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雑貨屋に売っている服とか着てそう

高校生の頃「雑貨屋に売っている服とか着てそう」と言われた。
よく分からないまま「ありがとう」と言ってしまったが、あれはギリギリ悪口だった。

雑貨屋は悪くない。雑貨屋に置いてある服も悪くない。

雑貨屋の服は高級品の部類だ。
裏側に当てた手のひらが透けるようなブラウスが、なぜか八千円や九千円もする。

じゃあ何が気に入らないのか。
雑貨屋の服が持つほっこり感というか気の抜けた感じが、ありたい自分とはあまりにもかけ離れていたのだ。


わたしは吹奏楽部の中で、ぶっちぎりのイジられキャラだった。
同級生にはもちろん、後輩にも顧問にもイジられていた。

わたしの名字の一部をもじった挨拶が部内で流行し、「せんぱ〜い!おは◯◯(わたしの名字)!!」と手を振られたときは「業」の二文字が浮かんだ。

珍名で、いじられキャラだから仕方ないのだ……と。

あれは、いじめとイジりの境界線上だった。


同級生に、わたしとは対照的にハッキリ物を言うタイプがいた。
彼女は、良く言えば正義感にあふれ、悪く言えば正論で逃げ場のない追い詰め方をする人だった。

正しすぎる彼女を一部の同級生は怖がり、「仲良いでしょ? 伝えといてよ」とわたしに部活の事務連絡まで伝言させた。

あの子に「雑貨屋に売っている服とか着てそう」とは言う人はいないだろう。
そう思うと彼女が羨ましかった。



ギャザーやレースをたっぷりと使い、柔らかな雰囲気を纏うあれらの服は、「やさしさ」「おおらか」という単語を連想させる。

イジる側から発せられた「雑貨屋に売っている服とか着てそう」という言葉を、わたしは自宅で噛み締めた。

「あなたは『やさしく』『おおらか』な雰囲気の人だよね」という意味だった?
もしかして(だから、まぁ怒れないでしょ?)と煽られていた? 
バカにされていた?

妄想に近い想像をするほど、悔しさがじわじわと広がった。
弱さの象徴のように見えたレースやギャザーからは、自然と足が遠のいた。


高校を卒業して十三年。
わたしは白いシャツとグレーのワイドパンツに、シルバーのネックレスをつけて同窓会に参加した。

大人になったわたしたちからは、イジリも、口喧嘩も、スカートめくりも自然と消えていた。

気に入らないことがあると音楽室のドアを蹴っ飛ばしていた男子は、「俺、細かいの持ってるからさ」と会計の取りまとめをやってくれる。

担任に「はぁ?」と言い返して教室を凍らせていた友人は、会場への道筋をサッと調べ、他のメンバーを先導してくれる。

そして、一番叱られ、指揮棒を投げつけられて泣いていたわたしは、なぜか顧問のご指名で毎年幹事をやっている。

顧問の言葉をそのまま借りると「お前が一番やさしい」かららしい。

そのありがたいお言葉には「先生、人を指さしながら話すのはやめて下さい」とピシャリと返しておいたが、御歳72歳の顧問はヘラヘラ笑うばかりだ。

それでも十三年経って、言い返せるようになったのだから上々だ。

友人との距離も、顧問との距離も、大きく変わった。
わたしは、大人になった今が一番心地よい。


そういえば「雑貨屋に売っている服とか着てそう」は、最近言われない。

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