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オペラシティアートギャラリー「石川真生―私に何ができるか―」展へ行ってきたとのこと

沖縄を拠点としながら精力的な制作活動を続ける写真家・石川真生(いしかわ まお 1953-)の初期からの主要な作品を始め、とりわけ2014年から取り組んでいる「大琉球写真絵巻」の新作を中心に、本展では、初期の作品から最新作に至るまで、石川の作歴を概観することができると同時に、昨年沖縄の本土返還50周年を迎えるもなお、困難な状況に置かれている現代の沖縄という地政学的な最前線で撮影を続けている石川の活動をご覧いただく好機にもなります。

「えらく時間が必要な展示だな」というのが、「石川真生―私に何ができるか―」展へ行った直後の率直な感想となる。

規模としてはそこまで大きくない展覧会である。にもかかわらず、一通り見るのに、えらく時間がかかる。1時間半から2時間といったところか。なぜか。写真を見るだけでは、それがいったいどんな背景のもとで撮られた作品なのかを理解するのが困難だからだ。

それもあってか、オペラシティアートギャラリーが用意した作品紹介リーフレットの分厚さが、すごい。20ページ。一作品ごとに、いったいどういう写真なのかというサブテキストが用意されている。ひとつ例として引用すると、こんな具合だ。

日本や沖縄でミックスルーツの子供たちがどう扱われてきたかを隠すのが優しさだろうか。1985年まで日本国籍がもらえずにいたこと、公立の学校に通うこと、戦争孤児の施設に入ることすらゆるされなかったこと。なぜこんなにミックスルーツの子供たちが増え、生まれ育っているのに、社会はいつまでも昨日来たばかりの外国人のように区別するのか。学校教育に求めたい。日本人教育を変わらず推し進める姿勢を問いたい。日本人らしさを子供たちに乱暴になげていないだろうか? おじぎの文化を教える時に「日本人らしい」と付け加えることで、ミックスルーツの子供たちを置き去りにしていないだろうか? 社会がマイノリティに与える問題を理解出来ないということは、無意識に自分自身が問題を与えていることにも気付けていなかったりする。
アメリカの犠牲の上に成り立つ社会も、沖縄の米軍基地も、人種主義も、「マイクロアグレッション」も成り立たせているのは「無関心の意識の人々」だ。そういう人たちが無関心から抜け出すと社会や世界は変わる。

な、長い……。

結果としてどうなるか。リーフレットを読むこと1分弱。作品を観ること十数秒。リーフレットを読むこと1分弱。作品を観ること十数秒。こんなテンポで俺は、そして、俺以外の多くの人たちも、展覧会を回っている。

「えらく時間が必要な展示だな」となる。

言わずもがな、時間を要する=悪いではない。

しかし、この、キャプションばかりを読み進めていく展示/作品構造は、なんというか、写真というメディアを用いた芸術作品として、主従が逆転しているように思えて仕方ない。

寸鉄人を刺すような、ハッとさせられる魅力が写真にあるのではなく、サブテキストの文章にこそ、この展示の魅力というか本質があるように思える。

また、引用したサブテキストからもわかるとおり、作者の態度は左寄りといえる。学生時代には活動に参加したこともあるそうだ。当時を振り返った石川氏の発言がIMA Onlineにあった。

(一度活動に参加したけど)自分は運動家にはなれない、でもこの燃えたぎる沖縄を何かで表現したいと、マジ思ったのよ。

この理不尽な沖縄を私が撮るんだと決めたの。

刻々と政治的な動きがあって、宮古にせよ、石垣にせよ、与那国にせよ、島の人たちが、陸上自衛隊のミサイル基地建設を勝手に進められて、非常に大変な目にあっている。見のがすわけにはいかない!

そうして制作され続けているのが、琉球王国時代から現代まで続く沖縄庶民の歴史の一場面を演じてもらい、巨大絵巻に仕立てたメイン作品「大琉球写真絵巻」だ。

当初期の作品は寓話的な絵作り

当初は衣装や小道具を用意し、歴史の一場面を協力者に演じてもらうという手法をとっていたが、現代に近づくにつれ実際の出来事のドキュメントに近づいていった。写される対象は基地に反対する沖縄の人々の姿だ。


年を経るにつれて演出は無くなる

作家は「そういうこと(米軍基地や自衛隊の配備などで、沖縄の人々の意思が尊重されない事態が続く)が現実に起きているから、もう創作しているひまがない」と言う。

しかし、一方で現代において「米軍基地に沖縄の若年層は肯定的」にもかかわらず、そうした人々の姿は石川真生の写真には収められていない。

プロパガンダ……とは言わないまでも、「石川真生が関わりを持つ人々の営みを記録した」などといった建て付けで、政治思想が脱臭されることはないし、一方の見識に極端に肩入れし、反対側の考えを透明化する姿勢は、作者が批判する「基地推進派」「無関心」な人々のそれと構造的に同一なのではないか……と俺は思う。

うーん……。そもそも、日本に復帰して、果たして沖縄に良い結果をもたらすか……本土資本に汚染されていくのが目に見えていたにもかかわらず、復帰の方法よりも復帰そのものが関心の的になっていたことに対する総括がなければ、議論は始動しないのではないか。

植民地主義がもたらした被差別側の抱える諸問題を見過ごされるべきでない、と(少なくとも頭では)認識している身であっても、作者のあまりに極端な思想には、どうも辟易してしまう。

さりとて、こんな俺の感想も基地問題を対岸の火事として見守る、無責任な「日本人」的なのかもしれない。そんな具合に内省させられる。そんなところで。

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