めんどくさがり屋のひとりごと⑯「少女の頃に戻ったみたいに」
※かなりネタバレを含むので、覚悟してお読みください。
1.世界はあなたの色になる
執行。出国。緋弾。参列――そして、潜水。
これらは「劇場版名探偵コナン」を鑑賞した際にファンたちが用いる、「映画鑑賞済み」を意味する呼称である。
きっかけは「ゼロの執行人」(2018)にてメインキャラクターの安室透に陶酔した、通称「安室の女」たちが「○回執行されてきました」とSNSにて投稿したことが始まりだと認識しているが、そこからファンたちは毎年12月頃に発表される翌年の劇場版のタイトルとティザーを元に、「鑑賞したことをどう表現するか」ということを最初に考える。
「ゼロの執行人」はそのまま「執行」、「紺青の拳」はシンガポールが舞台なので「出国」。
「緋色の弾丸」は「緋色」と「被弾」を掛けて「緋弾」、「ハロウィンの花嫁」は高木・佐藤の結婚式と警察学校組への服喪に合わせて「参列」、そして今年の「黒鉄の魚影」は潜水艦が登場するので「潜水」と、作品になぞらえた呼称をファンたちが生み出している。
今回で言えば、作中のキャラクターの発言から「○thアクセス」なんて表現もあるが、主流なのは「潜水」のようである。
毎年物語の主軸となるメインキャラクターは異なり、今回の主軸となるのは元「黒の組織」の科学者・灰原哀である。
今回は今年の劇場版の話を交えながら、作品屈指の人気キャラクター・灰原哀の話をしてゆく。
なお、今年の初めに創作物のカップリングについて書いた時の内容と重複する部分があるが、ご容赦願いたい。
読みたい方は、下のリンクからご覧になっていただけると幸いである。
なお、本当は公開後すぐにこの投稿をする予定だったが、仕事から来る精神の浮き沈みの激しさと生来の怠け癖が仕事をした結果、ここまで腐りかけの投稿となってしまった。捨てるには忍びないので、完成させて供養させる。
2.零―ZERO―
まずは改めて灰原哀のプロフィールについて軽く触れてゆこう。
元「黒の組織」のメンバーで、本名は宮野志保。
組織では「シェリー」というコードネームで、科学者として活動していた。
両親(厚司・エレーナ)は元々町医者だったが、その後に「黒の組織」の研究員として活動し、後に火災により事故死。
姉・明美も黒の組織の一員として活動するも、「10億円強奪事件」(2巻)に関与した際に組織に刃向かい、組織の幹部・ジンにより殺害されてしまう。
天涯孤独になり、自分の開発した毒薬・APTX4869を服毒して自殺を図るも、工藤新一と同じように身体が縮んで幼児化し、組織から脱出。命からがら逃げた先で米花町の工藤新一の家に助けを求めようとするも、工藤邸の隣の阿笠博士の家の前で力尽き、それを発見した阿笠博士によって保護され、江戸川コナン(工藤新一)同様に帝丹小学校1年生として生活することになる。
「灰原哀」というのは「V・I(哀)・ウォーショースキー」と「コーデリア・グレイ(灰)」という探偵小説に出てくる2人の女探偵の名前から阿笠博士によって名付けられたものと語られているが、作者の青山剛昌曰く「本当はアイリーン・アドラー(シャーロック・ホームズシリーズ「ボヘミアの醜聞」の登場人物)から名付けた」とされている。
最初は自分の境遇から希死念慮に満ちた接し方を周囲に対してしていた灰原だったが、コナンや蘭、そして博士や少年探偵団などの周囲の温かさに触れ、次第に生きてゆく気持ちを取り戻してゆく。
作品ファンの中には、「初登場時から一番心情の変化があったキャラクター」と評する人もいるほど、灰原の心情は本誌で登場してからの25年で変化をし続けているのである。
そんな中で、今年彼女が主軸となる劇場版「黒鉄の魚影」が公開となった。
現時点で興行収入130億円を突破しており、鑑賞した人たちからは「面白かった」との声が多く見られている。
ファンの長年の願いであった、「コナン映画が100億円の世界」が26年という四半世紀の時間をかけて実現されたのだった。
私自身、現時点で4回鑑賞しているが、その度に新たな発見があって面白さが止まらない状態になっている。
全てを書こうとすると、とても言葉では言い表せないこともあって難しい部分もあるが、それでも何とか綴る。
3.クロノスタシス
舞台は八丈島に建設されたインターポールの海洋施設「パシフィック・ブイ」。
そこで導入された「老若認証システム」をめぐって、コナンと「黒の組織」との対決が繰り広げられる。
そこでキーとなるのが、組織に拉致されたエンジニアの直美・アルジェントのUSBに保存されたある写真データ――「宮野志保(シェリー)=灰原哀」と解析された写真である。
組織にとってシェリーは自分たちの元から逃げた裏切り者であり、絶対に生かしては置けない存在である。
ただ、シェリーは以前組織によって殺害されたはず……なのに何故?
何故、シェリーとこの少女(灰原哀)が同一人物だという結果が出たのか?
このことを知った組織の幹部・ジンはその少女を拉致することを組織のメンバーのピンガに命ずる。
そうしてピンガによって拉致された灰原。
コナンは阿笠博士たちと協力して、灰原奪還へと向かってゆく。
これが、作品のあらすじとなっている。
作品を観た人なら分かると思うが、これは作品の前半のあらすじに過ぎない。
実際の作品は、この後組織による「パシフィック・ブイ」破壊、そしてその後に待ち受ける衝撃のラストまで描いている。
そこまで含め、ここで描かれているのは、「宮野志保が灰原哀として過ごした日々の結晶」だったと思う。
初登場から今までの25年分の感情の積み重ねが今回の劇場版で様々な形として現れた、私にはそう思えた。
それを象徴するセリフが、共に潜水艦で監禁された直美・アルジェントに対して言った、「私は変われた……だから、私を信じて!」(予告編)というものである。
これは灰原が潜水艦から脱出を試みることを直美に提案した時のセリフで、この場面の前に直美は父のマリオが組織に襲撃された映像をリアルタイムで観てしまい、絶望を味わっている。
そんな状況で脱出を提案した灰原に対して、直美は「哀ちゃんやコナンくんみたいな子供に何が分かるの?」と、その提案を一蹴する。
それに対してのセリフが、上述のセリフとなる。
灰原をここまで言わしめたのは、紛れも無く少年探偵団の面々との活動の日々が根幹にある。
薬で幼児化してしまったコナンや灰原と違い、少年探偵団(小嶋元太・円谷光彦・吉田歩美)は本物の小学1年生であり、世間ずれしていない純真無垢な感性を持っている。
困っている人がいたら助けるし、仲間や友達のピンチは必死で救おうとする。もちろん、小学生の非力さでは出来ることは限られているし、向こう見ずな判断でピンチに陥ってはコナンに助けられていることもしばしばだ。
それでも仲間のことは全力で信じて助けようとする。それが少年探偵団である。
最初はその活動を斜に構えて距離を置いて見ていたが、爆発寸前のビルと運命を共にすることを元太に止められたり(劇場版「天国へのカウントダウン」)、歩美に「逃げてばっかじゃ勝てないもん!!」(43巻)と言われたりとそのまっすぐさを日々目の当たりにしてゆくうちに、少しずつ前を向くことや「自分は孤独な存在じゃない」と感じてゆくことになる。
その一端が冒頭のおばあさんに好きなブランドのブローチの引換券を譲る親切心にも表れている。
灰原の凍っていた心を彼らが少しずつ溶かしていったからこそ、灰原は「子供の言葉が心を突き動かすことだってある」という経験をその身で体感することが出来たのである。
灰原にこのような心境の変化が起こりえることなど、きっと登場した当時の誰もが予想出来なかったことだろう。
そんな中で、今回明かされたのが宮野志保の子供時代のエピソードである。
灰原と共に拉致された直美は、実は故郷のボストンで宮野志保と関わりを持っていたのだ。
父がイタリア人、母が日本人であるハーフの直美は、その出自からクラスメイトから人種差別を受けていた。純然たる白人ではない、東洋人の血の混じった彼女は、白人至上主義な思想が残る国においては格好の餌食だった。そんな彼女がスクールバスで席に座らせてもらえず、嘲笑の対象にされていた時、読んでいた本を閉じて「……ここ、座って?」と席を譲ってくれた少女が一人いた。自分と同じような東洋系の顔立ちのその少女こそが、宮野志保だったのだ。
自分と同じ境遇なのに、勇敢にも自分を周囲の標的に移して別の人間を護った人がいた。そのエピソードが、人種差別の無い世界の構築のために直美が老若認証システムを開発することになるきっかけとなった。
それを考えると、シェリーとなる前の宮野志保は家族以外の他人のことを想うことが出来る優しさを持ち合わせていたことが分かる。それと同時に、自己犠牲の精神は生来のものでもあったのかもしれないということも、そこから垣間見える。
つまりは、灰原哀の米花町での日々は「シェリーが本来の宮野志保に戻る過程」でもあったのだろう。
ブランド物に興味を持ち、「推し」の行動に一喜一憂し、そして恋愛に関することには軒並み白い目になる。「18歳の人間」の心理としては、別段おかしい部分は無い。シェリーは、灰原哀の身体を借りて宮野志保になれたのだ。
4.オー!リバル
コナンの助けを借りて、直美と共に潜水艦からの脱出を行った灰原。救助された船の上で、灰原は蘭に抱きしめられる。「よかった……」と、ギュッときつく。
そこまでも自分のことを心配してくれていた蘭に、灰原は姉・明美の姿を重ね合わせる。
文武両道、快活で、友達も多くて、勇敢で、とても周りの人間のことを大切にする。
灰原にとって、そんな蘭は「人気者のイルカ」――「意地の悪いサメ」(31巻)の自分とは正反対の存在である。
自分のせいで、新一と蘭は離れ離れになってしまった負い目もある。灰原にとって、蘭はとても厄介な相手なのである。
けれども、そんな事情など知る由も無い蘭にとっては灰原は「コナンのことが好きな同級生の女の子」に過ぎないし、「護らねばならない対象」でもある。だから、ベルモットが灰原を狙撃した際には身を挺して護り(42巻)、風邪を引いた灰原にお粥を作ってあげ(41巻)、今回も拉致された灰原を奪還すべく、ホテルのバルコニーから飛び降りて組織の一員・ピンガをバトルを繰り広げる。
そんな自分にも分け隔て無く接してくれる蘭に対して、灰原は亡くなった姉・明美の姿を投影する。もしも組織に殺されずにいたら、お姉ちゃんもこうして自分を護ってくれたのだろうか。もう叶わぬ夢ではあるが、自分のこともこんなにも大切に思ってくれる同性の相手がいたことは、灰原にとっては心強く、幸甚なことであったと思う。
とはいえ、新一と蘭が想い合っていることは灰原にも分かっていること。誰もそこに足を踏み入れることなど、あってはならない。それが、ラストシーンでの灰原なりの答えでもあったのだ。
5.Everlasting
今回は何と言っても、阿笠博士の活躍を語ることを避けては通れない。
コナンと灰原の正体を知っている数少ない人物であり、コナンの推理をサポートする発明品を数多く開発する発明家であり、小さくなったシェリーを自宅の前で保護した人物でもある阿笠博士は、肉親を失った灰原にとっての父親代わりの存在である。
だから健康管理を厳しく管理して少しでも長生きしてもらいたいと思っているし、犯人に博士が狙撃された時には小さな身体で庇おうとしてくれたりした(劇場版第4作「瞳の中の暗殺者」)のだ。
今回、灰原は組織から逃げ出した時のことを夢に見る。
雨の中、命からがら逃げ出してたどり着いた工藤邸。
その門の前にたたずむシェリーの前にやって来たのは、傘を差した阿笠博士。「あの……」と声を掛けるも、博士は何にも反応を示さない。そして、博士は正面から倒れる。
唖然とするシェリーの後頭部に銃口を突き付けるのは、宿敵・ジン。
「言っただろ……?逃げられねぇって」ジンはそう言うと、シェリーに向かって引き金を引く――そこで目が覚める。
もしあの時、この夢の通りのことが起きていたら、今の自分はいない。
夢であったことに、きっと灰原は安堵し、感謝したことだろう。
博士も同様に、灰原のことを保護者として実の娘のように大切に思っており、今回も灰原が連れ去られてしまったことに対して無念のあまり嗚咽する。特に、ピンガに連れ去られた灰原を奪還すべく、「ぶつけてでも止めたるわい!」と愛車のビートルで追跡をしてカーチェイスを繰り広げる様は、博士がどれだけ灰原のことを想っているのか、その一端を知ることが出来る。
また、今回も博士の発明した水中スクーターがあったからこそ灰原と直美を奪還することが出来たのだし、この「名探偵コナン」という作品は阿笠博士の存在無しでは世界が成り立たないのである。
普段はダジャレを連発して呆れられているおとぼけな博士であるが、今回は灰原が拉致されて焦るコナンを窘めたりと、とても冷静な大人として描かれている部分が見られたのが印象的であった。普段は抜けている部分もあるが、大切な人間の前ではとてもカッコいい姿を見せてくれる勇敢さを持ち合わせているのである。
6.あなたがいるから
もちろん、主人公・江戸川コナンとの関係性についても語りたい。
「平成のホームズ」と言われる卓越した推理力でいくつもの事件を解決へと導く高校生探偵・工藤新一が、黒の組織の幹部・ジンによってAPTX4869を吞まされて小さくなった姿、江戸川コナン。
黒の組織の壊滅を目指して阿笠博士の力を借りながら、その小さな身体で再び事件解決へと邁進してゆく彼の元にやって来たのは、「全ての元凶」灰原哀。
最初は彼女に怒りを露にするコナンであったが、彼女の境遇を知ってゆくうちに灰原への信頼を持ってゆく。対する灰原も最初はコナンのことを哀れな被験者ぐらいの印象しか持っていなかったが、彼の事件解決に対する信念や姿勢に触れてゆくうちに信頼を寄せ、今や女房役としての活躍を見せている。
そうしてこの二人は唯一無二な相棒であり、秘密の共有をする運命共同体であり、いつか離れてゆくかもしれない一時の共闘関係へとなっていったのだった。
今回、コナンはそんな相棒の危機にこれまでにないほど取り乱す。蘭の危機とはまたベクトルの違う焦りである。その焦りは、コナンがどれだけ灰原に対する信頼を寄せているのか、それが痛いほどに伝わってくるのであった。
その過程を順番に追ってゆこう。
まず黒の組織が八丈島の「パシフィック・ブイ」を狙っていることを沖矢昴(赤井秀一)から聞かされたコナンは、組織が追っているシェリー(灰原)を護るためにお守りとして自分のメガネを掛けさせる。
これは、かつて黒の組織のメンバーが紛れ込んだパーティーで、コナンが「そいつをかけてると正体が絶対バレねーんだ!」と灰原の身を案じて自分のメガネを掛けさせたこと(24巻)を踏まえての行為であるが、コナンは自分を護るためならどんなことも厭わないことを知っている灰原は、掛けさせられたメガネを外して「お守りね……」と微笑む。ちゃんとした言葉には出していないが、その表情は嬉しさを隠していなかった。
それでも、老若認証システムによる「シェリー=灰原哀」の結果に疑いを向けた黒の組織によって、灰原は拉致されてしまう。
取り乱して激昂し、阿笠博士に窘められながらもコナンは灰原の奪還に腐心する。もちろん、拉致されている灰原はその時のコナンの様子は知らない。けれども、何者かによって足元に置かれた探偵バッジからコナンの声が聴こえることを信じて、その時を待つ。「工藤君なら、きっと……」と。
そうしてコナンの力を借りて直美と共に脱出して、海中の向こうから向かってくる水中スクーターを見つけた時の灰原の表情は、ヒーローの登場を信じていた者の安堵の表情だった。
私のヒーローは誰も見捨てない。――そう、罪を犯した人間さえも。
そんなヒーローを自慢したくて、灰原は作品お馴染みの「あなた、一体何者……?」「江戸川コナン――探偵さ」の件に割り込んで、「江戸川コナン――」「探偵よ!」と意気昂然とした言動をしたのだった。
そして物語の後半、逆にコナンを助けに灰原が海に飛び込むというシーンが訪れる。
海に逃げた黒の組織のメンバー・ピンガを追おうとしたコナンの元に「バーボン」こと安室透よりもたらされた情報――それはジンたちが潜水艦から魚雷を発射して「パシフィック・ブイ」を破壊しようとしているというものだった。
そんなことはさせまいと、退避時に阿笠博士が置いて行った水中スクーターを使って組織の潜水艦の元へ向かうコナン。その目的は、赤井秀一が上空から潜水艦を狙撃させるために潜水艦の位置を赤井に知らせること。
一方の灰原は、退避する船の甲板にあった別の水中スクーターに付いていたインカムによって、コナンが潜水艦近くの岩礁帯にいること、そしてそのコナンの情報を元に潜水艦を狙撃することを知る。
あまりに危険なミッション、一歩間違えればコナンの命は無い。バッテリーが少ないとの阿笠博士の呼び掛けを振り切り、灰原も水中スクーターで海中へ向かう。
魚雷により「パシフィック・ブイ」は破壊され、海の藻屑と消えた。
ジンたちの潜水艦は、後はピンガの合流を待つのみ――そんな時だった。
突然、海が光ったのだ。
何が起こったのか戸惑う艦内、その瞬間大きな爆発音と揺れが潜水艦を襲う。
その理由は、コナンによってベルトから放出された花火ボールが破裂して光り、艦影を捉えた赤井のロケットランチャーによってロケット弾が潜水艦に撃ち込まれたからだった。
そうして、潜水艦は打撃された。
しかし、その代償としてコナンは潜水艦のスクリューが起こした水流に飲み込まれてしまう。
灰原が見つけたのは、海に揺蕩うコナンのメガネ、そして意識を失ったコナンの姿だった。
それを見つけた灰原の衝撃は計り知れない。
自分のヒーローが死の淵にいる。そんな今、自分は形振り構っていられない。その結果、灰原は自らのエアタンクを使ってコナンに何度も人工呼吸を施し、コナンは息を吹き返すことになる。
あなたはこんなところで死んでいい人間ではない。あなたは、あなただけは生きていないといけない――その一心だったことだろう。
公開前、脚本の櫻井武晴氏は劇場版2作目の「14番目の標的」を観ておいた方がいいと、鑑賞する者たちにコメントをしている。
その理由は、同じく水上を舞台にした作品であり、蘭によってコナンが水中で人工呼吸を施されているシーンがあるからだ。
恐らく、櫻井氏はそれを踏まえた上でそのオマージュを今作で行ったものと思われる。
どちらの人工呼吸シーンも、作品を語る上では欠かせない美しい名シーンであるが、今回はコナンと灰原という「通常の物語ではそうなりそうにない二人」だからこそ、その魅力が補強されている、と個人的には思っている。
そうしたシーンの後、減圧症を防ぐために互いにエアタンクで酸素を補給しつつ水面へ浮上する二人。手を繋ぎ、夜空の星の瞬きが水中を包む幻想的な空間。そこはまるで、ユートピアとディストピアの境目のようだった。
そんな夢うつつの空間で、灰原は思う。自分はもう、元の世界に戻れないと。
自分の生存が組織に知られてしまった。この平穏を穢さないためには、自分がこの生活から身を引かねばならない、と。
バイバイだね。江戸川コナン君……その思いを、灰原は口には出していない。しかし、コナンは灰原の纏うその空気を感じ取り、エアタンクを灰原の口に突っ込む。
憎たらしいほどガキのようなニカッとした笑顔を浮かべ、コナンも空気を纏って答える。
「言ったろ?オレがぜってぇーなんとかしてやるってよ!」
その笑顔に、灰原は頬を赤らめながら今までのことを回想する。
いつでも、コナンは自分の味方でいてくれた。
そして、自分の勝利を疑わず、真剣で自信満々で、時に生意気な顔がある。
そんな彼の姿を思い浮かべ、彼女は思う。
どうしてそんな顔がいつも出来るのか、と。
さっき、自分たちはキスしてしまったのに、と。
コナンが意識を取り戻す直前にエアタンクをコナンの口に突っ込んだので、コナンはそのエアタンクで意識を回復したと思っており、灰原が人工呼吸をしていたことを知らない。
灰原だって、それが人工呼吸であることは百も承知だ。
それでも、二人の唇があの時間だけは重なっていた事実だけは、そこにある。
その事実と、恋慕も混じったコナンへの複雑な感情、そして宮野志保という「18歳の多感な時期の人間」である真実が、灰原にそのような感情をもたらしたのだ。
そして水面に浮上して、無事帰還した二人は橋の上で蘭たちの救助を待つことに。
これで一件落着――かと思いきや、そうはいかない。
到着した蘭が眼にしたのは、さっきまで元気だった灰原が横たわる光景だった。
コナンも灰原が減圧症を発症したものと疑い、人工呼吸を施そうとした……が、灰原はコナンの口を手で押しのける。
そして、コナンから渡されたお守りのメガネを彼の足元に置く。
何故口を塞がれたのか分からないままコナンがそこにいると、そこに蘭がやって来て人工呼吸をしようとしたら……灰原は自ら顔を寄せて蘭と唇を合わせるのだった。
呆然とするコナンと蘭。
その光景を、二人に見えないようにそっと眼を開けて視る灰原。
そして灰原は語る。
「ちゃんと返したわよ、あなたの唇」と。
このシーンは、原作者の青山剛昌先生の助言もあったシーンであるという。
つまりは、「灰原哀はこういうキャラクターなんだよ」と青山先生自身からの答えをスクリーンを通して観客に伝えたことになる。
灰原自身もコナン(新一)と蘭が想い合っていて、自分の介入する隙など無いことを痛いほど分かっている。
しかし、今回不可抗力とは言え、コナンと唇を合わせてしまった。
それは灰原にとっては「そのままではあってはならないこと」だった。
その「あってはならないこと」を終わらせるためには、自らの手でコナンと唇を合わせた記録を蘭と唇を合わせることで上書きせねばならない、「工藤新一と毛利蘭のキス」を「人工呼吸の返還」によって疑似で実現させねばならない。それが灰原の二人に対するけじめのようなものでもあったと思う。
私見ではあるが、恐らく灰原は「江戸川コナン(工藤新一)と毛利蘭」のあまりに近過ぎて痛ましささえ感じるほどの距離にいる、一番のファンなのである。
今回の作品を通して、灰原哀の人物像にそのような印象を持った。
7.Over Drive
女性たちの活躍が光った今作。そのMVPを挙げるならば、キールとベルモットを挙げないわけにはいかないだろう。
キールと言えば、表の顔は日売テレビの人気アナウンサー・水無怜奈である黒の組織のメンバーであり、その正体はCIA諜報員・本堂瑛海といういわゆる「NOC」(非公式諜報員)である。
一度その正体が組織にバレそうになったが、赤井秀一の射殺命令を実行(実際は偽装)したことにより再び組織に潜入して活動しており、今回はところどころで大きな活躍を見せている。
その主な活躍とは、「灰原と直美の救出の手助け」である。
ピンガとウォッカによって拉致された灰原と直美の手を紐で縛る時、灰原の後ろ手の組み方から状況を察知してほどきやすい縛り方をしたり、灰原の持っていた探偵バッジを灰原の足元に置いて外部との連絡を取れるようにしたりしたが、一番は潜水艦からの脱出方法の伝達だろう。
灰原の手足を拘束する際に、自分のパーカーに灰原がメガネのつるの先の盗聴器を入れたことに気付きながらもわざと見過ごし、その盗聴器を使ってウォッカから潜水艦からの出入りの方法を聞き出して、それを盗聴している灰原に伝えたのだ。
そうして二人の魚雷発射管を使っての脱出を、ジンの妨害を寸出のところで阻止しながら成功させたわけであるが、彼女もまた肉親を亡くした人間の一人であった。
父のイーサン・本堂も同じく黒の組織に潜入するCIA諜報員であったが、組織に正体がバレ、自分と同じく組織に潜入する娘に危害が及ぶのを防ぐために娘の瑛海に自分を殺させた。
その過去がキールにはあるため、同じく父親が組織によって襲撃された直美に対してはやりきれない感情を持つ。
また一人、組織の犠牲者を生んでしまった。二人が監禁された部屋の外で、キールは何も出来ない自分を恨めしく思った。だからこそ、二人には生きてほしい、ここから逃げてほしい――その気持ちが、キールに危ない橋を渡らせる決心をさせたのだった。
表の活躍がキールならば、裏はベルモットである。
一方のベルモットは原作でもまだ謎の多い人物の一人。
表向きはハリウッド女優のクリス・ヴィンヤードとして活躍しているが、その正体は変装の達人であり、本名はシャロン・ヴィンヤードというハリウッドの大物女優である。
ただ、シャロン自身は死去したことにして、自身はその娘であるクリスとして活躍しているのだが、素顔はクリスのような若々しい姿であり、シャロンの姿は老けメイクであるという摩訶不思議な事実がそこにある。
実際、20年前に両親を殺害されたFBI捜査官のジョディ・スターリングからは、20年前と今とでベルモットの姿が全く変わらないことを指摘されており、何故ベルモットが年を取らないのかは今でも明かされていない。
そんなベルモットの今作での功績は、「シェリーの生存の可能性の消滅」である。
ベルモットにとって、APTX4869の幼児化の秘密を持ち、組織を裏切ったシェリーはこの世に存在してはならない人間である。
なので、幾度とその存在を抹殺しようと企図している、いわば「アンチ・シェリーの筆頭格」なのだが、今回はちょっと事情が違う。
どうにかして老若認証システムの示した「灰原哀=シェリー」の可能性を潰そうと画策するのである。
ベルモット自身、「灰原哀=シェリー」という事実を組織に報告していなかったり、かつて助けられた恩から新一(コナン)と蘭のことを組織から護ろうと動く描写、コナンが組織に一撃を与えてくれる「銀の弾丸」であると観ているなど組織に含むものがある存在ではある。
それでも、シェリーだけは抹殺対象であることに変わりは無かった。
それなのに、今回は灰原のことを護り、生かそうとした。
その謎が今回の肝だった。
具体的に言えば、得意の変装を駆使して世界中を回り、シェリーに似た顔の人物が世界中にいることを見せて「老若認証システムは欠陥品である」という印象を組織に与えさせたのだ。
そこにはベルモット、ひいては組織のボス・烏丸蓮耶の秘密がシステムによって明るみになってしまうことを防ぐためという理由があった。
組織にとって、世界中の防犯カメラを操作出来る老若認証システムは自分たちの犯罪を隠蔽するには喉から手が出るほど欲しい代物。
されど、ベルモットやNOCの面々のような秘密を抱える人間からしたら、それはその秘密が暴かれるパンドラの箱。
老若認証システムは、そんな諸刃の剣であったわけである。
そんなわけでシステムの印象操作をベルモットはしたわけだが、灰原を助けた理由としてはまだ腑に落ちない部分がある。
それを知るためには、作品の冒頭に時計の針を戻さねばならない。
コナンたちが八丈島を訪れるきっかけとなったのは、灰原がおばあさんにフサエブランドのブローチの引換券を譲る光景を園子が見ていたこと。
そして同じ頃、ベルモットはバーボンの運転する車の助手席で自身のスマホをいじっていた。その時、とある記事に目を留めていた。
これが、ベルモットらしからぬ行動を取った要因に繋がる。
事件が解決し、コナンや博士と一緒に直美の見送りに空港へやって来た灰原。
その光景を視ていたのは、あの時灰原がブローチの引換券を譲ったおばあさんだった。そしてそこを離れたおばあさんの顔から変装マスクが剝がされ、中から出て来たのはベルモットの顔である。
安室との会話でベルモットが世界を回ってシェリーに似た人物に変装していたことを知りながら、どうしてベルモットが灰原を助けたのか分からないコナン。
エレベーターに乗り込んだベルモット、彼女は語った。
「助けた理由?それを探るのがあなたの仕事でしょ?銀の弾丸くん」
その着物の帯には、あの時灰原が譲ったフサエブランドのブローチが光る。そうしてエレベーターの扉が閉まり、物語は終焉するのだった。
つまりは、あの時ベルモットが目を留めたのはフサエブランドのブローチの販売の記事であり、変装してでもそのブローチが欲しかった。
しかし、最後の引換券は灰原が手にしてしまい、ベルモットがそれを手にする機会は失われた――かに思われた。
「値段をちゃんと見ていなかったから」と、灰原が項垂れるおばあさんに自分の引換券を譲ってくれたのだ。
ベルモットからしたら、灰原の行為は「敵に塩を送る」そのもの。
それに恩義を感じて、ベルモットは今回のような「通常のベルモットらしからぬ行動」をとったのである。
変装をしていたので、灰原はおばあさんの正体がベルモットだとはもちろん気付いていない。
そんな中でベルモットが経験した、「シェリーの親切心」という組織にいた頃はあり得なかったシェリーの姿。
それも全てはコナンのお蔭であると、ベルモットは思ったかもしれない。
それも含めてのお礼の意を込めて、ベルモットは灰原を護る判断をしたのだ、と私は思っている。
ベルモットは老若認証システムを「開けてはいけない玉手箱」と表現した。
けれども、物語をコーティングしていたのはベルモットによる「鶴の恩返し」であったのだ。
そこの対比もまた、物語をより面白くさせる要因となっていた。
そう考えると、ベルモットの活躍無くしては、作品は物足りないものとなっていたかもしれない。
8.美しい鰭
ここまで、「黒鉄の魚影」についての感想を書いたわけだが、これはあくまでも「灰原哀を中心にした物語」についての感想であり、他にも直美やピンガ、黒の組織を中心とした物語の見方などもある。ただ、それをやってしまうとさらに長くなるので、今回はそれは省いた。
最後は、主題歌について語りたい。
テレビ版はB-Zone(旧ビーイング)所属のアーティストが主題歌を手掛けているが、劇場版に関しては、ここ10年ほどは他レーベルのアーティストが主題歌を担当していることが多い。
今年の主題歌は、スピッツ「美しい鰭」。
コナンファンたちも、予想外の大物バンドとのタッグに胸を躍らせた。
予告編でサビが流れると、そのとても爽やかさ溢れるメロディーとボーカルの草野マサムネの歌声が、海の中を悠然と揺蕩う魚たちの群れを頭の中に思い起こさせていた。とても爽やかで、若干哀しげで、やがて深海に沈んでゆく――そんなイメージだった。
フル音源が公開されると、サビからは予想し得なかったドラムの音からの始まりでさらに胸が躍り、落ち着いたAメロからサビになるに従って段々盛り上がってゆき、サビで最高潮を迎えるような構成だった。
最後まで聴き、「これが劇場で流れたらどうなるんだ……?」とワクワクした。
そして初日、本編が終わりドラムの音が響く。
言葉では上手く説明しにくいのだが、爽やかさがスクリーンを包んでとても多幸感を持ったのである。
とても激しい感情に襲われた本編を優しく包むような主題歌となっていた。
歌詞に言及すれば、ところどころ灰原のことを歌っているような描写がある。
前述の通り、灰原哀は自分の事なんてどうでもいいと思っていたような人間だった。けれど、周囲との関わりを続けてゆくうちに自分の居場所を見つけてゆく。
かつて、「天国のカウントダウン」(劇場版第5作)にて登校した灰原が教室でコナンにこう言ったことがある。
「――私には席が無いの」
今作と同じく黒の組織が登場する話であり、まだ灰原が希死念慮の塊だった頃である。
人には言えないような薬を作り、人には言えないような人生を送って来て、人には言えないような絶望を常に抱えている。だから、自分には「席=この世における居場所」が無い、そう言ったのだった。
それに対して、そこに登校してきた何の事情も知らない少年探偵団の面々が「何言ってるんですか、灰原さんの席はそこにあるじゃないですか!」(円谷光彦)と言う。
「席」の意味合いは違うが、帝丹小学校1年B組には間違いなく灰原哀の席はある。居場所はそこにあるのである。
そこから月日を重ね、今や色んな感情をさらけ出すことを厭わないような、言わば「普通の女の子」のような面も出せるようになった。
この日常が壊れてしまうことは怖いし、逃げてしまいたい時もある。
けれど、自分には心強い相棒や仲間がいる。
米花町にいる限り、自分は自分でいられる、灰原はそう思ったのではないだろうか。
それを踏まえた歌詞が、「美しい鰭」には込められていたのではないかと思う。
原作でも大きな展開を迎えている「名探偵コナン」。
段々と片付けをしているような雰囲気はあるが、これからどうなってゆくのか、さらに目が離せないことは確実である。
これからも灰原哀の日常は続く。
ヒーローがそこにいる限り。
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