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空気を一緒に感じていたい

日々の生活で僕が気をつけていることが、いい感じのnoteに書いてあったので、アンサーソング的にnoteを書いてみる。

数多の歌でみられる『あなたの心に触れたい』『私の心に触れられたい』または、勝手に『心を覗かないで欲しい』といった『心』にまつわる名曲や迷曲たち。

人は目に見えないものに、時には過剰な期待を、時には淡いロマンを、時には切なる願いを、時には孤独を癒やす何かを、時には人智を超えた力を求める。

『心』はその舞台装置の1つだ。『心』が欲するもの、欠けているもの、それらを『何かしらのカタチで表現したい』という根源的な欲求が人間にはある。踊り、文章、詩、歌、などは最たるものだろう。人によっては起業かもしれない。それは、発露と言い換えても良いかもしれない。

発露=心の中の事柄が表にあらわれ出ること。

以下ののnoteをから抜粋させていただくと、文学者のような文章でなくても、バレエダンサーのような踊りではなくとも、歌姫が奏でる歌でなくとも、人は日々何かかを発露させ、その行き場を求め、ひいては受け取ってくれる人や場所を求めている。

「心」は目に見えない。目に見えるのは、その人の「身体」だけだ。私たちは、相手の「心」を、その人の身体の振る舞い(その人が書かれた文章やその人が話したことを含む)の向こう側に読み取るしかない。だから、「心」を扱う者は、一番最初に、相手の振る舞いや仕草、発言などを、「心の表現」として受け取ることを身につけるのではないか、と想う。

なんとなく呟いた弱音、気が付かれないようについたため息、みられないように出口付近でしたスキップ、いつもより早口な口調、不自然なほどに動いてる目線...etc...

それらすべてが表現だと僕は思うのだ。そこから、相手の感情、体調を想像し、接する。そして、接するというは『ただ隣にいる』ということすら内包するものではないだろうか。

『いる』という行為が、相手にとっては『する』という行為として受け止められることもあるのだと思うのだ。

それは、相手の振る舞いや仕草、発言などの「心の表現」を受け取る1つの形態なのだと僕は考えている。

そして、それらの『小さな表現』たちを見逃さずに、受け取ることが、僕は『やさしさ』という概念を構成する大事な要素の1つではないかと考えている。

それこそ、空気を一緒に感じていたい、と思うのだ。澱んだ空気も、暖かな空気も、爽やかな空気もすべて含めて。

そんな相手や場所を常に作りたいと考えながら、今日も生き、それすら表現なのだと。

表現者になる、ということは、ある意味で、主体性の獲得でもある。入院して、何もやることがないときでも、私たちは表現者になることはできる。表現することは、do(する)とbe(である)の中間にある。誰かが私のことを表現として受け止めてくれる、ということは、表現するという行為の可能性を獲得することでもある。もしかしたら、街角に生えている木だって、たとえ枝一つ動かせないとしても、表現する者としての主体性を持つかもしれない。

大人になるに連れ、自分の心を正鵠に正確に表現するための文章の書き方、話し方を必要に迫られて学ぶ。

しかし、それ以前に、踊りや歌、その他身体表現で人は心を表現し、他者との関係性を構築してきた。

文章力がある、話力があることはとても大事だ。しかし、そこから抜け落ちてしまう表現のほうが多いのではなかろうか。そこに、表現者の心があるのではないだろうか。

一緒に空気を感じる。

相手の心を感じるには、本当はそれで十分なのかもしれない。


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