しずかで、やさしくて、こころよい。『西の魔女が死んだ(梨木香歩)』感想
私はおばあちゃんっ子と言えるほどではなかったけれど、十一歳という多感な時期に同居していた祖母を亡くしたせいか、「おばあちゃんが出てくる話」にはかなり感情を揺さぶられてしまいます。
最初の数ページで、「泣かずに読めるだろうか?」と少し悩みました。
でもがんばってみよう。物語には、読了後しか得られない魔法がある。
それからすぐ、いい話だな、と思いました。
中学校へ行きたくないと言い、おばあちゃんの家でしばらく暮らすことになった主人公・まいの「子どもの視点で書かれている描写」が、大人の目線を通して描かれているはずなのに、とてもやさしい。
身体つきも大人に近くなったけれど、本当はまだ傷つきやすい。でも、それを口には出したくない。そんな年頃の子どもの心境が、あたたかい文体でもって描かれている。そんな印象を持ちました。
やがて話の中におばあちゃんが出てきて、それが私の「おばあちゃん」と切り離された感覚がしました。
おっ、これは大丈夫そう。意味なく泣かずに読めそう。嬉しい。
凛とした態度の、まいのおばあちゃん。ふたりが野いちごのジャムをつくる場面は、目に浮かぶようでした。苦しいとき、つらいとき、「ものを作る」という行為にただ没頭することは、時としてとても良い効果があります。
おばあちゃんが、まいに対して、一人の人間として接していることがとても好ましいと思いました。手放しに褒めるのでもなく、つっけんどんでもなく、ほどよい距離感で。子どもから少し先へと踏み出しはじめ、賢いゆえに孤独を感じているまいに、おばあちゃんが毅然とした態度をとることで、まいの心が少しずつ癒されていくように感じます。
おばあちゃんは、そんなまいに向けて「魔女の修業」を始めます。
生まれつき超能力のようなものを持っていなくても、世の中にたくさんいる悪魔の声に耳を傾けないように、心を訓練することは出来る。それは、意志の力をつけること。それを目指すのは、たいてい意志の弱い人間だから、余計に難しい……おばあちゃんはそう言いました。私もそうです。しんみり。
途中、おばあちゃんの近所に住んでいる「ゲンジさん」がたびたびあらわれ、無遠慮な態度や横柄な気配を漂わせるので、まいはゲンジさんという人間そのものを拒みます。
まいにとっての「悪役」として、ゲンジさんが描かれているのは、まいが今まさに「子どもと大人の境界線」に立っていることに他なりません。
その地域特有の大人たちの口調や、よそ者の子どもに対する接し方……それは、ゲンジさんたちにとっては日常の何気ない会話や仕草だけれども、まいにとっては強い嫌悪感と拒否をおぼえるものでした。
たとえ悪気はなくとも、人を傷つけてしまうことは、あります。
傷つけられた方は、傷が深ければ深いほど、そのことを話せません。でもそこでおばあちゃんが、真実はどうあれ「いま、現在のまいの心が、疑惑とか憎悪とかいったもので支配されつつある」ことの方が大事だ、と諭します。
そして「そういうエネルギーの動きは、ひどく人を疲れさせると思いませんか?」とも言います。
本当にそうです。怒ったり、恨んだり、疑ったりすることは、とてもとても疲れます。それ以外に目を向けていられなくなるくらいに。
ここでおばあちゃんがまいに話したことは、とても大切なことで、出来たら中学生くらいの頃にこの本を読みたかった、と私は心底思いました。
でも、いま読むことが出来た。それは重畳です。がんばります。
さて、お話に戻ります。
私が物語において一番心を揺さぶられるのは、それまで離れていたりちょっとよそよそしかったりする人々が、次第に親密になっていく場面です。
人と人との距離が、ほんの少しずつ近くなること。それは誠意のなせるものなんだな、と思いました。たとえ、自分のやったことが上手くいかなくても、そこに人間らしい誠意があって、そして相手もそれを分かるくらいに冷静で誠実であれば、たとえ一瞬であっても心は通じあうことが出来る。
私はそう感じられる場面に光を感じるし、好きなんだな。
いい話だなと、半分くらいまで読んで、また思いました。
まいの「好きな場所」は、おばあちゃんの聡明な提案によって、更にすてきな場所になりそうです。そういう場所をまいがみつけたことを、おばあちゃんが喜んでいることも、よく分かります。
二人が互いを、とても思いやっていることも。
誰でも「自分だけの場所」や「自分だけの景色」を持っている。
その聖域をおかさず、大切にする、していきたいと思うこと。
目の覚める思いがしました。
しずかで、やさしくて、こころよい話の流れでした。
おばあちゃんの言葉が、ゆっくりと身体へ染み込んでいきます。
まいがだんだんと成長していくさまを眺めている気持ちは、とても穏やかです。命令ではなく、懇願でもなく、ていねいに諭される大切な言葉たち。
物語が終わりへと近づく中、まいにとっては重大な事件が起こり、まいはゲンジさんへの拒絶の気持ちが強いあまりに、おばあちゃんにも激昂してしまいます。
やがて、まいはパパとママと三人でT市にて暮らすことが決まり、あの事件以降、一度も口にしなかった「おばあちゃん大好き」を言えないまま、おばあちゃんの家を去ることとなりました。
そして場面は冒頭へと戻ります。魔女の死へと。
二年前のまいの目線では、嫌悪感しか浮かばなかったゲンジさんも、今では普通のおじさんだったと分かります。彼がまいのおばあちゃんのために色々としてくれていたことも、彼女の死を悲しんでいることも。
そうして、西の魔女からのメッセージ。
まいは、二年前の別れを後悔しないことは無いでしょう。
それまでと同じ朝を迎えることも無いでしょう。
けれど、それは「魔女の訓練」によって、だんだんと弱まり、また、別のもので温められていくものなのかもしれません。
そしてまいが叫んだほんとうの気持ちは、確かにおばあちゃんの魂へ、伝わっていたに違いありません。
最後は、やっぱり泣きました。
巻末「渡りの一日」について。
まいが転校した学校で仲良くなったショウコ。その二人が織りなす一日です。
ショウコはその日の気分ですることを変えたり、口が悪かったり、いい加減だったり、まいとは正反対ですが、自分とは違う文化や物事に感動する美徳を持っていて、それがまいにとって好ましいものだ、と語られます。
日曜の昼前、サシバ(渡り鳥)の渡りを山へ見に行こうと計画していたことがふいになって展覧会へ行こうとするも、クラスメイトの少年とぶつかりそうになったまいとショウコ。ふたりは(ショウコの思いつきによって)彼の代わりに、サッカーの試合に出るという兄のユニフォームを渡すため、バスに乗りこみます。
しかし、試合の会場に着いてから戻るバスが無かったので、帰りは少年の兄と一緒にいたダンプ乗りの女性に送ってもらうことになりました。すると思いがけず、行くはずだった展覧会へぎりぎり行けることになり、ショウコの母に頼まれていた画集も買うことが出来た時、まいはひとつの絵に目を留めます。それは「サシバの渡り」が描かれたものでした。
紆余曲折ありながらも、最後には予定していたことが(別の形とはいえ)叶った。
それは、人生の歩みと同じともいえるかもしれません。
悠々と空を駆けて渡ってゆくサシバの群れ。ただひとつの方向を見定めて迷いなく飛翔するその姿に、自分たちの未来をかさねて涙したまい。
それをさっぱりと受け流すショウコ。ちょっとかわいそうな少年も含めて、ふふっと笑顔になってしまう、すてきなお話でした。
すべて読み終えてみると。
心にさわやかな一陣の風が吹きわたる、とてもいい物語でした。
梨木香歩氏に、この本に関わった全ての方に、深い謝意を述べさせて頂きます。
Photo by Alex Kondratiev on Unsplash
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