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名もなき人々の歌、フォルクローレ

封建時代の芸術は主に社会の上層部を相手にしていた。
極一部の階級をのぞいて富の余剰が存在しない時代では、芸術家は王侯貴族をはじめとするディレッタントの庇護に頼る必要があった。
大衆のための芸術が歴史の表舞台に現れるのは、メディアの発達が大衆の存在感を高めた20世紀からだ。


チリの女性歌手、ビオレータ・パラは、日本での知名度こそ高くはないものの、そんな20世紀の芸術を体現する存在である。

1917年にチリ南部の小さな町に生まれた彼女は、わずか12歳で父を亡くした。
パラの父は小学校の音楽教諭を務めていたが、急進党に属していたため時の独裁政権の弾圧に遭い1927年に失職、アルコール中毒になりほどなくして死亡した。母の裁縫仕事の収入は少なく、一家は貧困に陥る。


家族の暮らしを支えるため、パラは町に出た。
7歳の頃から母にギターを習っていた彼女は、10代の半ばごろ、ナイトクラブや酒場、サーカスを回りボレロやランチェーラといったラテンアメリカの民衆の音楽を歌い始める。
なんとか生計を立てられるようになった彼女は、1938年に共産党員の鉄道機関士と結婚、2児をもうけた。
この間政治活動にも深く関わるようになり、自宅を開放して食料配給所にするなど、反ファシズムを掲げる人民戦線から同年に大統領となったペドロ・アギーレ・セルダの政策を援助した。


パラはただ民謡を歌うだけでなく、積極的に南米を旅して各地に伝わる音楽を採取し、それらを基にいくつもの曲を生み出した。その民俗学的な資料価値を認められ、大学にも招かれ講義や演奏を行った。
こうした活動は、のちにチリだけでなくアルゼンチンやメキシコにも波及した政治・音楽運動「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」の嚆矢となる。
農村や町場の生活や実感に寄り添って歌ったパラの姿勢は、運動を率いるビクトル・ハラといった音楽家たちに受け継がれ、大きな社会のうねりを生み出した。


南米出身者として初めてルーブル美術館で個展を開くといった数々の栄誉を受けたパラだったが、私生活では波瀾が続く。
何度も離婚を繰り返し、1960年にはスイス人のクラリネット奏者と再婚するも、やがて関係は悪化した。知名度の割には金銭的収入も少なく、浮沈の激しい生活だった。1967年、パラは1曲の歌を残して自殺する。歌の名はGracias a la vida(人生よ、ありがとう)。

3年後の1970年、公的医療制度の創設などの政策を掲げ、労働者に支持されたサルバドール・アジェンデが大統領に当選。元医者のアジェンデは、医療現場でチリ社会の貧困に接しマルクス主義者となり、その窮状を改めるべく政治闘争を続けていた。
アジェンデはパラのファンであり、パラも彼を支持していたが、政権の誕生には立ち会えなかった。1973年、そのアジェンデ政権も、アメリカが裏で糸を引く軍事クーデターに敗れ、本人は自殺。
以降チリではアメリカの傀儡ピノチェトの軍事政権の下、先述の「ヌエバ・カンシオン」など、アジェンデを支持した多くの運動が弾圧され、反体制派の学者や芸術家は投獄、拷問、処刑された。
彼らは『人生よ、ありがとう』を口ずさんで拷問に耐えたという。

Gracias A la Vida(人生よ、ありがとう)※英訳から拙訳

人生よ、ありがとう こんなにたくさんわたしにくれて
黒と白とを見て分ける ふたつの瞳
夜空に光る星々や 人のすだくに君の影

人生よ、ありがとう こんなにたくさんわたしにくれて
朝な夕なに鈴虫を聞く ふたつの耳
カナリア 槌の音 タービンに 吠声そして雨と風
やさしくささやく 君の声

人生よ、ありがとう こんなにたくさんわたしにくれて
疲れ果て、それでも歩く 二本足
街 水たまり 浜辺に砂漠 山 野原
君へと続く この道を

人生よ、ありがとう こんなにたくさんわたしにくれて
貴い人の業(わざ)に触れ 身を震わせる、この心
善き人の 幸せ見るとき 澄んだ君の眼 覗くとき

人生よ、ありがとう こんなにたくさんわたしにくれて
喜びそして悲しみを 知るための 笑いと涙
わたしの歌 君の歌
みんなの歌も 笑いと涙があればこそ

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