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【欠町・八柱神社】まとめ(前編)


はじめに

これまでも愛知県岡崎市に在る八柱神社@欠町について述べてきたが、ここで現在までに判っていること、また、「いつか書かなければ……」と思案していたことを前編と後編に分けて書いていこうと思う。

それで一旦、八柱神社@欠町に触れることは終了したいと思う。
古書等の読書中に見つけた文言等は、また、まとめて記載出来たらと思う。

※八柱神社@欠町を管理なさる宮司さん・氏子世話役の方々と当方は無関係です。当方は上記の神社を建立した人物の子孫のひとりです

2024年3月撮影@ネコチャーン
桜が咲く前

建立年度

天正七(1579)年。
前回の記事で「松平新右衛門が切腹した年」と記述してしまったが、確認不足。大変申し訳ない。
正しくは、建立者・鈴木重辰が身罷った翌年だ。

但し、これは神社(奥宮)の建立であって、屋敷内もしくは近くの土地に神社の原型とも謂える熊野信仰を凝縮したご神体とでも言おうか。
天文八(1539)年。重辰と松平新右衛門姉が姫小川から欠村に越してきて直ぐにそのご神体だけは祠に祀っていたと思われる。

2024年3月撮影@ネコチャーン
本陣下

建立者

鈴木甚四郎重辰、松平新右衛門姉

所縁
欠村・松平家、岡崎・町奉行 松平新右衛門

その後、どの時代から村の鎮守になったのか分かりかねる。しかし、先祖代々が近世まで神主をしながら管理してきたと思われる。
江戸時代末期~明治時代初期 鈴木清太郎が神主をしていた記録は有る。

少し私の話になる。
書くかどうするか悩んでいた話だが、この所以あってか嫌な感覚や先祖の念・感情だけは私も感じ取ることができる。
ハッキリと書く。私には霊感はない。見えないし、聞こえない。
特定の場所等において「行きたくない/通りたくない」「早く離れたい」等、直感に近い嫌な感じや不調は起きても恐怖体験はない。
そもそも根拠のない話は信用しない質だ。
直感・共感や虫の知らせに近い感覚というべきか。それだけは自分でも否定できない。偶然が重なり過ぎると最早必然だ。
これは書かねばならぬことがあるため先述しておく。

2023年9月@ネコチャーン撮
神社内の常夜灯

旧)名称

八王子大権現
※明和四(1767)年当時 その他は後述する「合祀ーー豊受大神(大鍬神)」に拠る

御祭神について

八柱神社@欠町の主祭神は”五男三女神”。
八柱の神様だ。
八柱の神様に加え、天照大神・大己貴命・若宮大権現・豊受姫大神・築山神明宮が祀られている。

2023年9月@ネコチャーン撮

合祀ーー築山神明宮

正保三(1646)年に当時)投町(現・若宮町)に所在した「祐傳寺」内に築山殿の首塚はあった。しかし、投町に下級武士の屋敷を整備するなどとした城下町プランが進められ、祐傳寺は両町に、築山殿の首塚は八柱神社に移転することとなった。

個人的な見解だが、築山殿と松平新右衛門は当然面識があったことだろう。
近くに氏神を持つ村長の一族がいるから……そういった移転よりも、当時の先祖に所縁があったため築山殿の首塚がこの場所に移転されたのではないだろうか。

2023年9月@ネコチャーン撮
築山殿首塚、どうぞ安らかに
2023年9月@ネコチャーン撮
八柱神社内、築山神明宮

合祀ーー豊受大神(大鍬神)

豊穣を願う大鍬神。
明和四(1767)年2~4月にかけて「お鍬祭り」が岡崎の地でも流行したとされる。
別の場所に在った御鍬神社を合祀したのか、はたまた新たに御祭神にしたのか。今となっては判らない。

しかし、現)八柱神社(欠町)が明和四年当時に御鍬神を祀っていた記録がある。

出典:『新編 岡崎市史 近世3』第6章 村政の展開と農民の生活 P872
岡崎市史への出典元:『六ツ美村誌』
※岡崎市史編さん委員会様の転載許可を頂戴しております

上記の図で現)八柱神社・欠町に御鍬神が勧請されたことが読み取れる。
加えて、当時の名称が「八王子大権現」であったことも分かる。

まとめ

これが凡その八柱神社(欠町)の要旨だ。
この後、早くて半年、遅くとも5-10年の内に歴史の調査もあるだろう。
その際に、所謂、”定説”も決まることだろう。
それも新たな情報を所有している人が出さねば議論も始まらない。

また、『ファン(推し)』の方々がいてその業界に活気が出る。歴史もそうだろう。多くの歴史マニアの方が議論や考察等をし、界隈が盛り上がる。
専門家の方が本を出せば研究費も捻出し易くなるだろう。

私は別の分野の専門職だが、その分野を勉強したい方々・ファン(推し)とその分野のプロは相互に支え合っている関係だと個人的に思う。

さて、後日。後半の記事では先祖の思いと「こうしてくれ」と訴えかけられた参拝のマナーについて書くつもりだ。
もうあと1記事、八柱神社(欠町)の記事にお付き合いをいただけると幸いだ。

補足

氏子さん各世帯やご参拝くださる方に被害は及ばないことは先に明記する。
安心して参拝ください。
また、書くか否か……十二分に悩んだ内容だ。少々、眉唾な話になる。

一部の親族・神社関係者からの不敬により、少なくとも今は建立者・重辰、松平新右衛門姉の魂は八柱神社にない。
この1年近く、特にこの2人の念や思いを感覚で受け取り、適した言葉にしてきた。何度、刀を抜き掛からんばかりの憤りに触れたことか。

御祭神はいらっしゃる。築山殿もいらっしゃる。
しかし、私たちの先祖の魂は八柱神社(欠町)にはいない。
「熊野に返る」。そう伝わってきた。しかし他の神社に居場所があるわけでもない。気が済むまで鈴木の分家の神棚に納まっているようだ。

私の力不足かもしれない。戦い処を間違えたやもしれない。
しかし、建立者にこのような思いをさせるのは如何なものかーー。

鳥居の内は神域だ。
そこで生きている人間のエゴが優先されるとどうなるのか。これはどこの場所でも共通する内容だと思うためこれを書いたわけだ。

何より、実体がないがために不敬に怒りに打ち震えこそすれ、それを伝える術を持たない先祖の感情を私の心の内だけに収めておくにはとても悲しすぎる。
自らが建立した神社を「私が建てた神社はもうない」と強く拒絶する気持ちを代弁できるのが私だけであるならば、それを書かずしてどうするか。

気休めにもならないが、しばらく神棚には良い酒を奉納しようと思う。


最終改定: 令和 年 月 日( 回目)
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします
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【参考文献、出典元】
新編 岡崎市史 近世3
新編 岡崎市史 総集編20



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