あやふやで、ぷにぷにして、柔らかいもの
こんばんは、会社帰りにスタバでオンラインの講座を視聴する、という意識高い系の行動をしてみて浮足立っているスズキヨウコです。
本当はFacebookに投稿しようとしたのだけど、あまりにあやふやで長くなってしまったので、とりとめのないメモとしてこちらに。
正解がないことへの耐性
今日、「世界は贈与で出来ている」の近内悠太さんと、「ライフピボット」の黒田悠介さんの対談を聞かせてもらった。
すっごいテンポが良くて、めっちゃ頷きながら、楽しい時間だった。
その中で、受験や就職活動などを通じて因果がないと決められない、決めてはいけないというような思考に陥りがち、という主旨の話があり、
最近、会社で新入社員教育のプログラム作成を担当しているなかでのことを思い出した。
「正解がないもの」や「途中段階のもの」、「形が見えないもの」について”恐れ”のようなものを感じるのか、「本当に出来るの?」とか「正解を作らなくていいの?」と同僚から問いかけをされることがあった。笑(書き方難しいな)
結局、新しいものや異質なものを面白がるメンバーのおかげで、心地よくチャレンジすることが出来ている。それでもまだどうなるかはわからないけど。
そういう文暦のない、流れに任せた進め方で偶発性を楽しむと案外自分の思った以上のアウトプットが出たりしているし、楽しいと感じると時間を忘れて取り組もうとしてしまう。
それって、たぶんわたしがそういう臨機応変な進め方を楽しむ機会を経験することを「与えられていた」からであって、だからそれを「返す」という感覚で取り組むことが出来ている。
今日の対談内の言葉だと、
「消費者じゃなく、生産者になった時の感情の動き」みたいな。
育休の間に、会社以外でちょこちょこと主催イベントや企画運営をしていく中で「誰かのためにやったはずのこと」は実は「与えられていた」って、時間が経った今だからなおさら思う。社内でもそれができるようになったのは、自分が変化したのか周りが変化したのかはわからないけど、とても嬉しいしありがたいコト。
「だんだん私になっていく」のであって、「これがわたし、だからこうするではない」
あと印象的だったのは、
「だんだん私になっていく」のであって、「これがわたし、だからこうするではない」という黒田さんの言葉。
わざとエラーが起こるようなところに飛び込んで、自分を多面的に、実験的に、メタ認知するということ。
そのためにも余白を残しておくこと、すぐにスッと動けるようにしておくこと(今思うとわたしにとってはキッカケが育休だったんだと思う)
人は変わる。というか「わたし」なんて無い。
「わたし」の輪郭をはっきりしたものから、もっとあやふやでぷにぷにした、柔らかいものと捉える。
面白い。
いろいろやりたい欲が沸々と。
与えられている、というのを噛みしめるためにももっと勉強しよ。
いつもならやらねばならぬことを手放して、こうしてぼーっとしながら考える時間があること「与えられている」ことに感謝。
とりとめが無さすぎるけど、今日はこの辺で。
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