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優しい言語

手話を勉強し始めた。

今までの人生で何度か「手話勉強しないとな」と思って、ちょっと勉強したやつじゃなくて、
ガチで、受験生並みに。

今年の4月から夫の実家のパーラーで午後働くことになって、聾者の方が来た時のために「ありがとう」とか「少々お待ちください」とか接客用語だけ覚えておいた。

そしたら、たまたますぐに聾者の方がお客さんとして来て、実践。
その時に接客用語はとりあえず手話でできたけど、そのほかの会話は全然できなくて、もどかしい思いになった。
「もうちょっと手話できたらよかったなぁ」


それから、少しだけ手話を勉強するようになって、それでもまだガチじゃなくて、それなりーに勉強してた。

それから、"ガチ"に変わる時がすぐ来た。
今、耳の聞こえないCさんが島で働いていて、数日前パートナーさんが島に遊びに来ていて「あなた手話できるの?」と手話で声をかけてくれた。その人も聾者の方。
前Cさんにすこーーーし手話で接客をしたことが一回だけあった。すこーーーーし手話をしただけだったし、そのパートナーさん(Sさん)にもすこーーーーーし手話で返しただけだった。
それなのに2人は「手話できるの嬉しい」ととても喜んでくれた。


その時に、私の「手話勉強スイッチ」が入った。
スイッチというか、今まで「手話勉強したいなー」と思っていた心の中にあった瓶の栓みたいなのが抜ける感じ。
ブワッと一気に溢れた。
その時、喜んでくれたのが嬉しかったから、栓が抜けたんじゃなくて、出てきた感情は「悔しさ」と「怒り」だった。
その感情が溢れた時、涙が出た。
「健聴者が少し手話できるだけで、喜ばないでいい社会にならないと」て。
怒りの感情のエネルギーってすごいね。
原動力になる。


それから今1週間ぐらい、暇さえあれば手話の勉強。Cさんに会いに行って、手話を教えてもらっている。
1つの言語として、手話を勉強すればするほど、
なんで小学校で手話を覚える授業ないんだろう?
と疑問に思う。
英語と同じように、勉強できたらいいのに。
英語みたいに、ちょっとした会話ならできるよ!に皆なればよくない?!
完璧にできる、を求めてるわけじゃなくて、
「ちょっとした会話ができる」が当たり前になって欲しい。
まぁ、こんなに熱く語っているけど、私も最近まで全くできなかったから、強く言えないんだけどね。何を偉そーにって言われるね。
でも、それぐらい考えがガラッとここ数日で変わった。

そして、なにより、手話の勉強が楽しい!!!
手話で会話するのが凄く楽しい。

私は人と喋るのが苦手だ。考えすぎてしまう。
この言葉合ってるかな?この言葉を言ったら相手傷つけてしまうかな?ノリで冗談言いたいけど、言ったら嫌な思いするかな?とか。
もう頭の中ぐーるぐるまわって、やっと出てきた言葉も、夜眠る前反省会。あの時あれ言わない方が良かったよなぁ〜とか。
だから私にとって、「言葉」はすごく重たい。錘のように重たく、なかなか私の口から出てくれない。
でも手話はなぜか気持ちが楽になる。
もちろん、まだ手話を覚えきれてないから、手話を考えながら話すのは大変だけど、それでも自分の言いたいことを、軽く相手に渡すことができる。

私にとって、"優しい言語"なのだ。

まだまだ手話を始めて数週間。
今年中には、日常会話はスムーズにできるようになりたいな。Cさん、Sさんとも仲良くなれたから、よけいね、今すごく手話できるようになりたい。もっと色んな話をしたいし、聞きたい。
頑張るぞーーーーー!!!!

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