5月18日 エッセイと言葉と私

 私がエッセイというジャンルに触れたのは小学校高学年、あるいは中学生であったように思う。正確に覚えてはいないが確かそのくらいだ。読んだのは江國香織さんの『やわらかなレタス』。一気に読んだのではなく、夜な夜な少しずつ読んでいた。

 その本は最初私のものではなかった。母が読んでいたもので、ある日たまたま見つけたのである。タイトルに心惹かれ、目次にも興味をもったことを覚えている。一番はじめの話は「あたたかいジュース」と題してあるのだ。どういうこと?と疑問を抱いたことで、この本を読もうと思い、夜な夜な狭い範囲を照らすだけのライト(あれは何ライトと呼ぶのだろう…ちょっと思い出せない)をつけて読んでいた。エッセイというのは比較的一章が短いので、当時の私でもすぐに読み終えることができていたのである。自分で買ったのは高校生のとき。友達との待ち合わせに時間があり、本屋に寄った先で見かけてすぐに手に取っていた。そのとき一緒に『つめたいよるに』という短編集も買った。

 初めて読んだときには読めなかった漢字も、そのときには読めるようになっていた。意味がよくわからないと感じていた単語も、それほど悩むことなく読むことが可能になっていた。やっぱりこの本好きだ、と読み進めていたように思う。文体や表現の仕方、どういうところが好きなのか、明確に詳しく説明する言葉が思い付かないのが悔しい。たぶん話したら長くなってしまう。

 エッセイを自分で書いてみたいと思ったとき、まっさきに思い出したのはこの作品だ。そしてきっと意識しているのだと思う。知らず知らずのうちに。意識したとて、もちろん自分に江國さんほどの文章力は兼ね備わっていない。それが歯痒いところだ。しかし私はエッセイを読むことで、作家となにかしらの共通点を見つられることが喜びであると考えている。だから、この私の文章も誰かの心のなかで「ああ、わかる」と思ってもらえたなら大成功だ。

 私は江國さんのエッセイを読んでいるなかで、たくさんの「わかる~」があった。好きな作家と共通している(勝手に思っているだけ)ことがあると、その作家を身近に感じることができる。なんとなく嬉しい。先程の回で「言葉の意味が気になると、それをぐるぐると考えだす」という私の特徴について挙げたが、まさにそれだ。『やわらかなレタス』のなかに「最近の至福」という章がある。江國さんには「言葉に衝撃を受けるとその場から動けなくなる癖」があり、その理由について「言葉で中身を理解したい。言葉がきちんと機能していることを、確かめたい。」と語っている。私も一度文章の表現や言葉について気になると、自分のなかで納得するまで考えてしまう。考えついたものが正しいのか、正しくないのかは別にどうでもいい。ただ自分のなかで整理して、落ち着けたいだけ。論文にして発表するにはもちろん考察も根拠も足りないし、答え(文学においてはないと思う。言語学には通説というものはあるが、それだって明確に答えとは言い切れない)を知ってすっきりするのとはまた違う。考え、イメージして表現や言葉に浸りたいだけなのである。それこそ言葉に出会うときの醍醐味なのだろうなと私は思った。これからもきっと、新しい表現に出会う度わくわくし、今まで使っていた言葉にさえふと疑問が浮かぶときが出てくるのだろうな。

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