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【ショート小説】Thank you, my twilight

バチんと水分を僅かに含んだ炸裂音が響いた。レースのカーテンを揺らす風が真夏の湿度を外から止めどなく室内へ運んでいる。僕はコップの底に染み込んだ黄色い液体をわざわざ持ってきたストローで吸い出しながら母を見た。浅黒く日焼けした肌は、やけに赤みを孕んで腫れ上がって見える。母は整った顔を醜く歪ませながら、一心不乱に自らの腕をバチバチと叩いていた。どうしたのとゆっくりと聞くと、蚊がね、いるのよ。と渇いた返事が返ってくる。殺すの?僕は母の顔を見ながらそう聞き返した。そりゃあそうよ。薬炊いたほうがいいかしら。そう言うと、段々といつもの優しくて綺麗な母の顔に戻っていく。虫さん、殺していいの?母はぴたりと腕を打ち付ける音を止めて、少しばかり間を置くと僕に微笑み返した。
「そうしないと血を吸われるでしょ。人間じゃ無いからね。」
あぁ、母さんは美しい。僕はそう思いながら、ズルズルと音を立てて、コップの水分を吸い出した。夏はレースから流れる風の様に過ぎ去っていった。
二学期の学校が始まって数週間が経ったある日、小学校で小さな事件が起こった。飼育小屋のうさぎが何かに襲われた様に死んでいた。担任の先生は、イタチか何かに襲われたらしいと帰りの会で報告すると、最近は近所で事件もあったらしいから念の為帰り道では気をつける事と言い残して、号令を促した。先生の目は近く迫ったお楽しみ会の準備に疲弊している様に暗く落ち込んでいた。
秋の空気は夕焼けに染まる前に少しだけ焦げた様な匂いを上げて教室を満たしている。僕はランドセルを背負っていの一番にクラスを出ると、家へ向かう。今日は少年野球の練習日。そそくさと着替えを済ませて自転車で再び学校へ向かった。少しだけ汗ばんだ練習帽はつばを薄茶色に汚して秋の世界に溶け込んでいる。
学校に着いて駐輪場からグラウンドへ向かう時、ふと飼育小屋が目に入った。白いフェンスの向こう側に僅かばかりの砂地と惨劇に静まり返って、何処か暗い小屋が物言わずに只そこにある。僕は飼育係だった。

締めの筋トレを終えてグラウンド整備を終わらせる頃、辺りはすっかりと暗闇に包まれていた。冬場にはナイターが灯るグラウンドも、未だ急激に落ち込む秋の日に追いつけない様に沈黙したまま、大きな図体を闇に紛れさせている。僕はひとしきり友達と話を終え、皆と一緒に駐輪場へ向かうと自転車に跨って学校を出た。暗闇に幾つもの自転車のライトが輝いて、暫くすると一つまた一つと群を離れていく。じゃあまた明日ね。最後のライトがそう声をかけて僕を離れる時、肩にかけたバットがガチガチと自転車の土避けを打ち鳴らし合図を送った。じゃあね。僕はペダルに軽く力を入れて帰路を独走し始めた。暗闇は先程と変わる事なく無慈悲に世界を隠している。暫くペダルを回していると、広い公園が広がってきた。昼間は鮮やかな花が咲き、赤ん坊を連れた人、ランニングをする人、制服の高校生、何もしない人、皆が集まる場所であった。少年野球が無い日は僕も友達と遊ぶいつもの公園。明日は野球ないから遊べるな。そう思いながら公園沿いを走っていると、遥か向こうから何か静かな唸り声が聞こえた気がした。僕は自転車を止めて、耳を澄ませた。
ウゥゥゥゥグ
さっきよりはっきりとした声を確認すると、自転車を降りて静かに声の鳴る方へ近づいてみた。ゆっくりと足音を立てない様に優しく地面を跳ねて近くの植え込みに隠れる。街灯の無い場所に一人の男の様な人がしゃがみ込んでいる様に見えた。僕にはまだそれが一体何なのか理解出来ていなかった。時間にしてほんの数十秒だったであろうか、永遠に似た時を経て、僕の目は暗闇に慣れてきた。薄ぼんやりとした輪郭が確認出来る様になった時、胸と頭を同時に電撃が走った。突然の迅撃に、我も忘れてバットケースからバットを取り出し、暗闇に向かって一刀両断した。バコっと音を立てて、目の前の男の頭をかち割ったバットには未だ、電撃の稲光りがバチバチと光っては消えている。男はしゃがんだままドサりとその場に倒れ込むと、ウゥゥゥゥグと今にも消え入りそうな声を上げて、すぐに静かになった。
暗闇に倒れた男の目の前には、家で見た様なキャンプナイフと、首の付け根から無残に引き裂かれて、赤黒い中身を晒した猫が只あった。僕はバチバチと音を立て続けるバットのグリップに再び力を入れ、バチバチ、バチバチと何度も何度も男を打ち付けた。電撃は一撃を喰らわせる度に、うねった様にバットから放出されて、男の命を食い荒らしている。そうして、次第にグリップを握る手の平が痛みを感じ始めると僕はそのままバットを捨てて、歩いて家に向かった。手の平はじんじんと熱を帯びて、赤く腫れ上がった母の腕を思い出す。秋口の夜は僕の手を冷ます事もなく只々、世界を染めている。
家に辿り着き玄関を潜ると丁度、母が顔を出してこちらを見ていた。
「あら、遅かったわね。ちょっと探しに行こうかと思ってたのよ。」
僕は満面の笑顔で
「母さん、僕母さんに似てる?」
と聞き返した。母は何のことか要領を得ない表情をした後に、すぐに笑った。
「当たり前でしょ。さぁ手を洗ってきなさい。晩御飯、ハンバーグだから。」

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