには、イノベーションを実存の様式とするためにはどうしたらよいのかという問題意識から書かれることになるだろう。ただし、ぼくの好みは、純粋なビジネスよりも、ソーシャルビジネスに寄っているので、その文脈で語ることになる。
ひとまずテキストはインプロではなくマインドフルネス瞑想から始まる。インプロはあくまでも演劇だ。いきなりインプロから始めても演じることの一種として見られてしまうだろう。でも、そうではないことを伝えたい。だから、マインドフルネス瞑想に触れることから始めて間口を広げたところでインプロへと接続する運びを考えている。そこから、哲学、心理学、心理療法、教育理論といった領域へと記述は飛び火していくことになる。
ただ、もとより学術的な記述にはならないだろう。体系的な叙述であるよりは断章的な叙述が連続することになることはあらかじめお断りをしておきたい。それゆえに、はじめに確認しておかなければならないことがある。
たとえば、心理療法について語っている部分がある。しかし、ぼくは医療者でも療法家でもない。自分自身に対して実践してみせたことはあってもクライアントがいたわけではない。古今東西の哲学や教育理論についても語る部分がある。しかし、ぼくは英語やドイツ語やフランス語の原典を読んだわけではない。ほぼすべて翻訳書で読んだにすぎない。いずれにしてもアカデミックなリサーチに相応しいものではない。
ただ、嘘をつきたいわけではない。学べるものは可能なかぎり正確に学ぼうとしたし、学んだことを自身のワークショップで実践して確かめたりもしている。すくなくともそれを経験したぼくにとっては真実なのだ。
このテキストはぼくの体験した真実を言葉にしたものである。しかし、データの母集団数「N=1=ぼく」という話であることもまた否定できない。普遍的な正しさを主張することも学術的な成果を問うこともできず、どちらかといえば、そうあって欲しいという願いに近しい。
突き詰めてしまえばただの個人的な妄念にすぎないかもしれないものを、それでも公開する理由といえばぼくが生きた痕跡を残しておきたいという思いがあるからと、「インプロの可能性を広げたい」という思いや「多様な知をひとつにして力をあわせられるものにしたい」という思いはいまも悪いものではないと思うからだ。
***
最後にすこしだけ回り道をさせてほしい。ぼくの願いは「厚生労働省と文部科学省に分断されてしまったケアを再統合すること」にある。残念ながら厚生労働省主管のケアは「医療」と呼ばれ、文部科学省主管のケアは「教育」と呼ばれ、本来は同じケアであるはずなのにこの分離が自明であるかのように思われている。
ぼくは普段から医療関係者とも教育関係者とも接する機会をもとうと努めていて、その機会のある度にこの悲しい断絶の話を振るのだけど、ピンとくる人にはなかなか出会えない。教育の人は本当にピンと来てくれないことが多い。だけど、医療関係者にはピンと来てくれる人が少なからずいてくれる。なぜなら、医療が直面している課題の根がまさにここにあるからだ。
医療はいま大きな転換点にある。2016年の診療報酬改定、2018年に始まる第7次医療計画で医療は急性期中心の医療から在宅医療へと大きく舵を切っていく。膨張を続ける医療費を抑制するためにももはや医療機関で患者を抱えることは難しくなっている。
いままで医療の軸は救急救命を中心とした急性期医療であった。急変した患者、事故にあった患者を救急車で運んで、手術や投薬処置をして、救命して、家庭に帰す、それが医療の中心だった。
しかし、少子高齢化が加速度的に進んで超高齢化社会に突入した現在、医療の中心は生活習慣病や慢性疾患に移っている。言わば「治ることのない病」である。高血圧や糖尿病を手術で切って治すことはできない。治らない病に医療は無力だ。医療は治すためのものだからだ。
治すことのできない病をケアするためには週に一回の通院で数分の問診だけをしていても明らかに不十分だ。医療機関から離れた他の圧倒的な時間をどう過ごすかが大きな課題となる。服薬のコンプライアンスを守らない患者がいる。でも、その人が家でどういう暮らしをしているのかを理解せずにそれだけを責めても何になるだろう。もはや医療は医療機関だけでは完結しないのだ。患者が生活をする地域社会へと開かれていく必要がある。
治らない病をケアするためには、病をもった当事者にその病とどうつきあっていくのか、これからどういう風に生きてどういう最後を迎えたいのか、そういう問いを自分事として引きうけて問い直してもらう必要がある。もちろん、当事者だけ相手にしても不十分だ。それを支える家族、友人、地域住民との連携も不可欠である。
地域に暮らすのは高齢者だけではない。障碍者、不登校児童、がんサバイバー、うつ病患者、シングルマザー、失業者、ケアを必要としている人は無数にいる。でも、そこまでいけばもう医療の領域ではない。むしろ、教育の領域に踏み込んでいく話なのだ。
だから、いま地域医療や総合診療に関わる医療者は、教育の知見を心の底から欲している。そこから学びたいと思っている。それなのに厚生労働省と文部科学省の垣根が多くの人の目を曇らせている。実にもったいないことだと思う。
ぼくの両親は学校の教師だったから、学校という組織の内実はよくわかる。学校も病院と同じくらい法律と行政に縛られた世界だ。しかし、それで本当に必要なケア=教育が可能だろうか。
多様化がこれだけ進んだ時代、学校という組織にカバーできるケアの範囲はとても限られていて、本当に必要なケアを学校という制度だけで届けるのはきわめて難しい。学校は一昔前の病院と似た問題を抱えているように見える。もはや教育も学校施設の内部だけで完結するものではない。それなのに現在の学校はすべての問題を学校で引き受けてしまっている。不登校、いじめ、非行、学力向上、進路指導、すべて学校の教師が責任を負わされて現場はパンク寸前だ。だから、医療が病院の外に協力者を求めていったように教育も学校の外に助けを求めていく必要があるのではないか、と思う。
ぼくの夢と希望は地域をケアするという共通目的のため医療機関と教育機関が共に協力して連携できる社会を生みだすことにある。力を合わせられるところは多々あると思う。もしそれが叶うならどれほど素晴らしいことだろうか。
いま振り返ってみれば、枠組みや領域を超えて多様な知を学び、人と会い、経験を重ねていった、ぼくのエネルギーの根源にはバラバラにされてしまった世界をもう一度ひとつなぎに修復したいという希望があったからなのだと思う。
***
ぼくは未来を作りたいのである。そのための「仲間」が欲しいのである。ぼくの書いたテキストは、アカデミックな正しさよりは、実践の記録としてあるものであり、そして、ぼくとともにスタートを切ってくれる未来の仲間に捧げたいものなのだ。それが、このテキストを公開する動機である。
【了】
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