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人生は白菜鍋説、その2

先日、「人生はコトコト煮込まれた白菜鍋みたいなものだ」と書いた。
これ。

突発的な問題が起きたとき、どうしようもなく抱えておかなければならないときがある。どうにかこうにかその荷物を抱えて、数日なり数週間なり、あるいは数年なりを過ごす。過ごしていくうち、いつの間にか荷物をうまく抱えられるようになっていることがある。
それは、鍋にめいっぱい入れた白菜を火にかけていくみたいな時の流れだ。蓋もできないくらい、あふれるほどの白菜も、やがてかさが減って蓋は閉じ、汁気が出るなどして鍋の中に静かに収まる。外から何も手を加えなくても、時間を経ればあるべき姿へ変化していく。

伝わるか伝わらないかギリギリを攻めた比喩、だとか自分で書いているけれど、言い得て妙だと自画自賛している自分もちゃっかり存在している。

そんなわけで、きっとわたしは誰かにもっとお披露目したかったのだ。そんな折、今日はカウンセリングを受ける日。話の流れもちょうどよく、その場で少し話したのだった。

「…と思ったんですけど、いい例えだと思いませんか?」
と食い気味のアピールで持ちかけた。
うんうんと頷いてくださったあと、
「蛇足かもしれませんが、」
とカウンセラーは言った。
「そうやって白菜が変化していくというのは、鍋を火にかけているからですよね。その火って、いのちっていうことでしょう? ずっと続いているいのちの営みがあるから、抱えているものも変化していくことができるんですよね。きっとわかってると思うけど」
そうか、鍋の中身ばかり気にしていたけれど、器である身体や、その器を生き物にしているいのちの存在があるからこそ、それは変化を遂げることができるのだった。
わたしは先生の気づいたその言葉がすごくうれしくて、「それ、書いてもいいですか?」と言った。そしていま、これを書いている。

わたしの先生は、あまりアドバイスしたりしない。そもそも率直な反応を言葉や表情で表したりしない(と思う)。わたしの話を聞きながらさらさらとメモを取り、ペンを動かしながら何らかの呼吸をしている(ように見える)。今回は違って、だから余計にうれしかった。「わかってると思うけど」と前置きがあったけれど、「気づくべき点に気づいた! でも目の前の本人は気づいていないかもしれない、きっと気づいてないんだろうな、ここは言葉にすべきだわ、伝えたほうがもっと深まる」と感じたのだと思う。わたしの勝手な推測だけれど。先生の表情が喜々として何だか輝いていて、わたしはうれしかった。
ちなみに、この場の存在は先生には知らせていない。これまで書いた内容で、何か伝えたいことがあれば断片的に伝えている程度だ。

というわけで、新たな発見の手助けをしてくれたことの感謝と、しみじみした喜びをフレッシュなうちに書き残したかった。わたしのまわりのみなさん、いつもありがとう。

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