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【ショート小説】宿命さえ運命さえも、どうぞ輝かせて

僅かに冷え込んできた空気を喉に入れ、微かな張りを感じると、意識は鮮明に色を付けていく。顔を上げて、いつもの景色を見ると顔面に張り付いた風が優しく髪をかきあげて、冷気を残したまま何処かへ消えていった。5年は乗っているアレックスモールトンの小振りなペダルに力を入れて、出来る限りの最速を保ったまま、僕は幼い頃から通い慣れた道を走っていた。田んぼの間を縫って広がる道路から、細い砂利道に入っていくと、再び突き当たりに舗装道路が顔を出す。辺りは相変わらずの田んぼと用水路ばかりで、茶色く汚れたビニールハウスが所々を風に靡かせながら手を振っている。舗装道路を30秒も進むと、団地に差し掛かる。家の更地程度の公園を通り過ぎる時、自分の息が白くなりかけている事に気がついた。アレックスモールトンはものも言わずに可愛らしい車体を黙々と前進させている。僕は、僅かに視界に入り出した目的地に足の力を徐々に緩めた。ブレーキを握りしめ、すぐには降りずにモールトンに跨ったまま、目的地を見つめた。冬がそこまで来ていると言うのに、氷の暖簾をはためかせて「御厨屋」はそこにあった。長年の雨風に耐え抜いた木造の看板は、既に店名と木目が融合して何やら不可思議な力を醸し、店先のガチャガチャはハンドル部が錆び付いて、中身がなんなのかも分からない。モールトンを店先に停めると、鍵もかけずに入口の引き戸に手を掛ける。ガラガラと音を立てる扉を閉め、道路と地続きのような店内に入ると、ぶぉぉぉんとアイスの入った冷蔵庫が音を立てて挨拶をしてくれた。幼少期と何一つ変わらぬ様に、僕の鼻の頭の方は既に謎の熱を帯びていくのがわかる。薄暗い店内を端から舐めるよう眺めていく。派手な色を薄闇に晒しながら所狭しと無数の駄菓子が並び、天井部から垂れ下がる如何わしい籤が懐かしいアイドルの若かりし頃をセピア色に染め上げている。壁面を眺めていると、一段と薄暗くなった場所に突き当たる。陸続きの店内から一段上がった小上がりには、赤子ほどの小さな火鉢を大事そうに眺めながら、虚ろ虚ろとしてる店主のばあちゃんが申し訳程度に腰を下ろしていた。眼球の奥から込み上げるいいしれぬものを力で無理矢理押さえ込み声を掛けた。
「ばあちゃん、久しぶりやね。」
閉じかけていた瞼を、大きく開けてレンズ越しに僕を見つけると、ばあちゃんは笑っているのかよく分からない表情を見せた。
「あら、あんた大きくなりんさったねぇ。元気ね。」
思わず火鉢に近づこうとした僕を見ると続けて
「火鉢は危なかとよ。離れとっても温かけん。もう少し離れんしゃい。」
と言って今度はしっかりと笑った。何かを言いたかったが、何を言うべきかさっぱりわからなくなった気持ちを悟られぬ様に、縦長の冷蔵庫の中身を見る。中には袋詰めされた、ビニールケースのジュースがいくつも並び、パッケージに描かれている当たり付き‼︎の文字が忘れ去られた文明のような虚しさを漂わせている。僕は、冷蔵庫を開けてそれを一つ取り出して、手に持ったまま壁面の駄菓子を物色し始めた。どれもこれも、見覚えのある懐かしい顔触れで皆、昔のまま陽気な笑顔を振りまいている。香ばしいスナック、科学的な味のするグミ、霞んだフルーツの絵柄のガム。全ての味が脳内から再生されて、口内に広がっていく。彩りの中ふとアイスの冷蔵庫に目を落とすと、当時はこの地域だけしか普及していない事を知らなかった黒いアイスが見える。地元を離れて20年程見なかった顔だった。あれほど、ありふれていたと言うのに。僕は、再び壁面に目を移すと、その中から一つ、イカのデザインが大きく描かれている駄菓子を手に取り、ばあちゃんの元へ持って行った。差し出された袋ジュースとイカの駄菓子を見つめると、ばあちゃんの頬は皺から大きく上に上がる。
「はい、あんたはいつもこれけんね。70円ね。」
知らないうちに、込み上げるものを押さえる事が出来なくなって、足元にぽたぽたと水滴が落ちている事に気づいた。ポケットから裸の100円を取り出して、火鉢の縁に置くと、ばあちゃんは驚いたような表情を作り
「あら、お金持ちねぇ。そしたら、30円のお釣りね。」
とエプロンのポケットから取り出した30円を火鉢の縁に置いた。足元の水滴は既に雨降りの路地のようにすっかりと濡れて、眼球からはボロボロと止めどなく涙が溢れている。
「ばあちゃん、ごめんなさい。遅くなって。あん時の30円返します。」
立ったまま、泣き崩れる僕を見つめると、ばあちゃんはにっこりと笑顔を見せて、蝋燭の炎が消えるように、ふっと消えた。

ここに来てどの位時間が経ったのであろうか。
僕はモールトンに跨ったまま、知らない一軒家を只見つめ続けていた。そこにはたった30年前まで、一人のばあちゃんが営む御厨屋があった。
モールトンの三角フレームはしっかりと濡れて、吐く息は真っ白になっている。
目の前の一軒家では、カーテン越しに僕を畏怖の目で見る住人が何処かへ電話をしているのが見えた。

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