物語の中を生きる
暖かくなって、やりたいことが増えている。
春、動物が長い眠りから覚めて動き出すみたいに、植物が芽を出し始めるみたいに、わたしの気持ちもうごめいている。そもそものわたしの持つ精神のバイオリズムも同調しているのだと思う。季節とバイオリズムの相乗効果が強く出ているのかもしれない。
あれもやりたい、これもやりたい、あれもこれも全部やりたい。そう思ってしまう。それは半ば強迫観念のようにわたしに迫る。
転職活動をしたい。中途半端になっている資格の勉強をしたい。オンライン自助カフェをもっと充実させたい。読書会を開きたい。気になっているイベントに参加したい。引っ越したい。旅に出たい。おいしいパン屋へ行きたい。ピアノの練習をもっとしたい。本ももっと読みたい。もっと書きたい。早く区切りをつけて新しい方向へ進みたい。
それらの気持ちは派生してさらにわたしに迫る。登録したエージェントのサイトをもっと読み込まなければ。早く履歴書を書きあげなければ。読書会するなら人集めは? ピアノの練習はどの曲を? 早く楽譜買わなきゃ。旅に出るなら休暇はいつ取る? それより引っ越し資金だよね? 単発でどうにか稼ぐ? それならそちらも調べないと。
いっぺんに何もかもできないのは百も承知だ。一日が二十四時間であるのも変わらないし、そもそもわたしはそんなに体力のある方ではないから、まずもって睡眠と休息時間は必要だ。
こういうとき、睡眠は浅く短くなる。例に漏れずいまもそうなのだった(今回の睡眠不足はわたしの外部で起こっている別の問題も影響しているのだが)。ある種の躁状態なのか。ただ、睡眠不足により疲れている自覚はあるし、心身を休ませたい欲求もある。ほどほどに休まないと、ツケになって後日電池切れを起こしてどうしようもなくなるのがオチだ。
この生き急いでいる感覚は何なのだろう。
昔からよく考えることなのだけれど、明日のことを考えて生きるというのはなんと不思議なことだろうと思う。
未来というのは「神のみぞ知る」というのは良く言ったもので、わたしたちはそれ(未来)を誰一人として知りえない。それは明日であろうと一年後であろうと百年後であろうと。明日どころか、生きているいまのこの一秒後でさえ、本来は誰にもわからないことなのだ。じゃあどうやって、このわからなさを抱えて生きていられているかというと、これまでの経験に基づいて予測した未来を信じていられるからなのだと思う。それは、「先週はこうだったから来週もこうなるだろう」といった因果の具体性を自覚している場合もあろうし、漠然とこれまでの経験をかき集めて「ああなるだろうな」と予想する場合もあるだろう。
これまでの経験をもとにした予想を信じて生きる。普段の生活では何も考えずにしていることなのだろうと思うが、ふと立ち止まったとき、それはなんて危ういことなのだろうとぞっとする。
未来が信じられないのだろうか、と思う。それは、裏返せばこれまでの過去が信じられないということだ。
あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと思うとき、たいてい、「明日死ぬかもしれないんだから」という考えがすきま風のように頭の中をめぐっている。明日死んでもいいように、後悔のないように早くやらなきゃ、良く生きなきゃ。そりゃあ本当に明日死ぬかもしれないのだけど(明日のことは誰にもわからない)、その思いつきのような考えが脳内をめぐるまで、明日死ぬかもしれないとは微塵も考えない。
もちろん、平均寿命まで生きると仮定して、それまでの残り何十年を充実した人生にするために、あれをしてこれをして、と計画を立てることもある。そんなときに「明日死ぬかも」のすきま風が吹いたら、逆に意欲はそがれてしまう。明日死ぬのならやらなくてもいいよ。だって死ぬんだもん。
…この2パターンは、「死から逆算して良く生きるための計画」と見れば、もしかすると原理は一緒なのではないか?
とりとめなくそんなことを片隅で考えながら生活していたら、先日ある本の一節に目が留まった。
目的論と予測不能性の共存。わたしはきっとときどき、そのふたつのバランスがうまく取れなくなってしまうのだ。
目的論に傾いて「やらなきゃ」の強迫に陥るかと思えば、シーソーがぱたんと上がるように予測不能性が台頭して、「いいや、明日死ぬかもだし」と一転する。その逆もあり、「明日死ぬかも」の予測不能性が「早くやらなきゃ」という気持ちを掻き立て、やがて目的論に傾くと「まだ先があるから」と意欲がほどほどに落ち着く。
人生が物語だと考えると、先はわからないがまだめくるページがある、と実感できるかもしれない。これからめくるページは、めくるごとに少なくなっていく。しかし、そのぶん、めくってきたページの厚みを感じることができる。指先に厚みを感じられるとき、不確かな未来のことも信じられるようになるのかな。