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短編小説:西瓜割り #虎吉の交流部屋初企画

開けるまで、ちっとも気づかなかった。
「あれ」
お弁当を入れるいつもの保冷バッグのチャックを開けると、そこには見慣れないお弁当箱が入っていた。
「変身してる」
「変身?」
「ミッフィーもいない」
夕飯の準備をしているママが、一瞬だけ手を止めて反応する。変身? 聞き慣れないカタカナ略語を読むみたいに。そしてすぐ、何事もなかったかのように料理に戻る。菜箸で焼いた鯖の身をほぐしている。隣には茗荷に大葉、葱が用意されているから、きょうの晩御飯は焼き鯖と薬味のまぜご飯。うちの夏の定番ご飯だ。
「ねえ、間違えたみたい、お弁当箱」
いつものバッグを持って帰ったのに、どうして違うお弁当箱が入っているんだろう。目の前のそれが、まるで奇妙な動物みたいに見える。図鑑の「絶滅危惧種」のページに載っている生き物みたいに。
わたしはお昼休みまで記憶を巻き戻して、二分の一倍速くらいのスピードで再生した。きょうのお昼、一緒に食べたのはさつきちゃんとななちゃん。いつもはあみちゃんも一緒だけど、火曜日は放送部の日だから、あみちゃんは放送室。一緒にいられないけど、その代わりにお昼の放送であみちゃんの声が聞ける日。お昼の放送なんてクラスの半分くらいしか聞いていないけれど、さつきちゃんとななちゃん、それにわたしは、いつも神妙に放送に耳をすますのだった。あみちゃんの声は、他の放送部の子たちみたいに変に女子アナかぶれした声でなくて、わたしたちはそれを好もしく思っている。一度だけふるいにかけた小麦粉みたいな、さらさらした清潔な声。
放送の時間が終わって、始業十分前くらいにあみちゃんが教室に帰ってくると、あみちゃんは必ず「きょうのどうだった?」と聞く。あみちゃんは放送原稿も書いているのだ。きょうの放送は、来週から始まる地元のお祭りのステージに出演するダンス部へのインタビューと、「夏に聴きたい曲」というテーマで全校アンケートを取った音楽が流れた。
「ダンス部出るんだね、知らなかった」
「話してたひと部長だよね? 誰だっけ?」
「白川さん。四組の」
「あ、なっつん、部長なんだ」
「さつきちゃん仲良いの? 友達?」
「一年のとき同じクラスだった」
「白川さんってめっちゃかっこいいよね。背が高くて。誰だっけ、似てるよね、女優さんでいるじゃん」
「白川さんに似てるひと」
「そう、誰だっけ」
「えー誰」
白川さんに似ている(白川さんが似ている、と言うべきなのだろうか)女優さんの名前が思い出せなくて、わたしたちはめいめいスマホを取り出した。何らかの操作をしているうちに予鈴が鳴る。次の授業は移動教室で、わたしたちはそれに気づいてばたばたとお弁当をしまったり、教科書を準備したりした。
「あ、あのときだ」
あのとき、わたしはお弁当を入れた保冷バッグを取り違えたのだった。
「誰のだろう」
記憶のビデオを再生したり巻き戻したりしていると、スマホが鳴った。
『ゆんちゃん、お弁当箱間違えちゃった』
あみちゃんからの連絡だった。

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やっぱり、これはわたしのじゃない。
部活が終わって、わたしの帰宅はラッシュと重なる。満員電車の中でいつものようにリュックとお弁当バッグを抱えていると、なんだかいつもと違う帰り道みたいな感じがしていた。
バッグの手触りが違う。わたしのそれはもっとぱりっとしている。それにいつもよりちょっと重い気もする。
帰宅してチャックを開けると、そこには見慣れないお弁当箱が入っていた。
「やっぱり」
水色のつるつるした蓋のお弁当箱と、平和なうさぎのイラストがついている小さなタッパー。こわごわといった手つきで取り出すと、タッパーは思いのほか持ち重りがした。
「ん」
開けてみると、きれいに食べたあとの西瓜の皮が入っていた。赤い果肉の気配は感じられない。空腹のカブトムシがお行儀よく食べたあとみたいだ。
「これはゆんちゃんのだな」
ゆんちゃんのお弁当にはいつも果物がついている。わたしはそれにずっと前から気づいていた。いいな、と思っていたから。仲良しの四人でお弁当を食べたあと、ゆんちゃんだけはいつものんびり果物を食べている。りんごやキウイや八朔やパイナップルや。甘い汁が手について、みんなとの話の途中に「手、洗って来る」と言って席を立つゆんちゃん。
「お弁当バッグ、ゆんちゃんとお揃いだったのか」
果物がついていることには目ざとく気づいていたのに、バッグがお揃いだったことにわたしは気づいていなかった。気づいていなかったことに気づいて、自分が関心を持つ事柄でないことへの注目度の低さにちょっと驚いた。「どこでも売ってるやつだけどさ」
駅ビル内の三百円ショップで買った保冷バッグ。ゆんちゃんは間違えたことに気づいているのだろうか。西瓜の皮を見遣りながら、簡潔に彼女に連絡をする。返事はすぐに来た。
『いまから持っていくね』
そういえば、ゆんちゃんはわたしの家を知っているのだろうか。おせっかいかもしれないと思いながらも最寄り駅を伝え、そこで待ち合わせることにした。
日が長い。真夏の夜はなかなか来ない。暮れ切っていない空は見渡せないほどの広さだ。夕焼けが赤い。赤いのに青い。

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教えてくれた駅に着くと、あみちゃんはもう来ていた。人混みのなかで、お揃いのバッグを大事そうに抱えて。目が合って手を振った。
「あみちゃーん」
走り寄ると、空のお弁当箱が硬い音を立てた。
「来てくれてありがとう」
「こっちこそ連絡くれてありがとう。よくわかったね」
「だって西瓜の皮があったんだもん」
「西瓜の皮」
「ゆんちゃん、いつも果物食べてるじゃん。それで、きょうは西瓜だった」
「そうだったっけな」
記憶のビデオを手繰って、ああ、と思い出していると、あみちゃんは言った。
「ね、これからうちに来ない? わたしも西瓜食べたいよ。買って帰って一緒に食べない?」
とっておきといった表情であみちゃんはわたしを見て言った。
「いいけど」
「やったあ」
あみちゃんはわたしの手を取って歩き出した。ふたりのお弁当箱がかちゃかちゃ鳴っている。

駅から商店街へ向かうと、すぐに八百屋があった。閉店直前だったのだろうか、店主と思しき男性が店の前に並べている商品を片付け始めている。
「まだいいですか?」
あみちゃんが声を掛けると、男性は作業の手を一瞬とめて頷いた。
「えーと」
店内に入ると、時期のものだからだろうか、西瓜はすぐに見つかった。薄暗くなった店内に静かに並んでいる。丸のままのや、切られたのや。
「ねえ、西瓜割りしようよ」
「えっ」
言うや否や、あみちゃんは丸のままの西瓜を選び始めた。持ち上げようとすると、予想より重そうだった。
「すみません、これを」
両手がふさがっているあみちゃんの代わりに、わたしは財布を出してお金を払う。うわ、丸のままの西瓜って高い。これ割るの? これから?
「大丈夫、きれいに割るコツ知ってるんだ」
あみちゃんはわたしをちらりと見て、小声で言った。まるでわたしの不安を察したかのように。
「任せて」
八百屋を後にし、あみちゃんは西瓜を抱えてずんずん歩いた。ときどき、何かの確認みたいに、隣を歩くわたしの顔を見る。そのたびにくしゃっと笑うから、わたしもつられて笑うしかなかった。

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西瓜割りというものをしてみたかった。幼いころからやってみたかったことだったような気がする。そういうことを、ゆんちゃんを待ちながら思っていた。
いつもの駅で通り行く人々を眺める。このひとたちは西瓜割りをしたことがあるのかな。あるとしたらいくつぐらいのときに経験するものなのだろう。幼稚園児くらいの力でも割れるものなのかしら。そもそもどこでやるのかな。砂浜?  あんな不安定な地面で?  コンクリートの方が割れやすそうだけど、風情はないわね。
電車が到着し、改札からひとが流れ出る。サラリーマン風のひとや学生に混じって、お揃いのバッグを抱えたゆんちゃんが見えた。顔が見えたので手を振ったら、すぐに振り返してくれた。
「あみちゃーん」
何かの棒を使って割っている(イメージだ)けど、あれは何の棒なのかしら。箒の柄なんかでも代用できるかな。それこそ風情がないけれど。
「来てくれてありがとう」
いつもと違う場所で会うゆんちゃんは、心なしか幼く見えた。ジーパンにTシャツ(胸元にミッフィーの刺繡が施されている)という私服のせいかもしれない。
西瓜割り、一緒にしたいな。誘ってもいいかな。変に思うかな。
「ね、これからうちに来ない? わたしも西瓜食べたいよ。買って帰って一緒に食べない?」
恥ずかしくてその場では「西瓜割り」なんて言えなかったけど。

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悩んだけれど、場所は家の前の道路にした。庭は地面が土だからうまく割れそうにない。道路と言っても静かな住宅街、人通りも少ないから、何も問題にはならないだろう。
「箒くらいしか思い浮かばないよ」
家庭用の竹箒を持っている。「いいの? こんなことに使って」「大丈夫よ」心配を装ったけれど、それは形ばかりだった。楽しそう。いつの間にか気持ちが躍っていた。
転がすように丸い西瓜を地面に置いて、わたしたちはいっときその西瓜を眺めた。
「割るよ」
「うん」
あみちゃんは箒をいつもと反対に持って、「やっ」と掛け声をつけてから西瓜を叩いた。湿った低音がした後、西瓜はぐら・・、とよろけて、しかしびくともしなかった。はるか昔から置いてある達磨さながら、何も言わず形も変えず。
「もう一度やっていい?」
あみちゃんが言う。わたしは何も言わず頷く。
「やっ」
二度目の掛け声も虚しく、西瓜はゆるやかによろめいてその場にあった。
「思ったより難しい」
「そうみたいね。ちょっと貸して」
あみちゃんから箒を受け取り西瓜割り体勢を取る。穂先の部分が服の上からちくちく当たって、避けようとするとひどく持ちにくい。振りかざすと枝が顔に当たるのではと案じると思い切りが出せず、箒はまぬけな音を立てて西瓜の上を滑った。
「難しい」
それからわたしたちは代わる代わるに箒を西瓜に叩きつけた。空には、綿のような雲の額縁の中に、およそ半月といった形の月が照っていた。その鈍くも明るい月光の下で、最初はそれこそ親の仇でも撃つかのように、早く割れろと念じてわたしたちは箒を振りかざした。「やっ」「ういっ」「とおっ」「だーっ」思い思いの声で力を込めながら、箒を振り下ろす。「やっ」「ういっ」「とおっ」「だーっ」しかし幾度となくすかされた・・・・・ような結果を繰り返していくうちに、わたしはどうしてこんなことをしているのだろうか、という気持ちの隙間風がふと胸を撫でた。小学生の頃、漢字練習帳に同じ文字を書き続けていたら、いったい自分が何の字を書いているのかわからなくなってしまうみたいに。ゲシュタルト崩壊というのだっけ。箒の柄の硬さ、穂先の枝の攻撃性みたいな細さ、限られた夜の明かりの中で縞模様のはっきり見えない西瓜、あみちゃんの変な掛け声、七月の夜の、まとわりつくような暑さ。何かの虫の鳴き声が、それら、わたしの見えているものをかき混ぜる。ぐにゃり。でも視界は揺れない。変わらない。あみちゃんが箒を差し出す。受け取って握る。握った感触の、この硬さはいまわたしが確かに感じているもののひとつなのだろう。
「とおーっ」
振りかざすと、それまで聞いたことのない音がした。ずっ。海の声みたいな生き物の生まれる声がした。
「割れた」
ぱっと見た限りでは何も変わらないように思えたが、しゃがんで近寄ると、表面に無数の傷がついた西瓜の皮の一部から、ほんの少し水気がしたたっていた。
「見て」
わたしたちはただその西瓜を眺めた。何か言いたげな半開きの口から、しかし言葉は出なかった。夜の中に、西瓜と箒とあみちゃんとわたしは言葉なくそこにあった。つん、と西瓜をつつくと、果汁は表面をつー・・と流れた。その流れる音は、わたしたちには間違いなく聞こえた。
「聞こえたね」
わたしが言うと、でもあみちゃんは不思議そうな顔をした。それからいつも通りの笑顔で、なぜだか「うん」と言うのだった。


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夏の思い出

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