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佐々木昭一郎監督独自のスタイルとしての“ネオレアリズモ”を貫く映像作家人生

伊藤フサオさんの投稿から、佐々木昭一郎監督の訃報を伺いました。

https://www.facebook.com/share/p/aRWL4ZAqeK43Cji1/

大変残念ながら、肺炎のためにお亡くなりになりました

『ミンヨン〜倍音の法則〜』の佐々木昭一郎監督は、たまたま街なかで出合ったKaren Tokitaさんを、出演者の1人としてスカウトしましたね。

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この、「ほぼ日刊イトイ新聞」の奥野さんのインタビュー記事を拝読しましたが、

佐々木昭一郎監督は、出演者が喋る台詞については、心からの声で話さないと駄目だという信念の持ち主だったんですね。

それは、たとえ台詞を喋らなくても、その存在が本物でなければ駄目だという信念をお持ちでしたね。

だから、街なかで出会った人で、ある役柄に合う人はこの人しかいないと思ったら、その直観に従って、断られても断られても、粘り強く出演をオファーする。

そして、以下の記事で、この、優れたインタビューアーであり、被取材者の内面を非常に的確に炙り出す、「ほぼ日〜」担当の奥野さんとのやり取り(以前、フランス映画『男と女』の製作と、フレンチボッサの勃興に多大な貢献をされた、ピエール・バルー&アツコ夫妻とのほぼ最期のインタビューが、私には心の底に残っていますが)

で、心の底に残ったものをいくつか挙げてみると。

※※※

佐々木
そう、でね、僕は1作め2作めで、大失敗した。ふつうのことを、やっちゃったんですよ。

──(奥野氏。以下略)
ふつうのこと?

佐々木
当時の売れっ子作家に台本を頼んで、
当時、話題の若手俳優をキャスティングして‥‥完全なる失敗作だった。

──「売れっ子作家に、話題の俳優」なのに納得いかなかったってことですか?

佐々木
もう、0点に近かったよ。
学芸会だったな、あれは。

──どうしてですか?

佐々木
役者が生き生きした言葉を、使っていない。そのために「音」として輝いてない。理由は明らかで、誰かが書いたセリフを読まされているから。

──あまり聞いたことないんですけど
ラジオドラマというのはほとんど「音」がすべてなわけですよね?

佐々木
そういう意味で、ぜんぜん魅力がなかった。当時はね、月間でいちばんいい作品に賞状をくれたの。大阪とか名古屋とか、全国から若手が作品を出してくるんだけど引っ掛かりもしなかった、僕の作品。

【最初の2作品の失敗に凝りて、そこから安易な妥協を自身に許さず、自分の信念に従った作品づくりをすることを、生涯に亘って決意したのですね】

※※※

──佐々木監督のテレビドラマ作品に
数多く主演されている中尾幸世さんも、もともと一般の人ですよね。

佐々木
うん、まず『夢の島少女』って作品の台本が先にあったんです、僕の頭の中にね。で、そこに当てはまる人を探してたんですよ。

──なかなか見つからなかったと聞きました。

佐々木
プロの俳優さんも含めて、
人から紹介してもらいながら探してたんだけどぜんぜん、イメージに合う人がいなかった。

──どんなイメージを抱いてたんですか?

佐々木
当時の「夢の島」というのはね、文字通り「一面のゴミの山」だったんですよ。ハイヒールが片方ひっくり返ってたり、汚れたドレスが打ち捨ててあったりしたんだけど‥‥そういうものが
立ち現れてくるような感じのする場所、でね。

──『夢の島少女』のラスト・シーンがまさに当時の夢の島ですが荒涼としていて、いろんなものが転がっていたりして、たしかに「異界」な雰囲気でした。

佐々木
そういう「夢の島」から
「立ち現れてくる少女」みたいなイメージ。そういう人を探してたんですけどなかなか、ピンと来る人に出会えなかった。企画が通ってから3ヶ月くらい経って諦めようかと思った矢先に
知人に紹介されたのが、中尾さんなんです。

──ふつうの女子高生だったわけですよね?

佐々木
うん。上北沢の喫茶店で会ったんだけど、その場で決めました。

──3ヶ月、探してもいなかったのに、即決。どんなところに、ピンときたんですか?

佐々木
まず声が良かった。オカッパ頭もよかった。どこか鬱屈とした雰囲気もね。

それとやはり、自分の「意志」を感じたな。

──意志。

佐々木
ご両親にお会いしてもいいですかと訊いたらそれはやめてほしい、わたしひとりで責任を持ちますと言ったんだ。

──え、ご両親にはナイショで?

佐々木
そう。でも、冒頭のシーンを秋田で撮ってるときになんでだか、バレちゃったんです。お母さんに、電話口で泣かれちゃってさ‥‥。

──なんと。

佐々木
撮影が終わったら、すぐ謝りに行きましたよ。幸い、大工職人のお父さんが理解してくれて、お母さんにも納得してもらえたんだけど。

──ナイショで撮影していても
NHKで放送するドラマの主役、ですよね?すごいエピソードですね‥‥。

佐々木
まあ。

──でも、その後、中尾さんは
イタリア賞のテレビドラマ部門グランプリや国際エミー賞の優秀作品賞を受賞した『四季・ユートピアノ』、そして文化庁芸術祭で大賞を獲った『川の流れはバイオリンの音』に主演されるなど一時期の佐々木作品にとっては
なくてはならない人になっていくわけですね。

佐々木
うん。見ていて飽きないんだよ、あの子って。

【この、「鬱屈と意志」が、この人にとって、出演オファーの決め手となるキーワードだったのですね。それを保持している人でないと、自分の作品には相応しくないと、彼の直観に問い掛けているのでしょう】

※※※

── ご本人の意識とは関係ないところで佐々木監督のドラマ作品は「一般の人」を起用しているという点でときに「ドキュメンタリー調」と形容されます。

佐々木
ぼくは一貫してフィクションをやってきたんだけどね。

── はい。そこで、ひとつ、おうかがいしたいのですが、ドキュメンタリーとフィクションのちがい、あるいはフィクションの魅力ってどういうところにあると、思われますか?

佐々木
ドキュメンタリーは「事実」を追求するけど、フィクションは「真実」を描くよね。

── おお‥‥なるほど。

佐々木
ドキュメンタリーは事実を積み重ねていって、事実によって語らしめるわけだけど、その点フィクションは、完全に「架空の世界」を描くことができます。われわれ映像作家はそこに「真実」を、ひそませるんだ。

── ドキュメンタリーが追うのが事実で、フィクションが描くのが、真実。

佐々木
そう思うよ。

── 盲点でしたけど、とても納得しました。

【ドキュメンタリーは「事実」の積み重ねであるのに対して、フィクションだからこそ「真実」が描けるという、ある意味逆説的な見解がスゴい達観ですね】

※※※

佐々木
アップは、2010年12月24日だったんですよ。予算も人員も厳しいなか、原田さんはじめスタッフは苦労してがんばってくれていたから最後のカットを撮り終えたときにはみんな「バンザイ! バンザイ!」って、「編集、期待してますよ!」ってよろこんで。

──ええ。

佐々木
でも僕は、腹では「ダメだな」と思ってた。98パーセントは撮れたけど、
最後の2パーセントが撮れてないと思った。

──2パーセント。

佐々木
2011年の3月までに編集をアップできれば文部科学省から助成金を1千万やるって言われてたんです。
でも、どうしても内容に納得がいかないから、その話も、パーにしちゃってね。

──ただでさえ、お金がないのに。

佐々木
異例のことなんですけど、翌年も「2千万円を助成する」と言ってくれたんですが、それも間に合わず。本当に、申しわけないなあと思いましたよ。
みんな怒ってるにちがいないってね(笑)。

──ですよね‥‥。

佐々木
でも、僕としてはさ、
どうしたって、前の作品を越えなきゃならなかったから。

──それで、結果的には最後の「2%」のために「4年近く」も。

佐々木
よけいに、かかっちゃったんですよ。

<つづきます>

【ところがこの後の記事では話題が続かず、別の話題に展開されてしまい、消化不良となってしまいました】

※※※

この記事では、〈つづきます〉となっていたのに、実は、この取材記事では、「最後の2%の部分」が何であるかがはっきりとは明かされず、ちょっと消化不良気味だったのですが、次の記事で、ようやく、それが明らかになりました。

それは、やはり、音=倍音に関することだったのですね。

※※※

「でも編集する気にならなかった。絶対に何かが足りない。何かはつかめなかったが、音楽であることは間違いないなと思っていました。
 翌年には東日本大震災が起き、父親のふるさとの宮城県を訪ねたりもしたが、気分は変わらなかった。そんなある日、テレビのBS放送を見ていたら、市立船橋高校の吹奏楽部がマーチングコンテストで全国1位になったニュースをやっていて、その倍音の響きがすごいんです。
 これだ、これで勝てる、と思った。まずミンヨンで勝てる。ワールドクラスですからね。そんな彼女に、市船吹奏楽部の演奏で歌わせたいと思いました。
(聞き手 藤井克郎)」

【「ほぼ日刊イトイ新聞」の佐々木昭一郎監督ヘのインタビューでは、ものごとの判断さえできないような幼い日に、軍靴の音が次第に大きくなる時代において、彼の父親が、勤めていた毎日新聞の記者を、(新聞社でさえ、大政翼賛会的な軍部におもねる報道をせざるを得ない姿勢に嫌気が差して)辞表を叩き付ける形で辞めて、軍部への批判をしたことが“危険分子”とみなされて、旅先で、当時の特高から、毒入りの桃を食べさせられて“暗殺”された所以のある宮城県に出掛けて、父親の魂の助けを借りても、“残りの2%”の手応えがどうしても得られなかったのに、突然、たまたま見ていたテレビ番組のニュースからインスピレーションが得られたという話には、そのこだわりの強さに驚きを隠せませんでしたね。そして、「これで勝てると思った」というのは、賞を獲るというような世間的な評価を獲得するということではなくて、自分自身の過去の作品に勝てると思ったということであり、常に“過去の自分”との闘いをひたすら繰り返していたのだと思います】

※※※

だから、この映画の副題に「倍音の法則」という言葉が添えられているのでしょう。

ある意味、佐々木昭一郎監督は、独自のスタイルとしての“ネオレアリズモ”を貫く映像作家人生を全うしたのだと思います。

「ドキュメンタリーとフィクションが混じり合う演出と詩的な映像表現で知られ、是枝裕和監督ら多くの映像作家に影響を与えた。」

上記の訃報記事には、最大限のリスペクトが込められていましたね。

ラジオとテレビのドラマの達人でしたが、劇場用映画は『ミンヨン〜倍音の法則〜』だけだったと思います。

貴重な作品に、Karen Tokitaさんは出演されましたね。

さすがの佐々木昭一郎監督の眼力、そして“聴力”でしたね。

ご冥福をお祈りいたします

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