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プロ野球経験皆無で阪神タイガースの監督になった男の評伝『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』を読む

『プロ野球経験皆無、田舎で農業をしていた平均寿命間近のワシが「阪神タイガース」の監督に突如抜擢された件』

ラノベのタイトルになってもおかしくない、珍奇な人生を送った男がかつて実在した。

第8代阪神タイガース監督、岸一郎。

……という名前をいったいどれだけの人が認知しているだろう。

人並みに野球を愉しむ俺も、氏について知らなかったし、

「キシ……敦賀の人ですか? 知りませんね」

戦前から現在に至るまで敦賀野球界の情報が集まるこの店の店主でも、岸一郎の名前は聞き覚えがないという。

と、地元でもその名を知る人はいない。

プロ野球界で1、2を争う人気球団の監督を務めながら、市井の野球ファンからも、地元住民からの知名度はほぼゼロ。さながら幻の人物である。

男はいったい何者だったのか。なぜ阪神タイガースの監督になれたのか。

過去の資料を参照しながら、吉田義男、廣岡達朗ら過去のレジェンド、虎番の名物記者などをはじめとした関係者へと取材を行い、男の実像に迫ろうとするのが村瀬秀信氏の『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』となる。

読者として、最大の疑問は「なぜ素人同然のお爺さんが阪神タイガースの監督になれたのか」だ。

紙幅をいっぱいにつかって、その謎を解き明かしていくのだろうな、はてさて……と読み始める。と、肩透かしを喰らう。早々にネタバラシがされるのだ。

・当時のチームの台所事情を考えると、投手出身の監督がほしい
・有力候補からはおしなべて断られた
・稀代のスターである藤村富美男を選手から監督へ移行(し、彼の威光をより神化)できるだけの戦力は整っていない
・くわえて豪放磊落な藤村の指揮のもとプレイすることを拒む選手もいた
・藤村とその他選手の潤滑油になれる温厚な人物が望ましい
・それでいて力の落ちてきたベテラン選手から若手へと切り替えていく「嫌な役回り」を務めてもらいたい

当時の新聞、雑誌、関係者らの話を照らし合わせ、チームはミスタータイガース藤村富美男につなぐまでの都合の良い捨て石を求めていたことが浮かび上がる。

そんな状況のなか、

「私なら今の動脈硬化を起こしかねないタイガースから古い血を入れ替え、新たな健康体に立て直すことができる」

と、タイガース改革論を熱弁する岸一郎からの手紙がオーナーのもとへ届く。その手紙を受け取った手紙ラバー野田誠三がいたく感激。そして、独断で契約を結んだ……というのだ。

100年近く前の謀略渦巻く世界で繰り広げられた話なだけに、それが確たる真相かはわからない。が、状況証拠を組み立てていくと、どうやらそういった大枠の流れがあったことは間違いないらしい。

また、一部では「岸さんが満鉄にいた関係で、鉄道省あたりから押しつけられ、断り切れなかったのでは」いう見方もあったという。

岸一郎はプロ野球経験こそなかったが、アマでの経験は豊富で、それこそ満州での野球チームにおいては輝かしい実績を残していたのだ。

早稲田中、早稲田大、満州倶楽部と通じて、長身、痩身、全身これバネといった左腕投手。かつてアガッたことがないという度胸に、すばらしい球速、鋭く大きく落ちるドロップ、これを正確無比なコントロールで、昭和初年までの5大投手のひとりとして完成したピッチングを見せてくれたものである。

早大時代は後年の沢村栄治に匹敵する投手であり、満州の野球が強くなったことにも岸くんの力は大きく貢献している。野球に対する知識も情熱も人後に劣らず。

お、俺も沢村栄治なら知っている。オリジン・オブ・レジェンド。岸はそんな男と比肩するほどの人物だったのか。いや、それとも記者の筆がすべってしまっているのか。わからない。

とにもかくにも、野田誠三オーナーは岸一郎から手紙を受け取り、何らかの思惑や決心のもと、タイガースの歴史上初めて、独断で監督を決定したというのは間違いない、となる。いや、にわかには信じがたい人事ではあるのだけど。

あー、岸監督はプロ野球こそ初めてとなりますが、早大出身、その後に満鉄で活躍されるなど、その野球理論、人格からいってもタイガースの監督に相応しい人物だと判断しております

就任会見でそんな風に紹介された岸一郎。集まっていた記者に向けて堂々とぶち上げる。

みなさん驚いたでしょう。でも私自身が一番驚いているんですよ。つい先日まで、この年で自分がプロ野球に入るなんてこれっぽっちも考えていませんでしたからね。

球界から離れて30年以上になりますか。ただ、大阪神の監督を引き受けたからには”自信はある“ということです。

私は実力主義。選手の名より実を取ります。たとえ藤村富美男君でも当たらずと見ればベンチに置きますよ

信じられないほど自信満々である。

が、想像に易いことながら、選手からすれば「誰やねん、お前?」である。チーム内で絶対的な権力を持つ、ミスタータイガース・藤村富美男にいたっては、名指しで槍玉に挙げられるのだからたまったものじゃないだろう。

開幕後、岸は藤村をはじめとしたベテラン選手から、反抗期の中学生男子ばりの攻撃的な態度を取られる。

藤村に代走を送ろうとすれば、代走選手をベンチに追い返されるし、ベンチ内では「ジジイ」「この素人が」と遠慮皆無の罵詈雑言を浴びせかけられ、ファンからも「じいさん、しっかりせえよ!」と嘲笑される。当然、次第に監督としての権威は失墜する。

そんなチームが勝利を重ねられるのか、といえば、やはりなかなか難しい。結果的に巨人には9連敗、下位チームから星を集めての16勝17敗という成績で、わずか33試合で休養という形での実質的な退陣が発表される。

選手からの突き上げによって、監督が退陣した格好だ。

後任は藤村富美男が選手兼任監督として務める。が、監督を敬わず、追放の旗振り役になっていた男は自身にブーメランが突き刺さる。負けがこむにつれ、阪神主力選手の間に藤村への不信感がつのり始め、結果的にそれが球史に残る「藤村排斥事件」へとつながっていくのだ。

……と、こうしたダイナミクスがざっくりとした書籍前半の内容となる。それだけでも、現在のNPBへと繋がる“歴史ミステリ”として抜群におもしろい。

のだが、ここまでは、言ってしまえば前菜、アミューズ、アンティパスト。後半からの展開こそが本書のメインディッシュだ。

「ああ、そうです。一郎は私の叔父ですわ」

「まあ……岸の家はいろいろありますからな」

著者がついに岸一郎の遺族から話を聞けるようになって以降の描写は、『八つ墓村』のようなじっとりとした恐さが漂い始める。

見せつけるかのように自殺をした岸の本妻、すべてを知る(かのような)寺の住職……。新たな登場人物がどんどん登場してきて、“物語”がドライブしていく。野球監督の評伝なのに、まとわりつく雰囲気は、ホラーになっていくのだ。

核となる岸の「血」を巡る話についてはネタバレを避けるが、「現実は小説より奇なり」を地でいく……彼が阪神タイガース監督になれたことと同じか、それ以上に奇妙な人生を幼少期から歩んできただろうことが判明していくのだ。

抜群におもしろい。

ここからは、余談となるが……なんといっても100年以上前に生まれた人物についての話である。伝聞も入り混じるし、証言に虚が含まれることだってなくはない。

そんなオーラルヒストリーの難しさというか、真の意味で真実に迫ることがいかに困難なのかを留保しながら書いているような著者の執筆態度にも俺は好感を抱いた。

おそらく、あえてノンフィクション風に仕上げず、エンタメらしい筆致に仕上げているのも、断定を避けたいという思いがあってのことではないかと俺は思う。極めて真摯的じゃねえの、となる。

とにもかくにも野球に明るくない人でも楽しめるエンタメノンフィクションであることは間違いない。それだけに表紙がなあ、どうにかならんのかな。これは相当損をしているのでは……。

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