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【ショート小説】私の青い鳥9号

「お話を聞かせて。」
ベッドに横たわる少女の頬は実った桃の果実のように、微かな産毛を夜に隠してその張りのある肌を眠りにつかせようとしている。
窓枠の中には、白と黒の混じって水分を含んだような雪が、嘘のように外の世界を広げているのが見えます。その欠片は、ぱちぱちと窓を叩くように張り付いては消えてナメクジの這った軌跡のように少しの間張り付いていました。
少女の首まで布団をかけると、老婆はゆっくりと袂にある本を手に取り古びた椅子に腰をかけます。表紙を捲る手の平には、いくら擦っても取れない深い皺が刻まれて、まるで椅子と老婆と本は一体の生き物のような世界を築いておりました。


あるところに、二人の男女の子供が住んでおりました。二人は赤子の頃からずっと一緒で、何をする時にも離れずにいました。互いの両親は山に分け入り木を切り、それを町に売りに行くことを生業としておりました。そうやって、決して裕福ではないのですが、大きな病気もする事なくすくすくと育っていきました。二人が十一才になる年、男の子の父親が突然家を出たきりめっきり姿を見せなくなりました。女の子は不思議に思い、自分の両親にその事を聞きましたが、両親は男の子の父親は遠くに働きに出かけたと言って、それ以上は答えようとはしません。男の子は、父親が姿を消してから口数が減り、時折何かを探すように木々の隙間から青い空を眺めるようになりました。女の子はそんな様子を感じとってか、男の子の前では父親の話はもちろん、自分の家族の事すら話題に出すことはありません。青い空は木々の隙間よりこちらを悠然と見下ろしているだけでした。その年の冬、女の子が学校を終えて家に帰ると、裸電球を一つだけ灯した部屋で父親が神妙な面持ちでたちすくんでおりました。母はエプロンの裾を下まつげに絡ませて、只床に突っ伏して泣いています。父親は女の子を見るなり、足音を出来る限り殺し優しく近づいて、がっしりと抱きしめて、母さんをよろしく頼むと静かに囁きました。それから数日がした後、父親はピッシリとアイロンのかかった、オリーブ色のシャツを着たまま、どこか遠くへ行って帰ってくる事はありませんでした。残された母は毎日決まって午後の四時と十時辺りに泣くようになりました。女の子はそんな母を側で見守り、眺める事しか出来ない自分が情けなくて仕方がありませんでした。男の子は、そんな女の子を見て今まで以上に優しい視線と言葉をかけるようになりましたが、頑なに家族の話はしませんでした。
辺りを取り囲む深い雪が、木漏れ日に照らされて溶け出すと、じっとりと地面に吸い取られてその隙間から新芽が可愛らしく顔を出して背を伸ばします。やがて春は過ぎ夏は走り去って秋が手を振る頃、女の子は泣き崩れた母を寝かせると、自室のベッドに横になりながら窓から見える月を眺めておりました。しんと冷え込んできた空気を身体に感じると、月明かりの空が一層澄み渡っているように思えます。女の子はそっと窓に手を伸ばし、冬の夜空に触れようとすると、ふと窓の景色の端に誰かが座り込んでいるのが見えました。夜風が柔らかく木々を揺らすと、月に照らされたそれは、男の子である事が分かりました。女の子は窓を開けると、雪崩れ込む外の空気に逆らいながら、声をかけます。男の子は冬のざわめきの中で自分を呼ぶ声に気がつくと、ゆっくりと近づいてきました。ゆらゆらと月明かりに照らされ、その輪郭をはっきりとさせていくと男の子の頬には、僅かに冷やされた涙が、その痕跡を残していました。女の子はそれに気付かぬふりをしたまま空を見上げて、燦然と輝く星々を仰ぎました。男の子は真っ直ぐに女の子を見つめたまま、今からこの家を出ると伝えました。どうしても男の子の顔を見ることの出来なかった女の子は一筋の涙を流して、その感情を表現しました。一緒に来て欲しいと告げられると、女の子の頬は月明かりを弾きながらキラキラと輝きました。そのまま、扉越しに泣き潰れて眠っている母に別れを告げると靴を履き、窓枠に足をかけて男の子へ駆け寄りました。男の子はいくらか大きくなった手の平を差し出すと、握った手を引いて暗い夜の中を分け入るように歩き出しました。歩いても歩いても、目の前の闇はただ広く広がったまま二人を閉じ込めております。そうして、次第に青白い空気が濃度を薄め始め、小鳥の囀りが聞こえてきました。あれ程に存在感を放っていた月はすっかり寝床へ入り、代わりに抜けるような青空が広がっております。女の子は、木々の間から覗く青空に目を細めて、何処へ行くのかと尋ねました。男の子は青空のようににっこりと微笑むと、探しに行くのだよ。あの青い鳥を。と言って繋いだ手に僅かばかり力を込めています。そのとき、木々の隙間より広がる青空に一筋の光が走り、もくもくと雲のような煙を携えて空を引き裂いているのが見えました。光源は空に同化するような抜けるような青色で、どこか悪意を孕んでいる事を見抜かれる如く、空からは拒絶されているようでした。その青い鳥が彼方へ飛び去って数秒後、これまで見た事の無い光の波が二人を閉じ込めた刹那、大地は大欠伸をするように揺れて木々は突風に吹かれ、塵になりました。
突如鳴り響いた地面を抉り取るような轟音に目を覚ました女の子の母親は、窓に走り寄り外の様子を覗きこみました。
そこには、青い青い空が只広がっていました。

静かに本を閉じると、老婆は瞼を閉じて鼓動さえも眠りにつかせたように動かなくなりました。
少女は既に深い眠りに落ち込んで、口を僅かに開けたまま、左手の指でみずみずしい頬をポリポリと掻いていました。

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