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“労働”に対しての疑念と不信感

「あなたが考えているほど、楽観はできません。もう少し時間をかけて“ととのえて”いきましょう」。

この日顔合わせをしたばかりのカウンセラーは、最後にそう言った。どうやらうつ病を患っている私の社会復帰は、まだ当分先のことらしい。そう第三者に宣告してもらえて、安心している自分もどこかにいる。

それにしても“ととのえて”なんて、と内心でくすっと笑う。たしか今年の流行語大賞にノミネートされたのだったか。特別サウナ好きでない自分も共感できる新語である。

こうしてnoteに文章を書くのも“ととのえる”ためだし、日々のウォーキングや部屋の掃除もそうだ。

最近は100円ショップで生活をほんの少し便利にするグッズを探すのも、新しい趣味になりかけている。

これも“整える”というより“ととのえる”と表現したほうがしっくりくるような気さえする。100円ショップの売り場でカゴに入れる商品を吟味しながら、生活や心を“ととのえて”いる。

ともあれ、私はうつ病に対して必要以上に悲観することをやめている。同時に楽観することのないようにも気をつけている。

いつまで生活保護を受けながら治療に専念する日々が続くのだろうと、じりじりと焦る気持ちを飼いならそうと努力している。

なにせ私は自分の判断力や直感を信用することが、今や全くできない。ゆえに、病気を患う前よりも他者の言葉に耳を傾けるようにもなった。

ちなみに、初対面のカウンセラーに「自分を信じられない」と、そのままの言葉を伝えた時、彼の表情は一段険しくなった。

「そうやって苦笑いしながら冗談めかして言ってますけど、なかなか深刻ですよ。それじゃあいつまで経っても、何をやっても、自分を責める気持ちが拭えなくてきついでしょう?」。

と、彼もまた、私と同じような苦笑いを見せていたのが可笑しかった。同年代のこのカウンセラーに好感を持った。

家の近所にて。札幌にもいよいよ根雪が振り固まっている。

この1年余り、復職を目指すリワーク施設やA型やB型の作業所を渡り歩いてきて、はっきりしたことがある。

私はこれからの人生において“労働”というものにどう向き合うべきか、そのスタンスを明確にしなければならないということである。

便宜的に、賃金のために働くことを“労働”と書いている。似て非なるものとして“仕事”がある。

“仕事”とは社会貢献に繋がるカロリー消費であり、“労働”とは切り分けて考えている。

私が現在研修を受けている「いのちの電話」の相談員は、“仕事”ではあるが賃金は得られないので“労働”ではない。

どうやら自分は“仕事”に対しての疑念や抵抗感はないようであり、むしろ積極的であるとさえ思う。

「いのちの電話」の研修を受け続けることには、何の迷いもないし、負担感もない。喜びや充実すら得られている。

このような仰々しいボランティア活動でなくとも、手の届く他者に親切したいという想いは、うつ病になった今でも変わらず心に留まっているようだ。

ある日、高齢者から道を尋ねられれば丁寧に道順を教えたし、目の前で小さな子どもが転びそうになれば抱きかかえて声をかけたりもした。

その度に自分に残っている当たり前の親切心や貢献心に安堵した。俺は狂ってなんかいなかった、と。

この数ヶ月、心を追い詰められた者達の凄惨な犯罪がしばしば報道されている。先日のメンタルクリニックへの放火など、うつ病を治療している当事者としていよいよ他人事ではない。

“無敵の人”化した者達の犯罪のニュースを眺めていると、加害者が被害者のようにも見えてくるし、被害者が加害者側に逆転する社会の構図も透けてきて、暗い気持ちになる一方だ。

なにはともあれ、私も相当“無敵の人”側の人間でありながら、まだ社会への復讐心とは距離を置くことに成功はしている。人のためになる“仕事”はしたい。極めて純粋で素直な欲求である。

その一方で、生活費を稼ぐための“労働”への恐怖心や嫌悪感は日増しに強固になっている。

最近ある人から、職場で発達障害と思しき社員が同僚から疎まれ、陰口を叩かれている現場を目撃したという話を聞いた。

何がどうとは言えないが、彼女はどことなく独特なコミュニケーションのスタイルを感じさせるらしい。特に、自分の伝えたいことに集中する余り、マシンガンのように一方的に話し続けてしまう癖があり、それを周囲にネタにされているようだ。人伝に聞く話だけでも、彼女の特異性はなんとなく想像できる。

私が“職場”というものに感じる恐怖は、この話に凝縮されている。

多かれ少なかれ、生活費を稼ぐために“職場”に身を置くと、人が人を思いやるという当たり前の感情が摩耗し、果ては人と人との間に価値の優劣まで発生させるようになる。

発達障害を持っていようとそうでなかろうと、どちらが偉いとか、一方から馬鹿にされて軽んじられる道理など、本来はない。少なくとも「いのちの電話」の研修では、電話をかけてくる者を選別することなく話を傾聴するように教えられる。

ところが“労働”の現場たる“職場”では、仕事ができる者とできない者が組み分けられて、価値のある者とそうでない者というレッテルが貼られていく。上司だから偉いとか、発達障害だからいじめられてもしょうがないという論理や言い分が通っていく。

そこはまこと、残酷で不自然で、負荷の大きい空間である。

私もおおよそ20年そういった環境に順応してきたわけであるが、様々なきっかけにより、心がある種の潔癖性を宿してしまい、どうしても現場に復帰することができなくなってしまった。

いつまでも生活保護に頼り続けることが正しいとも思えないが、あの“職場”に戻ることだけはできないと、心底思ってしまうのも確かなのである。

“労働”に対しての疑念と不信感。

これは、うつの治療を進める中で、肥大することはないものの硬直化しているように思う。どうしてもこのわだかまりを、いずれ折り合いをつけなければならないものとして認識できない。

生涯無条件に現金を給付するという、生活保護をアップデートするかのようなベーシックインカムの導入を、ついにマニフェストとして掲げる政党まで現れた。

ベーシックインカムの導入により、単純“労働”からの開放が進むというが、それに伴って各々が望む“仕事”に生きられる社会も到来するだろうか。

少なくとも私は、今のところは自らを“ととのえ”つつ、状況を静観していくしかない。

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