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『弱さ』の味方でありたいと思う

僕は『弱者』『強者』という構造化がきらいだ。経済的弱者、身体的弱者 etc...。構造化することで、問題提起や支援がしやすくなるという側面はあるかもしれないが、それは政治的/制度的/ビジネス的に有用であるという意味以上のものは無いように思う。

必死で生きていたら、いつの間にか『強者』または『弱者』のラベルを貼り付けられ、周囲からそういう眼でみられる。『強者』も『弱者』もそれによって被る悪影響はあるんじゃないだろうか。

いつしか、『強者』『弱者』というラベルが、『強さ』や『弱さ』という言葉に単純化され、それが本来個別的に抱える『強さ』『弱さ』として周囲に認定されしまう。

当人としては、そんなこと言われても僕はそんなに強くない、いうほど弱くはないよと、『強さ』にしても『弱さ』にしても誤った認識を生んでしまうことになる。

また、社会は『強さ』や『強者』を良きものとし、『弱さ』や『弱者』を改善するべき対象とみなす傾向が強い。

『弱さ』を発見しては、それは問題だ、どうにかしなければ。と。

しかし、それって当人にとって良いことなのか。という視点が欠けていやしないだろうか。

『弱さ』『強さ』というのは極めて主観的で、環境への依存性も高い。仕事においても、配置転換したら急に輝き出す人なんてざらだし、その2項対立構造自体、曖昧なものだと思う。

とは言っても、人はどうしようもなく『弱さ』を抱えながら生きているし、『弱る』時なんて数え切れないだろう?

『強さ』や『弱さ』って、人が等しく抱えているものだ。どちらが多いも少ないも無い。その表出するタイミングや環境に個別性があるのだと思う。

あなたもそうじゃないだろうか。僕だって、絶賛『弱って』いるし(笑)。

そういう時に『弱っているから助けて欲しい』って言うことって勇気がいる。なんでかって『強い』ことが良いとされている中で、そんなこと言えないじゃないか。それこそ『強者』と認定されている人なんかは特に、だ。

よくよく自分の日常を観察して欲しい。家庭でも会社でも良い。見えない部分で、自分の『弱さ』を助けてくれている人やケースがあるはずだ。知らぬ間にあなたからの発せられている援助希求をキャッチしている人がいるのだ。

それって、とっても素晴らしいことで、ありがたいことじゃないだろうか。

もっと『弱さ』をさらけ出しやすく、人と人との助け合いがたくさん生まれる社会って、とても素敵なんじゃないだろうか。

そんなことを、友人のTweetをみて思ったのだ。こんなサービスがあったら、僕は今すぐ使いたいな。


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