サッカーこそソ連を生きる支えだった―大平陽一『ロシア・サッカー物語』
1.現代サッカーを学ぶためのソ連
サッカーの歴史を深く知る上で欠かせない地域はいくつもある。母国イギリスはもちろん、ブラジルなどの南アメリカ、スペインやドイツ、イタリアなどの西ヨーロッパ諸国は欠かせまい。
僕がさらにロシアの存在も加えたい。特にソ連時代のサッカーは必修科目だ。なおここでいうソ連時代のロシアには、現在のロシアが侵攻中のウクライナなども含まれる。
ソ連のサッカーは今なお伝説と称されたり、現代サッカーの源流のひとつとなったサッカー人を生んだ。
ひとりはGKで唯一バロンドールを獲ったレフ・ヤシンだ。W杯での最優秀GKはかつて「ヤシン賞」と、2019年からはじまった世界年間最優秀GKの章は「ヤシン・トロフィー」と呼ばれている。
もう一人は、ウクライナの名将ヴァレリー・ロバノフスキーだ。ディナモ・キエフを率いてソ連リーグ優勝に何度も導き、ほぼキエフの選手で構成されたソ連代表を1988年欧州選手権準優勝に導いた。彼が提示したサッカーは、その後トレンドになるプレッシングなど現代サッカーの基礎となる要素を先取りしたものである。
知れば知るほど興味深いロシアサッカーの歴史。そんな歴史エピソードをあれこれ集めたのが本書である。
著者の大平さんはソ連時代からロシアサッカーに精通したロシア文化の研究者だ。昨年、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターで行われたサッカーリーグの秋春制に関するシンポジウムにも、コメンテーターとして参加されていた。
2.サッカーでなら国家に一泡ふかせられる
僕ら日本人は「自由主義陣営」と呼ばれているグループの住人だ。このグループと対にあったのが「社会主義陣営」である。この対立が「東西冷戦」と言われるものだ。我々にとって社会主義は積極的に知ろうとしなければ身近に感じられるものではない。
ソ連と聞けば今はもう「管理社会」や「共産党一強」といったマイナスな印象を持ち、そのあり方が現在の「プーチンのロシア」につながっていると思う人もいるかもしれない。それは一面としては合っているだろうが、サッカーを切り口にソ連という国を見ていくと違った顔も見えてくる。
ロシア革命と内戦で荒れた世情が落ち着いたころから、かつてロシアにあったサッカークラブを再編などしてソ連に設立されていく。
まず国家機関が手を付けた。1923年には、治安機関の職員・家族のための「ディナモ」や赤軍(ソ連軍のこと)兵士のための「軍中央スポーツクラブ」が誕生した。前者はソ連の各地域に作られ「ディナモ・地名」の名前で各地の強豪クラブとなっていく。もちろんディナモ・キエフもそのひとつだ。後者は現在「CSKA」の名前で知られている。本田圭佑選手が所属していたCSKAモスクワだ。
1930年代に入ると労働組合系のクラブが登場する。自動車工場系の「トルペド」、鉄道公団系の「ロコモチフ」などだ。そして1935年に産業組合が資金を提供して「スパルタク」が誕生する。今もロシアサッカーの雄であるスパルタク・モスクワだ。
これらのクラブの中で特異な存在が「スパルタク」だ。バックについている産業組合は国家から比較的自由な存在で、権力に直接従属していない。ディナモや軍中央スポーツクラブはまったく違う。スパルタクの関係者やサポーターは「国家に従属していないクラブ」の一員であることを誇りとしていたそうだ。
「お上に一泡ふかす」ことが重罪や死に直結し兼ねない社会の中で、サッカーは一泡ふかす絶好の機会として機能していたのかもしれない。国家の妨害がなかったわけではないことは本書にも記されている。しかし、国家をやりこめるものとして他のものよりサッカーが機能したのは事実なのではないだろうか。
3.熱いサポーターの嘆きは今も昔も変わらない?
1930年代、ソ連には「大粛清」の嵐が巻き起こった。当時の権力者スターリンによる政治弾圧である。政治的ライバルだけではなく一般人や外国人も言われなき罪に問われ多くの人々が処刑されるか、獄死した。追い詰められて自殺を選んだ者もいた。
『三人のふとっちょ』を書いた作家・詩人のユーリイ・オレーシャは、スターリンが示す芸術路線に賛同できず1927年以降ずっと沈黙を続けていた。作品を発表して明確に意見を示したわけではない。それでもオレーシャは芸術家の仲間と共に粛清におびえ不安でいっぱいだった。
作品を発表できず孤独な毎日を送る彼を支え続けたのは、愛するスパルタク・モスクワの試合を観戦することだった。彼の日記にはサッカーに関する記述も散見される。こちらは1940年の日記の記述と、大平さんのコメントだ。オレーシャの言葉は、まるで現代のSNSで書かれたサポーターの嘆きのようだ。
4.世界的作曲家を死ぬまで救い続けたサッカーの魔力
稀代のサッカー狂いだった世界的作曲家がロシアにいる。ドミートリイ・ショスタコーヴィチだ。本書に書かれているエピソードを読むと仲間意識が芽生えるサッカー好きも多いだろう。
ディナモ・レニングラードのサポーターだったショスタコーヴィチは、住んでいたレニングラード(現・サンクトペテルブルク)からモスクワ、キエフ(ウクライナ)、トビリシ(ジョージア)などのあらゆるスタジアムにかけつけた。移動手段は鉄道である。愛するクラブのために鉄道でアウェイ遠征する作曲家、もとい熱狂的サポーター。親近感がわいてこないだろうか。
サッカーが好きすぎるあまり彼はある日「選手になれないならせめて審判になろう……!」と思い立つ。作曲家としてちゃんと知名度があるときの話だ。本業が多忙すぎてその思い付きは果たせなかったものの、審判の講習を実際に受けようとしていたそうだ。日本のサポーターの中にも好きすぎて審判の資格とっちゃう人、たまにいるよね。
そんなショスタコーヴィチも自身の曲が国家の不興を買ったことから粛清におびえる日々を過ごした。結局、彼は『交響曲第5番』の発表で名誉回復を果たしソ連を代表する音楽家となった。だが、粛清におびえた日々を踏まえて彼は自分の考えを表に出したり、はっきり分かる形で楽曲に込めることを自制することになる。
だが、どんなに不安だろうと彼はサッカーから離れることがなかった。『交響曲第5番』はこれで不興を買うと二度と曲を書けなくなるかもしれない、生きるか死ぬかの曲になるはずだ。そんな曲の制作時期にも彼は変わらずサッカー観戦を続けている。どんなプレッシャーや不安があろうとサッカーだけは揺らがないものとして存在していた。
彼は詳細な観戦記を友人に手紙としてたびたび送っている。そこにはチームに対する批判や意見が自由に書かれていた。音楽の評価や批判ができない中、サッカーだけが彼を雄弁にさせたのだ。「サッカーは自由」という言葉を体現するような楽しみ方である。
最後に彼の死にまつわる話をする。病状が少し良くなった彼は医師に頼んで「止められていたこと」を解禁する。タバコか、酒か、大好物か。いや、違う。彼が選んだのは「TVでのサッカー観戦」だった。1975年USSRカップ決勝、アララト・エレバン(アルメニア)vsゾリャ・ルハンシク(ウクライナ)を楽しんだその日に、彼は亡くなった。68歳。あらゆる名曲を作った彼が最期に楽しんだのはサッカーだった。
【本と出会ったきっかけ】
昨年の北大での秋春制に関するシンポジウムで著者の大平さんを知り、
どんな研究をされているかGoogle検索したところ、この著書が見つかった。
5.参考資料
◎北海道大学でJリーグシーズン移行のシンポジウムを聞いてきた
著者の大平さんがコメンテーターとして参加したシンポジウムのレポート。僕はこれをきっかけに本書を知った。
◎書評家つじーの「サッカーファンのための読書案内」第4回 中川右介・著『怖いクラシック』(NHK出版)(宇都宮徹壱ウェブマガジン)
「ショスタコーヴィチと国家権力」についてページが割かれた本を紹介。書評はサッカーに関連づけて書いている。
◎宇都宮徹壱『ディナモ・フットボール』
本の中で大平さんがべた褒めしていた宇都宮さんの記事はおそらくこの本に収録されている。
◎ソフィヤ・ヘーントワ『驚くべきショスタコーヴィチ』
ショスタコーヴィチがどれほどサッカーを愛したかはこの評伝を読めばわかる。「驚くべき」ことに3分の1以上はサッカーの話が書かれている。
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