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介護日記#6 激動の入院生活 介護2から介護5に

平成27年2月7日にレビー小体型認知症と診断され、支援1から2、そして介護1と介護度が重くなっていった母は、ある日転倒し痛みの為車椅子生活となり、その後意識不明で救急搬送される事に。 その後介護2との通知がある。

緊急手術後長期の入院となった。          病名は『急性腹膜炎・十二指腸穿孔』『骨盤骨折』

術後、特に急変する事もなく少しずつ少しずつ回復していった。レビー小体型認知症であった為点滴をしている間は薬の過剰反応が見られ、覚醒出来る時間があまり見られなかったが無くなると少しずつ変化が見られた。

医師からの病状説明があり手術後の経過は大きく心配ないので、リハビリを始めるとの事。先ずはベッドから起き上がる、車椅子に移る、口から食べ物を食べれる様にする為のリハビリが始まった。

後日経過説明を受ける。

動きが気になる点があるので脳神経外科の医師と一緒に診断した結果、いつの頃になったのか分からないが以前に脳梗塞を起こしている箇所があるといった内容だった。麻痺だったり上手く伝達出来ない部分が今後顕著になるかもしれないという事だった。コロナの心配もその頃まだ余り無く短時間面会も出来たので、毎日顔を見に行っていた。行くと少し会話も出来、リハビリ担当の指導者から今日は車椅子に移乗し廊下に出たり、氷を口に入れる訓練が出来たなどの報告が、嬉しくほっとした。順調な入院生活。

しかし私の心が、悲鳴を上げた。人に会うと動機息切れ眩暈、手の震えが現れ何も出来なくなってしまった。その頃仕事は正社員からパートに勤務形態を変更してはいたが、働ける状態ではなかった。10年勤めたデイサービスを辞めることにした。

有り難い事に、上司や同僚からまた働ける様になったらいつでも帰って来てねと言って貰え、涙がこぼれた。

病状が安定した患者は次の病院に転院しなければならないらしい。入院先のソーシャルワーカーから直接連絡をもらい、希望を聞かれる。近くのリハビリ病院に連絡を取ってみるとの事。直ぐに転院先も決まり転院。少しづつコロナがあちらこちらでニュースになり始める頃だったが、なんとか病室にもまだ面会で入ることが出来ていた。

リハビリが始まった。手術をしてもらった病院と同様に理学療法士、作業療法士、言語療法士の3グループでチームを組みリハビリを進めて順調に結果が出ていると報告を受けた、明るい未来が見えてきた。

病院からの電話。

母の入院している今のこのリハビリ病院でコロナの院内感染が発覚。クラスターが発生し、保健所から母も濃厚接触者としてPCR検査するように指導があり結果陽性だった為今から対応出来る病院へ転院するといった内容だった。まさかと耳を疑ったが事実であり直ぐに転院先に私も手続きに向かわなければならない。

手続きが終わったのはその日の夜11時過ぎ、残念ながらこの病院では面会はできず連絡も先方からのを待つような状態。問い合わせをしてもなかなか繋がらなかったりで諦めるしかなかった。

しかし母は強かった。肺炎は起こしているものの、咳も出ず落ち着いているという主治医からの報告が本当に嬉しかった。

特に急変する事も無く、長めの入院の後またリハビリ病院に戻ることになるが、困った事にコロナの治療中の約1ヶ月間リハビリは全くできず寝たきりで、鼻腔栄養で栄養を取っていた為、体を起こす事から、リハビリのやり直しだった。

転院先のリハビリ病院では以前の入院時は私も病室にまで上がり顔を見る事が可能だったが、今回から全く面会が出来なくなってしまった。唯一モニターでの面会ができたが、一度やってはみたものの耳が遠く認知症もある母が混乱しているように感じ、それ以来病院入り口でスタッフと洗濯物のやり取りする際様子を聞くだけだった。それでも長い入院中のリハビリ訓練によって、歩行器で歩行訓練が出来るまでになっていた。しかし暫くリハビリ出来なかった入院の約1ヶ月間が原因で拘縮が両手足に見られ通常は車椅子生活がやっとといった状態、そして食事はなんとかペーストやとろみ剤を使った物であれば自分でスプーンですくって半分は食べれているという。

入院中に認定調査をしてもらい、介護5に。ようやく長かった入院生活が終わった。寒かった真冬の緊急手術から約7ヶ月後の秋の日だった。

退院する事が決まってからこれからどうするのか、どうしたら良いのか全く決められなかった。私は不安でしょうが無かった。担当ケアマネに泣き付いて色々な相談をした。そしてケアマネから、数日後に新しくオープンする看護小規模多機能が近くにあって明日が内覧会なんだけど行ってみないかと提案をうけた。

ご縁があったのだろう。そこにお世話になる事が決まった。

順調だった。

しかし、退院後少し慣れたと感じた頃体調の変化が起きた。在宅生活約1ヶ月目、家での生活と泊まりが半分位で家でゆっくり過ごしている時だった。

朝からお腹が痛いという。我慢強く、痛いと訴える事がほとんど無い母が痛がっていた。様子を見ていたが午後になっても変わらない。在宅診療の先生に来てもらい見てもらう、お腹が張っているし、痛みの訴えも続いていた。家では心配なので予定通り施設に迎えに来てもらう。体調は戻らず夜に緊急搬送となってしまう。以前入院した事がある病院に運ばれ直ぐに対応してもらえたようだった。私もすぐに入院先の病院にむかう。

診察、検査の結果十二指腸穿孔の手術後の癒着が原因である『癒着性イレウス』

手術をした方がいいか様子を見て行くという。色々な検査、処置をしてしばらくは絶食点滴。しかし回復せず手術をする事となる。

結果、開腹による手術にて一部腸を切除したという。後は誤嚥性肺炎や合併症などの心配はあるが一つ山は越えた。やはり点滴等の薬剤が投与されている間はレビー小体型認知症の薬剤過剰反応が現れなかなか覚醒が出来なかった様だ。しかし、投与が終わると少しずつ落ち着いていった。

順調に回復し始めるとまたまたリハビリ病院への転院。今度は食事は口に運ぶと飲み込むことは出来るが、自分では食べれない。手足が自力では動かせない状態でベッドに座る事も一人では出来なかった。なので車椅子には乗れずベッドに寝たまま移動。

リハビリ病院に転院し、リハビリを行ってもらったが大きく改善する事はなかった。その後退院し、寒い間はお世話になるようにお願いしてあった看護小規模多機能の施設へ行く。

ちょうど意識不明で救急搬送したあの日から約一年後だった。

今母は看護小規模多機能の施設と家の行き来をしながら生活している。

退院時は、ほぼ寝たきりだったのが徐々に車椅子に長く座れるようになり、食事も自分でスプーンを持ち口に運ぼうとしている。残念ながらほとんど口に届かないが。言葉は何を言っているか全くわからなかったが徐々に、ありがとうございましたやまた来てくださいねやお気をつけてや、訪問診療の先生にはお腹が少し張っていますと説明までしていて先生も私もびっくりした事がある。

現在退院から約3ヶ月たち、少しずつ少しずつ人間らしい生活が出来るようになってきた。暖かくなった事、色々な刺激がある事、穏やかな時間が有る事、自宅で過ごせる事様々な要因が考えられるが認知症であってもそうで無くても肌で感じる空気感は解っているはず。

以前働いていたデイサービスでも認知症の利用者と接する機会が多かったが、心込めて対応していかなければ心の奥底を読み取られ心を開いてくれなかった。とても色々な事を敏感に感じ取ることが出来るのだと思う。もし介護者が機嫌悪く冷たく対応するならば、恐らく怒りや悲しみの感情が表情となり色々ないざこざになってしまうのではないだろうか。自分を写す鏡の様な気がする。

今回は激動の入院生活から今の様子を記してみました。        

これからも私は余り無理をせず心を穏やかに楽しく日々を過ごし、介護者として少しでも良い時間を母と共に歩んでいけたらと思う。きっと時間は限られているはずだから。勿論無理な時もあるかもしれない。

母の介護がきっと必要になると思ってヘルパー2級の講習を受け、ヘルパーとして働き、その後デイサービスでの職員として過ごした日々が経験として今に生きています。これまでに出会ったすべての方々に感謝致します。       

あとがき

これまで    介護日記はじまり~#6まで7編にレビー小体型認知症の母の様子を記していきました。

いかがだったでしょうか。

読んで頂けたら嬉しく思います。       

これからも、私が感じている介護の色々について記していきたいと思います。まずは自分の為に書く。何かお役にたてれば嬉しく思います。ありがとうございました。