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【ショート小説】わたし少女A

目には見えないほどの巨大な団扇を振り下ろすように、身体を吹き飛ばそうとする風が背中から足早に通り過ぎて行った。僕は不意にそれを掴みに全速力で走り出した。9月も半ばに差し掛かった午後の2時頃である。車も見ずに道路を横断すると、立ち塞がるフェンスを鷲掴みにしてグイグイと上へ登り、いとも容易くそれを乗り越えて、日常の向こう側へ降り立つ。誰もいない場所には希望に満ちたような鋼が遥か遠くまで伸びている。その上に飛び乗り、ふと空を見上げると恐ろしい程澄み渡った青い空に、ぐにゃぐにゃと形を変える白い雲が今にも千切れそうになりながら、いつもの何倍も速く流れていた。僕は見失った風のいく先に目星をつけると、再び全力でレールの上を走りだす。高く打つ鼓動と微熱を帯びた息が自分の中で湧き上がるたび、不思議と笑みが溢れて行く。
「ははは、最高。最高。最最高。ははは。」
そう言うと目の前のレールを蹴飛ばす。金属の特有の音は鳴らず、鈍い痛みだけが右足に残る。
ふと、目の前から数人の人間がこちらに向かって走って来るのが見えて来た。数秒後、僕は笑みを浮かべたまま、そいつらに腕を捩じ上げられながら、地面に頬を擦り付けていた。捕まえようとした風は最早どこかに消えていた。

警察署を出ると、棘のような朝日が僕の眼球を突き刺して離れない。身元引受人の叔母は、警察署の門を出るや否やすぐに僕を捨てて走り去っていった。警察で夜を過ごすのは久しぶりであった。硬い簡易的なベッドで寝たせいか、全身にピリピリとした痛みが残り頭を苛立たせる。ふぅと大きく深呼吸をして心を落ち着かせ、ゆっくりと股間に手を動かす。ピリピリとした痛みは、肘の関節から僕の脳に走っていくが、気にせずイチモツをボロりと出すと、丸一日溜まった尿を警察署の門に振りかけた。身体中の詰まりが取れるように、力が抜けて次第に心地良さがイチモツの底から湧き上がって来る。僕は自然と笑顔になって、上を向いた。抜けるような朝の空は何も言わずにそこにあった。スコンと通りかかった警察官が僕の頭を叩いた音が綺麗な青に溶け込んで行った。

警察署を出て街を歩いていると、無性に腹が減っている事に気がついた。そう言えば昨日から何も腹に入れていない。獣のように鼻から匂いを辿ると、燻んだガラスの向こうから甘辛い匂いが雪崩れ込んで来る。僕は匂いに誘われるまま、自動ドアを潜った男の後ろに張り付くように店内に入った。どこか湿気を帯びた店内に男が腰を下ろし、僕も隣に座るとすぐさま水を持った店員がやって来て顔も見ずに立ち止まる。牛丼と味噌汁を注文して、出された水を一口含むと僅かに火照りが冷まされたようにふぅと男が息を吐いた。外は行き交う人々が腹も空かせず、真っ直ぐ前だけを見て歩いている。僕は腹部の空間を押さえながらそれを見ていると、おまたせしましたと先程の店員が伝票を見ながら隣の男の目の前に牛丼を置いて早々に立ち去った。男は牛丼を見て注文通りである事を一瞥すると立ち上がり、奥にあるトイレへと歩き出した。僕はすぐさま隣の席に移るとゆっくりと甘い汁に浸ったペラペラの牛肉を頬張る。口の中に広がる汁の旨味が脳に到達すると、自然と笑顔が溢れる。二口目からは、勢い任せに牛丼を掻き込む。汁の味のする米としない米が口一杯に広がって、どんどんと腹に落ちて行くのが分かる。僕はコップに僅かに残された水を飲み干すと満面の笑みで店を出た。満腹の街は昼近い日差しに満ちて、まるで自分の腹のようだと思った。爽やかな風が頬を撫でると、次に凶器のような爪先が腹を貫いて行く。僕は満腹の街に頬を擦り付けながら、先程の店員に腕を捩じ上げられていた。
「この、イカれが。誰か警察を早く呼んでくれ。」
満面の笑みと満腹の地面が隣同士で街行く人の表情を見ていた。

薄暗い勾留所は切れかかった電燈が危篤間近の心電図に似た動きをしてる。僕はそれを見ながら明日の事を考えていると、コンコンと部屋をノックする音が聞こえ、こちらの返事を待たずに扉が開いた。昨日と同じ警察官と何やら白衣を着た男がゆっくりと部屋に入ると、静かに扉を閉めた。調書を開くと警官は口を開く。
「今度は盗み食いか。もうだめだな。お前。今日から校正施設に入ってもらうから、しっかり治せ。」
そう言うと、後ろ手に僕の両手に鉄のような布を巻いて首に紐をつけ、肩を持ち上げ警察署の外へ連れ出した。外は先程と変わらぬ穏やかな光が一面を覆っている。
「こんなにボロボロになって。辛かったね。もう大丈夫だから。安心して。それじゃあ、これ飲んでね。」
白衣の男は白い錠剤とペットボトルの水を手にして、どこか薄っすらと笑っている。警官は僕の肩をぐいっと地面に押し付け無理矢理に口を開けさせると、手際良く錠剤と水を流し込んできた。何事か分からないまま口の中をチェックされると、そのまま小さな箱に押し込められ、車に乗せられる。車は静かに揺れて次第に僕の意識はぼんやりと滲んでふっと幕を下ろした。

目を開けると、一面真っ白な世界が広がっていて、僕と同じく連れてこられたであろう、知らない連中が皆一様に不安そうに白い壁を見つめていた。10メートル四方の窓の無い部屋におよそ20程は詰め込まれているだろうか。泣き叫ぶ連中を他所に僕は壁に体当たりをかましてみる。身体に響く低い音を立てて背中に痛みだけが残った。到底破れそうは無い。それでも何度も何度も背中を打ちつけていると、異常に息が苦しくなってきた。辺りを見渡すと聞き慣れない噴射音がゆっくりと只確実に吹き込んでいるのが分かった。気が付けば周りにいた連中はぐったりと座り込み、今にも途切れそうな細い息をヒューヒューと鳴らしている。そうして次第に僕の身体も壁に弾かれたまま立ち上がる事が出来なくなっていた。朦朧とする意識の中で、イカれと叫ばれていた幸せな頃を思い出していた。風が僕を追い抜いてそれを無心に追いかけていただけ。風の吹かない部屋で、人工的に産み出された気流音を聞きながら、只一つだけ思い出した事があった。
「そうだ、僕は猫だった。当然、名前はまだ無い。」
誰も気付く事は無く、自然と笑顔が溢れていた。

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