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異なるクラブのサポーターと交流することに「向いてない」人にわたす処方箋


1.可視化される「交流に向いてない」サポたち

 SNS、特にX(Twitter)の利用が広まったおかげで、人の交流における地理的制約が薄まった。Jリーグでも異なるクラブのサポーター(他サポ)同士がXを起点に交流しやすくなり、実際に顔を合わせた交流にまで発展することもある。

 僕も2010年よりXを始め、大学時代はサッカー観戦サークルに所属しオンラインとオフラインの両方で他サポとの交流を経験してきた。オンラインではテキストの交流のみならず、clubhouseやXのスペースといった音声ツールでの交流も盛んに行っていたこともある。

 僕はコンサドーレサポにそこまで知られてるわけでも、交流があるわけではない。しかしXのコンササポの中では他サポとの結びつきが多い部類なのではと感じている。ありがたいことに交流が続いている他サポの方々がいらっしゃるからだ。そう言って本当はめちゃくちゃ嫌われていたら陰で笑ってほしい。人生とはそういうものだ。失敗して学ぶしかない。

 十数年ほど様々なサポと交流してみて感じることがある。Jクラブサポの中には他サポと交流することに向いていない人が一定数いるのだ。おそらく自クラブのサポ(自サポ)とだけ交流していれば、その振る舞いがとがめられるたり、癇に障られることもなかっただろうに。SNSが広まり交流が容易になった弊害だ。そう思うと彼(彼女)たちもSNS社会の被害者なのかもしれない。

 僕は自サポと他サポで交流の仕方は全然違うと思っている。確かに人間と人間の交流なので同じように気をつけるべき点はある。だとしても同じノリを持ち込んではいけない。幸せな交流にはならないからだ。

 なおこの記事ではSNSの中でもXに焦点をあてて書いていく。なぜなら僕が最も慣れ親しんでいるSNSがXだからである。

2.うちのクラブはすごいんだ

 複数クラブのサポと一度に交流していたときの話だ。とあるクラブサポの男性の言動が周囲の雰囲気をなんとなく冷ややかにさせていたことがある。彼の言葉の端々からは「うちのクラブはすごいんだ」という自負と表現がにじみ出ていたのだ。

 確かに彼が応援するクラブは、成績も観客動員もクラブやサポの取り組みも申し分ないぐらい素晴らしい。彼からすれば事実を淡々と言っているだけなのかもしれない。

 だが彼は同じ場にいる他サポのクラブ(他クラブ)を比較対象にあげては「そこにきてうちは……」と話す人だった。聞かれてもいないのに他クラブの欠点を自分なりに指摘し、提言までしてくれる。なんて善意に満ちた人なのだろう。

 自分が応援するクラブを誇るのは別にいい。むしろ誇ってなんぼだ。しかし交流の場で他クラブを下げて自クラブを上げて喜ぶのは、自分と自サポだけだ。だったら自サポ同士の内輪で我がクラブの素晴らしさを心ゆくまで語ればいいじゃないか。

 もっというと、あくまですごいのは「うちのクラブ」であって「うち」じゃない。これは誰しもに突きつけられる自戒だ。

3.あんなのはサッカーじゃない

 コンサがとあるクラブと試合をして勝利をおさめたときの話だ。Xのタイムラインを眺めていると相手クラブサポの知り合いの発信が目に入った。彼とはX上で交流もあり、何人かで食事にいって話をした仲である。

 「あんなのサッカーじゃない」に始まりコンサを猛批判していた。彼からするとコンサの選手のプレーが荒かったそうだ。確かにこの試合に限らずコンサは出足が遅れたままボールを奪いに行き足を引っかけたり、相手に体当たりしてファールになることが少なくないと僕も感じる。

 ここで僕が気になったのは「サッカーじゃない」という言葉である。そもそも本当にコンサのサッカーが「サッカーじゃない」と値するものだとしよう。そうだとしたら当事者はもっと厳しく処罰されるし、クラブ自体も大きな処罰を受けるではないだろうか。だってサッカーやってるはずなのに、サッカーしていないんだぜ。

 そういうこと言ってるんじゃねえよ。そう思う人も多いだろう。だが、「サッカー」に取り組んでいるチームやサポに「あんなのサッカーじゃない」と吐くということはそれなりに重みがあると僕は思う。侮辱と受け取られても文句は言えない。

 別に「あんなのサッカーじゃない」を思うのも言うのもいいのだ。自サポ内で酒の肴にボロクソ言えばいい。それをとがめるつもりはないしとがめる人もいないはずだ。

 しかし彼の相互フォローには僕以外にもコンササポがいる。会ったことがあったり、親しく交流してる人もいただろう。そういう交流のある人が見てるところでそういった言葉を吐く。そこにどれほどの覚悟があるのだろうか。プレーの荒さを批判する言葉や表現はいくらでもある。その中からわざわざ「あんなのサッカーじゃない」をあえて選択するセンスを知りたい。

 仮に「じゃあお前のサッカーの定義とやらを教えてくれよ。もしその定義にお前のチームも今後反してたら言うんだろうな?『私たちのクラブもコンサと同じようにサッカーじゃありませんでした』って。」と問われて文句を言うのだろうか。それを言う権利は彼にないと僕は思う。「あんなのサッカーじゃない」は、それだけの重さを持つ言葉だからだ。

 こういう話をすると「じゃあ見なければいい。フォロー外せよ。ミュートしろよ」と反論する当事者もいるだろう。プロフィールの紹介文に「毒舌です」や「不愉快な言葉を吐くかもしれません」といった言葉を書く人に割といる印象だ。僕からすれば予防線だか免罪符のつもりか分からないそのプロフ文が一番不愉快なのだが。

 確かに一理ある。Xでは自分でフォローするしないを選択できるし、ミュートやブロックの機能もある。仮にフォローを外したり、ブロックしずらくてもリストを作って自由にタイムラインを作ることができる。自己防衛が可能だ。

 しかし、今回の話は単純に不愉快な発信を見たという話とは違う。既に知り合いである人間が見れるところで「あえて」不愉快な発信をしたという捉え方もできる。その責任を自分ではなく受け手に押し付けるのはどういう意図なのだろうか。

 フォローするしないは自由。その通りである。ならば相互フォローになったのも、実際に会って交流したのだって発信したあなたの自由選択ではないか。それで本音が言えなくなったなら受け手に責任を求める前に、知り合う人選びをミスした自分の責任をかえりみるのが先だろう。

 何度も書くが「あんなのサッカーじゃない」と思うことも発信することもとがめないし否定しない。だがその発信で思わぬ石が飛んできたときに甘んじて受け入れる覚悟を持って発信しますか?そこまでして発信したい話ですか?ということである。

4.絶対残留してください!でも勝ち点はもらいます!

 「◯◯には残留(昇格)してほしい!でも試合は勝ちます!」

 そんな言葉を対戦相手のサポから言ってもらえたことはないだろうか。目の前の勝負は譲らないけど、あなたのクラブにはうまくいってほしい。なんて清らかな心の持ち主か。ついついうれしくなって飛び上がってしまう人もいるのだろう。

 この言葉、今の僕はどんな状況だろうと口が裂けても言わないようにしている。いや、もう言えない。

 「残留してほしい」と言われた側のクラブに立って考えてみよう。残留には勝ち点が不可欠だ。もし仮に残りの18クラブのサポにも同じことを言われて、すべてのクラブから本当に勝ち点を持っていかれたとしたら。当然そのクラブは降格だ。

 そういうつもりじゃないという人も言うだろう。でも残念ながらそういうことなのだ。どんなに「残留してほしい」と願っても、勝ち点を奪った時点でその願いとは裏腹に残留は遠ざかるのだ。「相手の残留」と「自分が勝つ」を両立させたいという願いを対戦前に嬉々として語るのはそれくらい都合が良すぎる話なのである。

 もし本当に残留して欲しくて来季も戦いたいとしよう。それにはきっと残留してほしいだけの魅力がそのクラブにあるのだろう。だとすればその魅力を褒める表現がいくらでもあるはずだ。その上で「でも勝つぞ」と言えばいい。なぜ「残留してほしい」という表現をあえて選ぶのか。その後に続く「でも試合は勝ちます」でひと笑い取れると思っているのだろうか。

 だからといって「残留してほしい」と言っちゃダメとはまったく思わない。言いたいなら大いに言えばいい。笑顔で返してくれる人もきっといるはずだ。

 しかし、あくまでこの発言は相手サポがムッとしても仕方がない可能性をはらむものだと認識する必要がある。「相手をほめつつあえてちょっとした無礼をする」という高度なコミュニケーション手法なのである。だからそんな都合のいい話をしておいて「ありがとう」と言われたり、笑顔で応えられることを期待してはならない。思った返しがこなかったら相手のノリが悪いんじゃなく自分の言動が問題なのだ。

 もし試合前がダメでも試合後にエールを送るのはいいじゃないか。そんな意見もあるだろう。僕はそもそも試合前も後もダメとは思っていない。繰り返しになるがどんな意味合いを持つか認識して発信しようという話だ。その上で僕は試合後でも言わないだろう。相手からすれば本当に欲しいのはエールよりも勝ち点なのだから。「残留してほしい」なんてそんな無責任なことを勝った身で言えない。

5.片思いのくせに煽り合いをしたがる人たち

 ならば相手が嫌がることは発信してはいけないのか、言ってはいけないのか。からかうのもダメなのか。お前はノリ悪いなあ。そう思う人もいるだろう。

 そんなことも僕は思っていない。サポ間には「煽り合い」という文化が存在する。相手にとってあえて耳の痛い言葉やいじったり小馬鹿にする表現を投げ合うのが「煽り合い」だ。直接言うこともあれば、横断幕に書くこともXで発信することもある。煽って受ける。煽り返して受ける。それを繰り返す。僕は使わないが「プロレス」という表現をする人もいる。

 ここで忘れがちな大事な事実がひとつある。煽り合いは「片思い」じゃできないのだ。なぜなら煽り合いは、煽りに対してちゃんと受け身をとって返してくれる相手がいて成り立つ。だからプロレスと表現する人もいるのだろう。互いが互いに信頼しあい、ちゃんと受け身をとってくれると安心できてはじめて全力で煽ることができる。

 「両思い」にならないと全力の煽り合いはできない。それは別に互いに好きになるという話ではない。憎たらしいし大嫌いなクラブのサポだけど、こいつらならこの煽りを受け止めて全力で返してくれるに違いないと互いに思えたら成立する。それも立派な両思いだ。

 煽り合いができるまでの両思いになるにはかなりの努力と時間がいるのではないだろうか。Xは人との距離が縮まったと思いこみやすくするし、手軽に煽りやすくなった。そこで生じるのが「煽りのつもりだったのに本気で怒られた」という話である。

 本気で怒った側を「あいつらは煽り(プロレス)を分かってない」とくさす意見を見かけることがある。要は怒った側に責任があるという態度だ。本当に煽り(プロレス)を分かってないのはいったいどちらだろうか。相手に大した信頼もされてないくせに煽りたい気持ちだけは一人前にある。その思いに任せて誰かを煽って痛い目にあう浅はかさを自覚するのがまず先だろう。

 裏を返せば両思いならば多少無礼な煽りでもある程度許容されるケースがあるのだ。これまでに僕が書いた例も別に不愉快なことにならない場合もサポ同士の交流では数多くあるはずだ。僕が書いたのは「その言動の根っこの意味はこうである」というそもそもの本質論だ。個別具体の話はそれぞれの方に経験を聞くほうが早い。

6.勝つときは穏やかに、負けたときは饒舌に

 他サポと交流していると、対戦クラブ同士のサポで試合後に交流会をする機会に恵まれることがある。僕も経験しては振る舞いに反省したり今後の教訓にして学んでいる。

 現時点で僕が試合後に他サポと交流するときに気をつけていることを勝ったときと負けたときに分けて書いていく。

 まず勝ったときに大事なのは「ちゃんと喜ぶ」ことだ。勝ってうれしくない人はいない。だから大いに喜ぶべし。相手に矢印を向けて煽り喜びせず、自分に矢印を向けてほくほくしよう。

 勝ったサポの中には妙に謙虚ぶった振る舞いをする人がいる。自チームの反省点をやたら口に出したり、「うちなんか全然まだまだですよ」という口ぶりで喜ぶ気持ちをあまり表に出さない。相手を思いやってなのかは知らないが、そんな「全然まだまだ」なチームに負けたチームのサポの気持ちなんて想像したこともないのだろう。そしてどんなに隠しても勝った喜びは漏れでてくる。勝ちとはそういうものだ。

 気をつけなければならないのはここからだ。勝ちは人間を饒舌にする。自チームの良かったところ、相手チームの悪かったところ、それらを踏まえた勝利の要因、ついつい語りたくなってしまう。

 そのような講評をするなというわけではない。まったくしないのは逆に不自然すぎる。ただ、大事にしたいのは自分が話す以上に相手サポの話を聞くことだ。とにかく耳をかたむける。負けた側だって語りたいのだ。そして敗北は勝ち点だけでなく余裕も失う。ならば勝った側ができることは、相手の気持ちを引き出して消化を助けることだ。もし相手から聞かれたら自分なりの講評を語ればいい。比較的聞かれることが多いのだから。

 問題は負けたときだ。やっぱり落ち込む。その状態で相手サポを顔を合わせるのはたとえ気心知れた仲でもウッとなるかもしれない。

 そんなときをこそ僕は胸を張っていきたいと思っている。ヨハン・クライフは「勝つときは少々汚くてもいい。だが、負けるときは美しく」と言ったそうだ。サポーターは実際にプレーしないので美しく負けることはできない。でも負けたときに堂々たる態度で振る舞うことができるはずだ。

 無理はしなくていい。なんとかして明るく振る舞おうとしなくてもいい。だが胸を張って堂々としていると思いの外視界が開けてくる。すごく精神論だけど意外と効果あるはずだ。

 落ち込むのはしょうがない。だが相手サポと交流したがために過度に落ち込んだら何のための交流か分からない。そこで僕が話すようにしているのは「自チームの悪かったところではなく、相手チームのよかったところ」と「自チームで少しでも手応えのあったところ」である。

 ダメだったところを口に出すと気持ちがより沈むケースがある。でも自チームのダメだったところには、相手チームのよかったところが眠っている。そっちに目を向けることで試合の振り返りを済ませ、帰宅したらガックリ落ち込むのだ。

 自チームを褒められてうれしくないサポはいない。しかも負けた側が褒めてくれたら相手だって互いに楽しい場になるよう振る舞うはずだ。そこで調子に乗って色々言ったり煽ってきて不愉快な方に遭遇したあなたは運がいい。人として信用できず、二度と交流しない方がいい人が一名新たに分かったのだから。

 ここまで考えて交流しているなんて面倒だね。そうおっしゃる人もいるだろう。その通りなのだ。他サポと交流することは、多くの場合面倒くさい。自サポ内で楽しく交流するより気をつかう。自サポなら勝っても負けても好き放題思いの丈を言ってもたいていは聞いてくれるし、わいわい楽しめる。もし面倒だと思うなら他サポとの交流は諦めて自サポと交流していた方がよっぽど楽しい。

 ではなぜ他サポと交流するのか。それはそこに面倒くささをこえる宝石のような価値があるからだろう。その価値を心の底から感じる人はどんどん交流するといいと思う。僕もその一人だ。

7.不向きな人に肩たたきを、抗う人に不断の努力を

 ここまで書いておいていったいなんだと思われることを書きたい。僕は他サポとの交流に向いてない人たちを責めているわけではない。むしろ非常に心が痛んでいる。

 SNS社会で他サポと気軽に交流できる時代になったせいで、自分の向き不向きが公衆の場であらわになってしまった。こんなに恥ずかしく悲しいことはないだろう。つらい。実につらい。

 無理しなくていいんだよ。そうやって肩をたたく人がいてもいいのではないだろうか。Xを使うからには他サポと繋がらなくては、交流しなくてはいけないという決まりはない。そんな空気感を感じてもそれは錯覚だ。向かないことをやって人に怒られたり嫌われたりバカにされたり。そんなことサッカーじゃなくても嫌に決まっている。だったら自サポの内輪で楽しく過ごしたほうがずっと健康的だ。

 サッカーにおけるSNSの弊害は「他サポと交流することに向いてない人が積極的に他サポと交流できてしまうことで、内輪だから許される話をまき散らして周囲をムッとさせてく」ことだと思ってる。内輪で楽しくしていればよいのに色気を出してしまう。もったいない。

 ここまで散々書いてきた僕自身はどうか。書いている途中ここ十数年の間で他サポとの交流で失敗した振る舞いや失言が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。この文章は誰かに書いているようで自分に書いているのだとも思う。

 己こそ最も「他サポとの交流が向いてないのでは?」と疑い警戒しなくちゃいけない存在だ。もしここまでの数千字に少しでも共感された人がいれば、同じように自分を疑い警戒してほしい。自分を警戒することを知らない人ほど落とし穴にはまる。

 他クラブのことをさも分かったかのようにし発信してないだろうか。仮に発信してもその責任を引き受ける準備はできているだろうか。間違えていたときにごめんなさいと言える覚悟はあるだろうか。いま一度点検が必要だ。

 それらのことができる人が本当は他サポと交流する資格があるのだろう。でも、そこに抗いたい人がいる。僕のように資格がなくても交流したい人だ。日本国憲法第十二条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とある。抗う者に必要なのは自分を警戒し続ける「不断の努力」なのだと思う。

 僕が他サポと交流したい理由は「知ることが楽しい」からだ。クラブ固有の文脈や歴史、違う背景を持つからこその視点、どれもが新鮮で面白く自分のサッカー観や人間観を上書きされていく。コンササポとだけ交流していたら、いま僕がnoteやX、ポッドキャストで発信しているような内容を思考できなかっただろう。それは僕にとって傷つけ傷ついてでも価値あるものなのだ。

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