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【ショート小説】揺り籠と墓場7号

しんと静まり返った闇の中で、パチパチと沢山の拍手が鳴り響いた。辺りに人気は無く、パチパチとした音と微かに響く水面の揺らぎが空気の様に世界を包み込んでいた。かつて純白であったであろう船体は暗闇でも分かるほど黒ずんで、男を乗せたまま、その微かな命を右へ左へ振っては止まり、振っては止まりを繰り返している。船頭の縁から辺りを覗き込んでいた男は、僅かな陸地の向かいにちらりと目を向けた。船尻には、幼児程度の大きさの見た事の無い生物が、自分の居場所と言わんばかりに、どかっと腰を下ろして、こちらを眺めている。ずんぐりと丸く、心なしか薄ぼんやりと光を放っているように思えて、目と思しき物は人の位置と他に額部分に計三つあった。三つ目の瞳は動くことはなく上を向いている。どうやらこの空の遥か遠くを臨んでいる様である。

今から六時間ほど前であろうか、男は心労から逃れるべく、人生の全てを陸地へ置いて定期に航行する貨物船へ乗り込んでいた。古ぼけた船のひび割れたデッキは数人の船員を除くと、巨大なコンテナが所狭しと並ぶ空虚な世界であったが、海を幾度か越える距離の船旅としては充分に感じる。時折後ろを通る船員も、こちらには目もくれず先に渡した七千円をポケットから覗かせたまま、賢明に仕事をしていた。きちんとしまえとも思ったが、奴以外の船員も男の姿を一瞥すると、まるで扱いは貨物同様に関心を払わなかった。ここでは密航など日常なのであろう。船から臨む海から、かつて自分が人生を過ごした土地がゆっくりと遠く小さくなっている。街で一番高い教会の鐘は、誇らしげな姿を米粒大にして、次第に見えなくなった。風が湿り気を帯びて強くなった。男はデッキにしゃがみ込むと両足を抱えてデッキを歩く蟻を眺めていた。そうして、一時間程航海した辺りであろうか、船全体に大きな地響きがガツンと鳴り響き、船は一気に斜めに体を傾けて止まった。コンテナは我先にと、海へ逃げ込んで見えなくなった。船員達が慌てて、操縦室から駆け出してきた。「座礁だ。早く逃げろ。」そう言うと船に常備している救命ボートを瞬時に膨らませ、全員それに乗り込むと海に落ちた。男も慌てて飛び込もうとデッキから身を乗り出すと「ここはダメだ。デッキの端にある緊急船を使え。」と船員が捲し立てる。構わず、フェンスに足をかけると「ここは三人乗りだ。来たら落とす」七千円を掠め取った船員が殺人鬼の様な形相で言い放った。グラスの氷が、外気に晒され形を失うスピードで、船体はその角度を鋭くさせていた。

向いに座している奴は、額の眼をしばしばと、閉じては開け、じっと暗い夜空を見張っている。時折、欠伸の様に大きな口を開けたかと思うと、何やらモゴモゴと唸って、また置物の様に動かなくなった。

元の船が座礁して無我夢中で、しがみついた古い救命船は、明らかに長年手入れすらされず、打ち捨てられている物であった。心臓の高まりが落ち着いて来た時、既に男は海の直中をふらふらと笹舟の様に浮遊していた。遥か彼方に沈没する船の穂先が水平線から争う様に少しだけ伸びて、程なくして消えた。波の手招きは想像より早くこの船を遠くへ運んでいる。
ふと、背後でパチリと海面が叩きつけられた音が聞こえた。振り返って海面を覗き込んだが、そこには只、一寸先を闇に隠した無慈悲な海が、波の力を持って音の痕跡を消して、素知らぬ顔をしているだけである。男は、早々に追跡を諦めて体勢を元に戻すと、船体の向かいに、何者かが悠然と座しているのが視界に入った。
何だ奴は、いつこの船に入った。男は、訝しげに「あの船の方ですか?」と言葉をかけたが、それは反応することなく、胡座の真ん中で手を組んでいるだけであった。この海にいる人間は、あの船の乗組員以外には考えられなかったが、どうにも人間とは異なった雰囲気が、小さな救命艇に満ちている。まるで河童のミイラの様な、人と言えば人のような、それ以外と言えばそう感じるような生物であった。その者は、幼児の様な体を微動だにせず、器用に腕だけを動かして、覆い被さった髪を分けてこちらを覗き込んだ。奴には目が三つ存在していた。こちらをじろりと覗く二つの目の斜め上方、額部分にある目は、白眼を剥き出す様に、只じっと頭上の空を見やっている。男は一瞬後ろに後退りした後、ほろっと笑みをこぼした。
この船で、一体どこに逃げるのか誰に叫びを聞かせるのか。辺りには、暗い青色を広げた海と空が永遠の如く広がっているだけであった。
男は、いやに気持ちが整理出来ている自分にむず痒い違和感を感じて、船頭より彼方の水平線を眺めた。何もなかった。男にもこの世界にも。やがて、日は手に届かない程の位置に落ち込み、あの船の穂先と同じく程なく沈んでいった。アンタレスが見えたかと思うと、瞬く間に様々な星々が目を覚まして、ドーム状の空に零した飴玉の様に淡い色と光を散りばめ始める。
向かいに座っている奴は、ぐぐっと更に三つ目の瞳を天に向けて、淡く発光している。
男は再び笑みをこぼした。まったく何者か、光る事も出来るのか。
呆れ半分に男は足を伸ばすと寝転がった。
眼前には、全てを覆い尽くす深淵の闇と幾千、幾億の星が温かみすら感じる手を広げて男を見ていた。
背中には、空と同じく深淵の闇を孕んだ、海の感触が硬い船体を擦り抜けて感じられた。海もまた、おいでおいでと黄泉の誘いのような柔らかな波を揺らしていた。

その時、眼前の黒い宇宙の中に一際大きく輝く星の存在を感じた。目では見えなかったが、確かにある気がした。同時に向かいにいた奴は、すっと立ち上がって、それに向かって大きく吠えた。発光は既に閃光となり、無数の火花を撒き散らしながら、奴は宇宙へと沈み込んで消えた。蛍のような火花の群れは、主を失い方々で奴と同じく消えていった。
男が感じた深淵の奥底の大きな星も消えたように思えた。
そろそろ、潮時であろうか。
「さよなら、スーパーノヴァ」
そう空に言葉をかけると、静かに瞼を閉じた。恐ろしい程の睡魔が、押し寄せる波のように男の意識を飲み込んでいった。
波はいつまでも揺り籠を揺らしていた。

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