ケーブルテレビで『オデッセイ』を再見して、同じ場面で涙、涙の洪水が訪れる件
を記念して、「オデッセイ」を検索ワードにして、自身のFacebookのアーカイブス投稿記事を再読してみる試み。
3話に亘って掲載してますので、お暇のある時に、長丁場な投稿記事にお付き合いいただければ幸いです。
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●第1話:
映画『オデッセイ』は、小説『火星人』の超訳?
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本日がノー残業デーだったのを利用して、ちょうど仕事がようやく大山を越えたので、もうひとつ、自分へのご褒美として、話題の映画『オデッセイ』を観ました。
ストーリーは、火星版『ゼロ・グラビティ』みたいなシチュエーションを、さすがは英国の職業監督リドリー・スコット演出の作品で、泣かせどころ満載の映画でした。
https://m.facebook.com/OdysseyMovieJP
基本的には、米国と中国の宇宙開発事業団礼讚映画でしたが、一番の魅せどころに、故・デイヴィッド・ボウイの「スターマン」が流れ、英国の誇りを忍び込ませていましたね。
涙、涙の洪水場面でした。
ひょっとしたら、リドリー・スコット監督は、デイヴィッドの死期が近いことを知っていたのかも。
しかし、スーパープレゼンテーション「TED」のような付け足しエンディングは何だったんでしょうか?
この映画の製作サイドストーリーによると。
「2013年3月、20世紀FOXは『火星の人』の映画化権を獲得し、(当初は)ドリュー・ゴダードに監督と脚本の執筆を担当させた。しかし、2014年5月、20世紀FOXはマット・デイモンが主演を務めるという条件の下で、リドリー・スコットに監督のオファーを出したと報じられた。」
ということで、職業監督、リドリー・スコットの面目躍如の作品でしたね。
以前、岡田斗司夫氏の「ジュラシックパークを題材にした映画製作論」の講座を下北沢のイベントスペースで拝聴したことがあるのですが、
講演後のQ&Aコーナーで、参加者から、リドリー・スコットについて、どのように評価しているのかと質問され、
彼は、商売と割り切って取り組む映画製作、たとえば、当時公開されていたのは『エクソダス。モーゼの出エジプト記』などの商業的映画で、(主にユダヤ系で構成される)スポンサーから資金を集めてから(モーゼというラテン語の人名は、ユダヤ系のヘブライ語ではモーシェと呼ばれているように、ユダヤ系のヒーローにして聖人)、
今度は本当に自分の撮りたい(オタッキーな)映画、たとえば『ブレードランナー』や『エイリアン』や『プロメテウス』のような、自分自身が本当に撮りたい映画を撮らせてもらえるのだ、と喝破していましたが、まさにそのとおりだと思います。
今回の『オデッセイ』は、どちらかと言えば前者に近いいきさつがありましたが、一番の魅せどころ聴かせどころで、故・デイヴィッド・ボウイの「スターマン」を挿入歌に持ってきたところで、私としては星5つを付けますね。
デイヴィッド・ボウイへの鎮魂歌にして、図らずも、彼がスターの座を獲得したアルバム「スペース・オデティ(奇妙なる宇宙人)」への共感にも繋がるストーリー展開ともなってしまいましたね。
ところで、映画の邦題は、『オデッセイ』ですが、実は、英語の原題は“MARTIAN”で、直訳すれば『火星の人』。
ただし、本来意味するところの「火星人」ではなく、火星に入植した人(征服者)みたいなニュアンスですね。
このような意味合いを邦題で表現することは不可能であり、興行的には、原題のままで日本で公開すると難解でSFオタク向きの映画ではないかと思われて、観客動員上では危険であると判断して、ホメーロスの古代ギリシア長編叙事詩『オデ(ュ)ッセイ(ア)』になぞらえて、公開時のタイトルを「漂泊の旅からの帰還=オデッセイ」のイメージで訴求することにしたのでしょう。
確かに、この映画に登場する火星探査宇宙船の名前が「ヘルメス」であり、この宇宙旅行自体がギリシア神話にあやかっていたのも事実でしょうからね。
まあこれも、邦題の“超訳”による勝利であるといえるでしょうね。
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さて、オデッセイといえば、
日本に中世から伝わり、幸若舞などにもなっている説話に『百合若大臣』がある。
これは、主人公の百合若が戦から帰る途中で家来に裏切られて島に置き去りにされ、そこから苦心して帰還するというストーリーである。
百合若は帰宅後、自分の妻に言い寄る男たちを弓で射殺す。
以上のようにまとめると、『百合若大臣』はオデュッセイアと酷似している(主人公の人名である百合若=ユリワカも、オデュッセウスのラテン語名「ウリッセス」、英語名は「ユリシーズ」に似ている)。
そのため、『百合若大臣』は『オデュッセイア』が日本で翻案されたものであるという仮説も(明治期に)提唱された。
著名な提唱者は坪内逍遥や南方熊楠。
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これは、なかなか面白い仮説ですね。
提唱者が、明治期の文豪や、世界的な業績を残した博物学者ということも興味深いですね。
確かに、「イソップ寓話」(作者のイソップまたはアイソーポスは、元はギリシアの奴隷と伝えられる)が、中世に日本に伝えられているので、同じギリシア叙事詩の「オデッセイア」が日本に紹介された可能性もあるのではないかと私は思っています。
◆「イソップ寓話」:
日本では、1593年(文禄2年)に『エソポのハブラス (ESOPO NO FABVLAS)』として紹介されたのが始まりで、これはイエズス会の宣教師がラテン語から翻訳したものと考えられており、天草にあったコレジオ(イエズス会の学校)で印刷されたローマ字のものである。非常に古くに日本に取り入れられた西洋の書物といえる。
その後江戸時代初期から『伊曾保物語』として各種出版され、普及し、その過程で「兎と亀」などのように日本の昔話へと変化するものもあらわれた。
内容は現在のイソップ寓話集と異なる話も収録されており、さらに宣教師向けの『イソポのハブラス(ESOPO NO FABVLAS)』と、読み物としての『伊曾保物語』の間にも相違が見られる(16世紀末の日本における宣教師の出版についてはキリシタン版を参照)。
明治になってから英語からの翻訳が進み、幕臣出身の学者で沼津兵学校校長だった渡部温の『通俗伊蘇普物語』(現在、東洋文庫にて入手可能)がベストセラーとなり、修身教科書にも取り入れられた事から、広く親しまれるようになった。
翻訳書が刊行されるにあたっては、タイトルには通常「イソップ寓話」を筆頭に、冒頭に書かれたようなものが用いられることが多い。しかし、アイソーポス(イソップ)が実在した人物であるのかが不明であることから、一部では、「イソップ風寓話」といった表現をタイトルに据えるものもある。
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映画『オデッセイ』関連記事。
三谷宏治 [K.I.T.虎ノ門大学院主任教授より。
『火星の人』は近未来の超リアル・サバイバルSF
2014年のSF各賞を総なめにした火星サバイバル小説、『火星の人(The Martian)』が映画化され、『オデッセイ(*1)』として日本でも2月5日に公開されました。
7日(日曜日)までの3日間で42万人を動員し、6億円以上を売り上げました。これで、全世界興行収入は6億ドルを突破。リドリー・スコット監督(*2)作品最高の成績を更新中です。
『火星の人』は、いまから20年後の火星探索ミッションを舞台にしたサバイバルSFですが、その執筆・発刊スタイルもまた、近未来的なものでした。
作者アンディ・ウィアーは15歳で国立研究所に雇われるほどのプログラマーでした。物理学者を父に持つウィアーはSF好きで、プログラマーとして働きながらも趣味でSF作品を書き続け、彼個人のサイトで公開していました。そして2011年、39歳のとき『The Martian』がアップされました。
そのあまりの人気にKindle版が発売(*3)され、2014年2月、最終的に紙版が発売された(*4)のです。Kindle版は発売3ヵ月で3万5000ダウンロードに達したとか。
人類最初の「火星で死亡」を逃れるために、
主人公ワトニーがハカったもの
物語で素晴らしいのはその圧倒的なリアリティですが、もっとも心を打つのは火星探査ミッション中の事故で、ひとり火星に取り残されてしまった主人公ワトニーの、ユーモアと楽天性です。それこそが、彼のめげない精神と抜群の行動を支えているのです。
あるヒトは映画『オデッセイ』を「観るエナジードリンク」と評しました。そう、この本『火星の人』は、「読むエナジードリンク」と言えるでしょう。読むと動悸が高まり、テンションが上がり、もの凄く前向きになれます。
気圧が地球の135分の1(つまりほとんど真空状態)、気温がマイナス50℃(冬のエベレスト山頂より寒い)の火星で、ワトニーは精神の安定を保ちつつ、生き延びる術を見つけ、創り出し続けました。
*1 海外での映画題名は本と同じく『The Martian』。日本でも『火星の人』でよかったのに……。
*2 『エイリアン』(1979)、『ブレードランナー』(1982)、『ブラック・レイン』(1989)、『グラディエーター』(2000)、『ロビン・フッド』(2010)、『プロメテウス』(2012)など。
*3 最初は価格が99セントだった。システム上可能な、最低の価格を付けたため。
*4 日本でも即座に翻訳され、2014年8月ハヤカワ文庫SF『火星の人』として出版された。
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●第2話:
松本隆トリビュートコンサート「風街オデッセイ2021」の感想
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さて、昨晩の日本武道館で開催された「風街オデッセイ2021」第二夜でしたが、元々はっぴいえんど解散後にソロ歌手&DJとして出発した大瀧詠一さんの「GO!GO!NIAGARA」という番組が切っ掛けで、松本隆さんが元のバンドメンバーで、ドラマー&作詞担当だったことを知ったので、私も彼の作詞家としての活動を、かれこれ45年近くは見守ったり、彼の詞に影響を受け励まされてきたことになりますね。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=5163652093664464&id=100000591726100
今回のライブで貴重だったのは、これだけ多くの松本隆さんに縁があるミュージシャンが出演したライブは初めてでしたし、多くは、楽曲はレコードやCD、あるいはラジオやテレビなどで、その歌声や演奏は聴いてきたものの、生の歌声や演奏を聴くのは初めての人たちが多かったことですね。
そして、アンコールに登場した、伝説のはっぴいえんどの面々。
もちろん、そこにヴォーカルとしての大滝詠一さん(一応、断っておくと、万能の才人を呼称する時は大瀧、ミュージシャンとして呼称する時は大滝、さらにディスクジョッキーとして呼称する時は、「GO!GO!NIAGARA」本放送時にリスナーから「おいイーチ。アルバムを出すのが遅れているのもたいがいにせい」とハガキに書かれたのが癪で、それから自虐的に使い始めたのが切っ掛けであるイーチ=EACHと使い分けていますので悪しからず)は既に存在しない訳(2013年12月30日に急逝)ですが、それでも、サポートミュージシャンとして、キーボーディスト兼音楽監督の井上鑑さん(容貌、特に髪型が大瀧さんにそっくりなんですよね)と、
同じくキーボーディスト兼コーラス(大滝さんの代理を冥土の土産として務めるとの宣言付きで)を担当した鈴木慶一さんにより、今考えられるベストの布陣による「はっぴいえんど・リユニオン」を見届けられたのが大変嬉しかったですね♪
曲目は、
「12月の雨の日」
(今回のライブで最も出番が多かった速弾きギターの名手で一番年下だった鈴木茂さんがはっぴいえんど結成の最後のメンバーとしての加入を決意した、松本隆作詞、大瀧詠一作曲の楽曲。今回は、大滝さんの替わりに鈴木茂さんがリードヴォーカルで、鈴木慶一さんがコーラスを担当)
「花いちもんめ」
(こちらも、自分の持ち歌なのでリードヴォーカルを鈴木茂さんが担当するとともに、間奏で往年どおりの“ギター小僧”ソロを目一杯聴かせていただき大満足♪)
「風をあつめて」
(細野晴臣さんがヴォーカルを担当するために、本職のベースを弾くと歌詞を忘れてしまう(実際に『はっぴいえんど解散ライブ1973年』アルバムではその模様が確認できますね(^.^;)ので、鈴木茂さんがエレベを初披露されました。ちなみにこの曲は欧米人の心の琴線に強く触れるらしく、映画『ロスト・イン・トランスレーション』にも採り上げられていましたね)
の3曲を披露されましたが、欲を言えば「春よ来い」(そうなると、別のヴォーカリストにオファーする必要があるかな?)も聴きたかったかな。
まあ、それは5年後の、2026年のお楽しみということで…。
そしてもう1つ、遡れば、それに先立つこと中盤に最初のクライマックスが突然やって来ました。
会場には、各演奏が始まる前に、投影用スクリーンに、楽曲名と、作詞家(もちろん松本隆のみ)と、作曲家の名前が投影された後に、それを歌うシンガーの名前が順繰りに投影されてから、暗転した舞台奥からシンガー本人が2曲を目安に登場して、次のシンガーにバトンタッチする方式が採用されていました。
そして、中盤の楽曲としてスクリーンに投影されたのは「バッチェラー・ガール」。
言わずと知れた、松本隆作詞、大瀧詠一作曲の、“アフター・ロンバケ”を代表する名曲の1つでしたが、本来は大滝詠一が歌うべきところを誰が歌うのかを、オーディエンスが固唾を呑んで見守っていると…。
スクリーンに投影されたのは、
稲垣潤一さんの名前。
なるほど、特徴ある高音部の声質と、ラブソングの名手と言われた彼ならば、大滝詠一さんの雰囲気を再現してくれるかもしれない。
そして、いざ彼が歌い始めたら、私は、幸運にもアリーナ席の前列から9番目の席が割り当てられていて、ステージを肉眼で確認できる位置にいたのですが、私の2列前の男性客が、突如メガネを外してハンカチを目に当てて涙を堪えきれない様子が暗闇の中でもはっきりと捉えることができて、私も思わず貰い泣きをしてしまいました。
たぶん彼にとって、この曲にはものすごい想い出があるのかもしれませんし、ひょっとしたら大瀧詠一さんのことを思い浮かべて涙が洪水のように溢れてきたのかもしれません。
「バッチェラー・ガール」は、非常にドラマティックな展開を見せる楽曲であり、この人選は“当たり”でしたね!!
後で調べたところ、大瀧詠一の事実上のラストアルバム『EACH TIME』に収録される直前に稲垣潤一に提供された楽曲だったそうですので、
両者のヴァージョンを知っている人にとっては当然だったのかもしれませんが、私にとっては大瀧詠一さんの楽曲という認識でした。
そして、次に続くのは「恋するカレン」。
ここは、歌い出し直後の、
キャンドルを
暗くして
スローな曲が
掛かると
の後に、ドラムのスネアが、主人公の心の動搖を表すひときわ強い
ンタタタ♪
という三連音符を響かせるところに唯一無二の楽曲の“命”が込められているのですが、
ここを、今回のメインドラマーを務めた山木秀夫さんが、アルバムに収録されているドラムスの演奏に忠実に叩いていただいたのも大変嬉しかったですね♪
↑
このYouTube作品のキモは、限りなく、大瀧詠一オリジナルの「恋するカレン」を忠実に再現しようとした試みであるとともに、ドラマーについては、当時、その収録で、「ンタタタ」の三連音符を実際に叩いた張本人、上原“ユカリ”裕さんが出演されていることですね。
なお、この三連音符のドラムの拘りは、大瀧詠一さん自身によるものだったようで、“二番”でも同様なドラミングを繰り返した後に、間奏明けの“三番”では、「ンタカタ」という三連音符に替えてくれと大瀧さんが指示したのに、実は彼がそれを忘れてしまい、大瀧さん自身がミックスダウン時に自分で叩き直した(大瀧さんがバンド活動を開始した最初期ではドラマーだった)という逸話が残されています。
あ、ちょっとかなりマニアックな感想を述べてしまいましたが^^;
午後5時半に開演となってから、終演はほぼ午後9時となった、3時間半に渡った長丁場のコンサートでしたが、大満足のライブであったことをご報告しておきますね。
次にこの催しが開催されるのは5年後、2026年の55周年とのことですので、それを楽しみにして行きたいと思います。
https://www.facebook.com/share/p/WEEZpzrnjmebpVt6/
これは要チェックですね。
今は昔のこと
末永く暮した
桃太郎のように
しあわせに
なれるという
お伽噺のように
はっぴいえん
はっぴいえん
ならいいさぁ
でもしあわせなんて
どう終わるかじゃない
どう始めるかだぜ
︙
昔も今のこと
ベンツでも乗り廻し
二号さんでも囲えば
しあわせになれるという
社長さんのように
えらくなれたら
えらくなれたら
いいさぁ
社長さんのように
えらくなれたら
えらくなれたら
いいさぁ
でもしあわせなんて
何を持っているかじゃない
何を欲しがるかだぜ
曲名「はっぴいえんど」
松本隆 作詞
細野晴臣 作曲
はっぴいえんど 歌・演奏
「12月の雨の日」
https://www.facebook.com/share/p/9EyM9RT8E6Cxv4vb/
本日は、日本武道館の「風街オデッセイ2021」松本隆作詞活動50周年記念コンサートヘ。
第二夜のセットリスト:
A面で恋をして /
CAFE FLAMINGO /
ガラスの林檎 /
綺麗ア・ラ・モード /
罌粟 /
しらけちまうぜ /
SWEET MEMORIES /
砂の女 /
スローなブギにしてくれ
(I want you) /
星間飛行 /
September /
代官山エレジー /
てぃーんず ぶるーす /
Do You Feel Me /
眠りの森 /
バチェラー・ガール /
フローズン・ダイキリ /
ミッドナイト・トレイン
AND MORE
※50音順
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=5165033726859634&id=100000591726100
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●第3話:
私的ナウシカ考〜番外編
https://www.facebook.com/share/p/sgmnyWGTmzbmCpGi/
私的ナウシカ考、番外編
ちなみに、ナウシカのルーツの1つとなった、ギリシャ神話『オデュッセイア』に登場するナウシカ姫のビジュアルを観たい人には、この絵画とともに、
米国資本で役者にもカーク・ダグラスなどの米国俳優も出演しているイタリア映画の『ユリシーズ』がオススメです(同名の文学作品は未読ですが)。
たしか1950年代の映画で、カーク・ダグラス主演の、特撮も交えたスペクタクル・ストーリーの後半に、ナウシカ姫が、イタリアの美人女優演じる純情可憐な少女として登場します。
古代ギリシア神話の「トロイ戦争(ギリシア諸国連合軍と当時の大国トロイアとの大戦)」で、難攻不落の城壁を築くトロイアに苦戦していたギリシア諸国の小国イタケーの王、ユリシーズ=オデッセイが発案した、有名な奸計「トロイの木馬」により鉄壁の門を内側から破ることができて、遂にギリシア諸国連合軍が城壁の中に雪崩込んでトロイア軍は総崩れ、それを見届け悔しがった、ポセイドンを守り神としていた神殿の巫女が、計略の張本人であるユリシーズを見付けて、お前は、二度と故郷の地に帰れなくなるように呪ってやるぞと叫んで自ら死を選んだ、トロイアの魔女的な巫女、或いはポセイドンの呪いにより、
オデッセイたちの一行は、イタケーヘの帰国途上で様々な試練に見舞われた末、ようやく帰国の航海に出るも、船が荒天に阻まれ、それまでの冒険を伴にした全ての仲間を失って、ただ独り、故郷のイタケーから遠く離れた王国の海岸に漂着したユリシーズを、ちょうど、お付きの者たちと海岸に遊びに出掛けた王女としてのナウシカ姫が助けて、自身の所属する王国で手厚く看護して、ユリシーズはそれまでの記憶を失ったまま、次第に復活していきます。
ナウシカの父親である、彼の地の王様にも、宮廷で開催されたレスリングの試合を制したユリシーズは勇者として気に入られ、是非とも姫の婚約者となってほしいと懇願されるほど成功を手に入れますが、次第に彼は記憶を取り戻していき、自身が今後どうしなければならないのかを悟り、この地を離れなければならないことをナウシカに伝えます。
そのことを告げられたナウシカは酷く嘆き悲しみますが、やがて、その運命を素直に受け入れることになります。
あくまでもユリシーズという、主人公=男の立場でしかこの物語は描かれてはいないので、ナウシカが果たしてどのように考え、その後はどのような生涯を送ったのかはわかりません。
※その後、以下の記事を改めて再読したところ、この事件の後にナウシカは、古代ギリシア初の女性吟遊詩人となったという後日譚があるそうですので、ユリシーズとの永遠の別れを惜しんで、その想いを引き摺っていった結果として、やがては吟遊詩人となり、各地を放浪していったのかもしれませんね。
罪作りなユリシーズであることよ
さて、宮崎駿の作品『ナウシカ』のもう1つのルーツである(コミック版『風の谷のナウシカ』のあとがきに掲載されている)、日本の中世の物語に登場する“虫愛ずる姫君”とともに、彼女たちの見果てぬ“夢”にヒントを得て、宮崎駿監督は、新たなナウシカ像を創り出したかったのかもしれませんね。
https://www.facebook.com/share/p/QiewSBvDbJUhdAaN/
さらに、映画『ユリシーズ』に関連して、以下のような投稿記事を書いていました。
月曜日の地上波、日本テレビの深夜放送「映画天国」枠で、1971年に公開された、ルキノ・ヴィスコンティ(L.V.=ルイ・ヴィトンの愛用者でもあったようです)監督の『ベニスに死す』(英語: Death in Venice (オリジナル)、イタリア語: Morte a Venezia (吹替え版)、フランス語: Mort à Venise (吹替え版) )を初見で鑑賞。
主演のダーク・ボガードは英国人の俳優なので英語を話し、ホテルの従業員たちもイタリア語訛りの英語を話し、それ以外の登場人物は、主にフランス語やイタリア語で台詞を喋っていたようですが、この映画がアメリカ資本のイタリア&フランスの合作によるものだったので、そういうスタイルで撮られたようです。
まあ、日本人にとっては、日本語字幕でストーリーを追っていきますが、それぞれの母語をもつ人たちにとってはどのように感じられたのでしょうか。
実際には、多国籍の言語と英語の字幕で公開されたのは英米だけで、イタリアとフランスでは吹替え版で公開されたようなので、俳優の生の声が聴けたのは、英米と日本だけだったということになりそうですね。
途中でCMが何回か挟まれましたが、本編はカットされなかったようで、まさにL.V.の美学を堪能することができました。
原作は、ドイツ人作家(たしか、マン姓はユダヤ系?)、トーマス・マンによる同名小説の映画化で、小説では主人公がマーラーをモデルとしつつも、文豪という設定だったのに対して、L.V.映画版ではストレートに音楽家として描かれていましたね。
老境に差し掛かったドイツ系ユダヤ人の著名な作曲家、グスタフ・エッシェンバッハ(アッシュエンバッハとも。まさに“グスタフ”・マーラーをモデルにした主人公)が静養先のヴェニスで、たまたま出会ったポーランド系貴族の一家の少年、タージオの美しさに心を奪われるとともに、世間的には成功を収めていたと思われている自身の生涯を、悲しく、そして苦く回想するというストーリー。
ところが、避暑地、また観光地として財を得ているヴェニスに、東南アジアが発生源となったコレラが流行して、まるで、(コロナ禍に苦しめられている)現在の日本のような様相を呈してきて、それでも現地の人たちは、財源となる観光客が落とすお金を惜しみ、積極的にはそのことを、滞在しているよそ者には伝えようとしないが、それを怪しんだグスタフが、ことの次第を滞在先のホテルのコンシェルジュ(支配人?)に厳しく詰問したところ、遂に彼が良心の呵責に耐えかねて“真相”を話して、ヴェニスから一刻も早く立ち去ることを促す。
ここから究極の選択の苦しみが彼を襲います。
ヴェニスを立ち去るということは、究極の美を見出した、その美少年にも永遠に別れを告げなければならないことを意味しており(タージオの方も自身の魅力を大いに自覚しており、何やら意味ありげな所作をグスタフに仄めかすのですが。後年、ビョルン少年は、監督の言われたとおりに演技したに過ぎないと語っていましたが)、
グスタフは、苦渋の決断の末に、その貴族の一家にも、この地に疫病が流行っていることを、シルヴァーナ・マンガーノ演じる、ちょっと近寄りがたい雰囲気を漂わせた女性家長(若い時には“原爆女優”なる渾名が付けられ、恐ろしくもセクシーな魅力を“唯一の(戦争による)原爆被爆国”日本の銀幕でも振り撒いていて、『ユリシーズ』というギリシャ神話のオデッセイを主人公にした映画で、主演のカーク・ダグラスを誘惑して骨抜きにしてしまう妖艶な魔女キルケを演じたシーンは必見ですね♪)に告げて、此処を立ち去るように進言するも…。
ここで、完全な余談ですが、この映画で、ユリシーズを誘惑して骨抜きにした魔女キルケを演じた、シルヴァーナ・マンガーノですが、一人二役として、ユリシーズの故郷イタケで、彼の帰還を祈り、長らく無事の知らせが途絶えて、彼は死んだという風評が流れて、その王座を狙って次々と野心溢れる求婚者たちが現れて、宮廷内を我が物顔で占拠する中を、頑として、ユリシーズの帰還を信ずる貞淑な妻の役も演じており、女性、いや人間の持つ、良性と魔性の二面性を見事に演じ切ったのでした。
さて、美少年タージオを演じた、スウェーデン人のビョルン・アンドレセンは、元々はミュージシャン志望だった(幼少期からクラシック音楽の教育を受けるも、1970年代当時に大流行していた、ザ・ビートルズのようなバンドでの成功を夢見ていました)のですが、この映画でヴィスコンティに見出だされて、本格的に俳優の道を歩み始めて、当時は日本にもやって来てCMに出演したりと大人気を博しますが、
本人の志向と大衆の求めていたものとのギャップに苛まれた時期もあったようで、今日では60歳台の半ばに差し掛かり、ようやくこれまでの人生を振り返ることができるようになったようです。
この作品における彼の面影を観て一番感じたのは、イタリア・ルネサンス期のマエストロ、レオナルド・ダ・ヴィンチの少年時代を彷彿とさせたという点ですね。
彼の自画像は、一般には老人の姿でのイメージが強いですが、
実は彼の少年時代は、師匠のヴェロッキオが彼をモデルにした「少年ダヴィデ」のブロンズ像を作品として残しているほどの美少年として有名だったのです。
そして絵画としては、ヴェロッキオ師匠工房の作品の一部に、弟子の1人であるレオナルドが手伝ったといわれている「キリストの洗礼」で描かれている左端の巻き毛の天使の少年や(完成した絵の出来映えを観たヴェロッキオ師匠は、レオナルドが描いた部分があまりにも素晴らしかったので、これ以降、彼は絵筆を執らなかったという逸話が残されています)、
その後レオナルドがマエストロ=一端の工房の親方として独立しつつも、ヴェロッキオと、レオナルド自身の工房の弟子たちとも一緒に描いた最初の作品とされる「受胎告知」(2000年代初頭に初来日したのを観たことがあります)で、聖母マリアに対して“受胎”を告知するために舞い降りた、やはり巻き毛で中性的=アンドロジニアス的な魅力を秘めた大天使ガブリエルも、恐らくレオナルド自身の姿が投影されていると私は思っています。
私が観たヴィスコンティの映画は、日本では彼の死後に劇場公開された『家族の肖像』を観て以来久し振りでしたが、やはり彼の美意識、映像と音楽の使い方の素晴らしさに、改めて感銘を受けました。
あらすじ、ネタバレ他の情報は、以下のWikipedia先生でどうぞ。
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