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【ショート小説】ニュー・ヨイトマケノウタ

(もうどうでも良くなった。)
そう思うと講義中の大学を飛び出して、そのまま電車へ飛び乗った。
昼間の車両は人も少なく、向かいに広がる大きな窓からは、夏を間近に控えた空が子供のような雲を抱えていた。
(思えば何ともなかった人生だったわ。)
実家は都内にほど近い千葉のマンション。父はサラリーマンで、それなりの生活を送れる位の稼ぎ。母はパートで猫の保護活動に情熱を注いでいた。そんなありふれた家庭で何も不自由無く、何も感じないまま体だけが大きくなっていた。やりたい事も将来の夢も何もない。只、これからのひと夏が今の生活の終わりである事に気づいた後、漠然と将来に対する不安だけが、ラピュタを隠した天空の雲のように頭の上で轟き叫んでいた。
(私死ぬわ。)
そう思うといくつかの死に方を考察を始めた。
(まず、痛いのはダメ、時間がかかるのも嫌。後は人に迷惑がかからない方がいいわ。)
電車は自宅の最寄駅へ到着し、人混みをかき分けるように改札を出た。外に出ると、車両のスクリーンで見た青い空が無神経に優しい光を照らし付ける。私は光を避けるように、足早にマンションに入ると、ぽつんと置かれたローテーブルに、ごめんなさい。と手紙を残しベランダを眺めた。
(あ、ここダメだ。事故物件になっちゃうし、そもそも2階だし。)
再び外へ出ると実家へ向かった。今日は火曜日、母はパートの日で夕方までは誰もいない。
(ごめんねお母さん。でもこれが一番いいと思うの。)

実家は10階建のマンションで、その10階部分にあった。私がいなくなっても、少しも変わらない実家に入ると懐かしい雰囲気に、張り詰めていた頭の糸がぷつんと音を立てて切れそうになった。玄関の音に気付きにゃあと飼い猫がこちらを眺めたかと思うと、大きな足音を響かせて、走り去っていった。猫とは実に非常である。私はぐらついた意識を何とか立て直すと、ベランダに繋がる窓を開けて空へ出た。瞬間、爽やかな風が髪をかきあげて、身体の中を通り過ぎて行った。
(ここで死ぬのね。)
ベランダの柵に手をかけて、ゆっくりと下を見下ろすと、駐車場のコンクリートが日光を反射して、心なしか美しく見えた。ふと、辺りを見回すと何処からか入り込んだ土埃と灰皿から飛び散った灰が、そこらに溜まっているのが見えた。
(本当に。相変わらず、ずぼらなんだから。)
そう思うと、脇に立てかけてあった箒を手に取り溜まったゴミを掃き捨てた。
綺麗に掃除されたベランダを見て、
(もう少し緑が欲しいわね。あと、床はウッドデッキを敷いてアウトドアチェアがあれば最高ね・・・)
思いに耽っていると、コンコンと窓叩く音がした。
窓の向こうには、笑顔を浮かべた母が手を振ってこちらを眺めている。
太陽はわずかに熟れた果実の色を放ち、どうやらここで死ぬのは未遂になってしまったようだ。
母と夕食を食べた後、帰りの道すがらスマホに向かいながら次の計画を立てていた。
最寄り駅で降りると、そのまま自宅へ戻り自転車に乗り換えると、隣町のホームセンターへと急いだ。
ホームセンターに入りカゴを手に取ると、足早にアウトドア用品売り場へ直行した。売り場には、いくつかの炭と七輪が見つかった。脇には、しっかりと焦げ目を付けて今にも油をぽとりと落としそうなサンマのポスターがこちらを見ている。ラインナップを眺めたが一番安い七輪が2500円、練炭に至っては20キロセット売りしか無く5000円もした。
(何人殺す用なの。)
贅沢も言ってられず、薄い財布からなけなしのお金を取り出すと、それらを購入して自宅へ戻った。自宅に入って電気をつけると、ローテーブルに虚しい手紙が間抜けな姿を晒していた。そのまま床に突っ伏しながら、レンタカーを手配した。ここでも一番安いプランの24時間3800円を明日の11時から選択すると、ベッドに転がって瞼を閉じた。
(死ぬのってお金がかかるのね。)
知らぬうちに深い眠りに落ち込んで、次第にラピュタ雲は姿を隠していった。

明るい光が、瞼を浸透して眼球に直接差し込んだ気がした。頭に稲妻が走った感覚に襲われると、ベッドから飛び起きてスマホを起こした。午前10時30分の時刻を見ると、未だ眠ったままの足に力を入れて、洗面所へ走った。歯を磨いて顔を洗うと、昨晩お風呂に入り忘れた事に気付き、シャワーを浴びて髪をアイロンで巻いた。
化粧をしていると、マスカラが昨日で無くなっていたことを思い出した。
(なんでこんな時に。)
自宅を出る頃には、11時10分を過ぎようとしていた。外は昨日に引き続き無神経に青く、午前の太陽は明るい挨拶を投げかけている。私は、その挨拶を無視してまるで競歩の選手の如く、決して走らずに急いだ。走ると前髪が崩れてしまうからだ。薄い汗が肌に現れそうになった時、コンビニに入ってマスカラを買った。コンビニの外に出てマスカラを塗ると再びレンタカー屋へ向かった。
レンタカー屋に無事に着いた頃には、11時30分に差し掛かっていた。そのまま、遅刻の謝罪を済ませ鍵を受け取って車に乗り込んだ。目的地を実家付近の廃墟となっている市営マンションに設定すると、これ以上ないスロースピードで走り出した。車の運転は人生で4度目だった。恐る恐る、車を進め目的地に到着した時、既に午後2時をまわっていた。広い駐車場には、定期清掃か何かの車が端に止まっているだけで、人気は全く無かった。清掃の車から出来るだけ遠くに車を止めると、エンジンを切って一息ついた。ボンネットの向こうの景色には、高く登った太陽は見えず、青く透き通った空が夏を隠すレースのカーテンの様にたなびいている気がした。
(これならいいわ。綺麗なところで死ねる。)
少しだけリクライニングを倒すと、すっと涙が流れて、薄紫のワンピースへ吸い込まれていった。
ふと、運転席側の窓を見ると、清掃員らしき人が首にタオルを巻いてマンションの窓をモップで拭いている姿が目に入った。汚れた制服に薄く張り付いた汗を湿らせ、せっせと窓を一つづつ丁寧に拭いている様は、ずいぶんと慣れた手つきで雨風の汚れを落としている。帽子から一本に結んだ髪が揺れて綺麗なリズムを刻んでいた。磨かれた窓ガラスは太陽を受けて空を映していた。そうして何枚目かの窓を拭き終えると、脇に置いていた腰回りほどの大きなバケツを持ってこちらの先にある水道へ近づいてくるのがわかった。私は咄嗟にリクライニングを倒して仮眠を取るふりをした。目の前を通り過ぎていく清掃員を薄目で確認すると、頭の上で蠢いていたラピュタ雲から轟音の雷が脳内に直撃した感覚が走った。清掃員は浅く日に焼けて、汗に濡れた顎の側には見覚えのある小ぶりのピアスがキラリと光っていた。私が15の頃初めてお小遣いを叩いて母の日にプレゼントした桜の花のピアスだった。顔を上げずに何とか母を視界に入れると、車より10メートル程先で大きなバケツの水を捨て、水道でモップを洗う後ろ姿が見えた。汗で張り付いたシャツからは細く華奢な肩甲骨がしっかりと輪郭を浮かべている。そうしてまた、大きなバケツに水を並々と張るとマンションへ運んで窓を磨く。
何度も何度も目の前を通り過ぎていく汗にまみれた母を見ていると、倒したシートのベッドカバーがぐっしょりと濡れて綺麗に巻いた髪はしっとりと水分を含んでいた。

自宅のドアを開けて電気をつけると、ローテーブルには例のメモが、からからと乾燥したままそこにあった。私はそれを手に取ると、両手で綺麗に真っ二つ❤️
頭の上を漂っていた雲は、ラピュタを隠したまま消えていった。徐にスマホに手を伸ばす。
「お母さん?今から家に帰っていい?」

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