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とびら

新聞っていうのは、今はどのくらいの家がとってるんだろう。

私なんかは、勿論新聞を取っていなくて、今は携帯で見たい情報を…というか目に飛び込んだり、気になった情報を拾い読みする程度。

でも、私の子どもの頃は恐らく多くの家庭は新聞を取っていて、毎朝カコンとドアの郵便受けにその情報は届いていた。

うちは別に特にこだわりなんかもなかったと思うし、なぜその新聞取ってたかなんていうのもよくわかんないけど(特に意味ないと思う)

新聞勧誘のおじさんが、玄関口で契約時に映画のチケットくれたり、とんでもない量の粉洗剤くれたり、なんかわからんけどモー娘。の時計くれたりしたのを覚えてる。(その代わり半年契約だっけ?)

たまにゴリゴリに勧誘してくる人もいて、ドアに足を挟んで閉めれなくしたりするから、開けずに断るっていうのを子どもの頃から知ってたよね。
開けちゃダメやよ!ってめっちゃ妹に言ってた。

当時、うちに毎月やって来てくれる集金のお姉さんは、高校生くらいの可愛らしいショートカットの女の子で、家族みんなの密かなお気に入りだったので、母は『遠いところから来て集金ができないなんて、可哀想やから絶対ぜったい支払いは遅れちゃダメ』と(割と集金ってランダムで急なんですよね)実際は『あの子いい子やし、可哀想やから…』の口数でがまぐちにいつも現金ぴったりを用意してた。

冬もほっぺたを真っ赤にして息は切れていたけど、いっつもニコニコしてたな〜。
大変やったやろうに。元気かな。

だけど、正直な話。子どもの頃や若い頃に新聞を開いたところで、特に読みたいものなんてなくて、開いてすぐのテレビ欄か、あるいは次のページ左上の4コマ漫画(こぼちゃんの猫のミー、あるいはミーコの回だと嬉しい)を、エレクトーンの椅子に乗っかってエレクトーンによりかかり足をブラブラさせながらチラ見して(今日は面白いテレビやってないな~)なんて言いながらすぐ閉じる訳で。

でもなんかそれは、折角毎日届くのに勿体ない気がしてきて、読めるものはないのかってある時、探してみた訳です。

そして、その時見つけてハマったのが連載小説と人生相談。

当時、私が16歳ぐらいの時だったと思うけど、よしもとばななさんの海のふたという小説が連載されていて、内容にどっぷりハマり、世界観をより魅力的に見せる挿絵の版画も綺麗で、海や氷の煌めきを近くで感じ、そこからは、その煌めきを毎回楽しみにしてた。
その後の小川洋子さんの連載ミーナの行進も、どこにいても小川さんとわかる独特の雰囲気、文章で作り出す芦屋やフロッシー、乳母車やコビトカバの世界に浸かり、ひっそりと内緒話を聞く様に想いを馳せたりもした。

今調べてきたら、川上弘美さんや町田康さん、角田光代さん、重松清さん、井上ひさしさん、俵万智さんも前後に連載してた。なんと豪華!(その後本になってから読んでるものばっか、なんで読んでなかったんだ…)

新聞の良い所は、あ!読み忘れた!なんて思っても、古い新聞置き場にあるとこである。
うちはそこが掃除道具入れの白い木の扉の中にあって、開けるとぎいっと音がし、中は少し薄暗い場所だった。
たまに、あるべき場所の空間は空っぽで、口をポカンと開けていたら、『昨日廃品回収やったから出したで』と母に言われてガッカリする事もあった。
そういう時はその回は空想で埋め合わせし、長らく待って本で答え合わせをした。

それ以外はいつもそこにあるので、お目当ての新聞を引っ張りだし、床に寝そべって読んでたりしていた。

そこへ母が現れ『新聞を読んだりして、感心感心。』なんて言われたりして、少しお得である。

『この間の小説読み忘れたから、今読んでるだけやで。』なんて言っても、母は活字を愛しているので『新聞開いて興味を持つことに意味があるんよ。でもそこ邪魔やからちょっとのいて。』と、掃除機をかけ出す。

(掃除機の音と、海の波、(あるいは芦屋)はほど遠いな〜)なんて思いながら新聞と横で掃除道具入れを探索してた猫を抱え、隣の部屋へ移動する訳だけど(その後猫はすぐどっか行く)、しっかり思い出になってる訳だから、毎日って何が懐かしくなるかわからない。

人生相談はたまたま読んでみたらハマった。
相談者に対して弁護士、医者、精神科医、弁護士、小説家、随筆家、写真家、映画監督、棋士、サッカー選手など様々な著名人の方々が答えるのだが、これがどうしてどうして面白い。
まず。悩みの相談が、切実なもの、おせっかいなもの、関係あるもの、ないもの、あるあるのもの、ないないのもの、嘘が混じってるであろうもの(世の中、核心に触れるのは怖いよね)ささやかなもの、大きすぎるものなど多岐にわたる。

あーそういう事あるよね。というお悩みもあれば、関係ない人が関係ない事で悩んだりしたり(なんで?って思うけど、その人には重要で編集者は面白いと感じた訳だ)、本当に切実な想いを募らせたり、斜に構えたり、と、そこにある種のエンターテイナー性もあったりで、選ぶ方も(これがベストと思う人に繋げる事を含め)すごいな。と思う。
稀にこの人でよかったのかな。という組み合わせもあって、そういうところまでが面白い。


答えを返す回答者の方々も、流石その道のプロだな〜と思う事も多く、私なら(知らねーよ。)なんて思いながら、内心どうしよう。と思う質問も、これをなんて上手に、専門的に、客観的に、寄り添って提示したり、正直さや素直さを持って、あるいは大人の対応やあたたかみを持って、ぼやかしたり包んだり、はたまた正面切ったりして、真実や現実や考え方を見つめ直す様に伝えたり、諭したり、教えたり、そのままを至って簡潔に伝えたりと、様々な切り口で相談者に答えるのだ。

答えには、ほんわか温かい気持ちになったり、モヤモヤした気持ちが解決して(相談者は分からないけど)スッとしたり、ヒヤッとしたり、なるほどこういう困り事にはそうすれば良いのねと膝を打ったり、あるいは浮き彫りになった真実が、ホラー要素を含んでおり、ゾクッとしたりもするが、沢山の自分の感情に出会ったり、世の中には沢山の見方があるもんだと沢山の声を知る事も、面白かったりする。

普段であれば、相談者と回答者の交わらないであろう二人の思考のやりとりを第三者として見るのも不思議な世界に迷い込んだ気がして深い。

たった一度の交流で、相談者のリアルな人間像を理解し浮かびあがらせることができる事も、ただただ驚く。
(字数の加減もあるので、ある程度編集者の方が相談者に了承を得て読みやすくたりもしているらしいが、相談内容がブレない様に編集する技術もすごい。)

そして、伝え方一つでこうも相手を納得させたり、目の前を明るく切り開く事が出来るのかと驚き、自分ならなんて答えるかをまた考えてみたり、本来のエレクトーンの活躍と違う形で、私はそこで新聞を睨みエレクトーンに向き合うのである。
(その日届いた新聞は玄関近くのエレクトーンの上、正確には蓋をした状態のエレクトーンの上が定位置である。可哀想だ。)

そうやって、長時間エレクトーンの椅子に座り、新聞を開いていると、猫がエレクトーンにひらりと飛び乗り、スタスタと新聞の上へ乗り、私の顔の前で後ろ向きに座ってしまうので、『うーん。なるほど。これはモフモフ…モフモフの、モフモフですね〜はいはい〜わかりました〜答えはモフモフですね〜』なんて意味の分からない事を言いながら、猫に顔を埋めて迷惑そうにされるまでの謎の儀式が私の習慣であった。

人生相談については、友達に『暗すぎるwww』と笑われ、母にも『暗っ(笑)』と笑われたが、その内、母も読む様になり『今日のはまだ読んでないねーん。どうやった?』や、『私はもう読んだで(ドヤ顔)』と報告があり、読んだ後の感想を言い合うのも楽しみの一つとなったりした訳である。

たまたま見つけた扉は、大人になった今、相手とのやり取りの一幕でどう伝えるべきかのひとつの考えや想いになったし、あれだけ多くの相談が寄せられると言うことは、世の中には沢山の考えや色々な見方の人がいるんだな(伝わらなかったら伝わらなくてもそれで良し)とも思える様になったし、毎日毎週ワクワクして待つ楽しみというものにも出会えた事で、親と共有共感できたという思い出にもなった。

では、現在では何が扉になるのだろうか。
別に昔が良かったとかは思わない、そういう話ではなく、現在は現在で何かしら別の扉があるはずだ。

それを探したり、誰かと共感したりするのもまた楽しみだろう。

いつかもう少し大きくなったら、姪っ子にも聞いてみようと思う。
君はどんな世界の扉をもっているのか。

いつか。
まだ赤ちゃんだからね。



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