好きな男と見るホタルが一番綺麗だと思う
「ナヲ子さん、今度ホタル見に行かない?今年は当たり年なんだって」
この男は私のことをよく分かっている。仮にこれが「今度ディズニーランド行かない?」だったら恐らく私は断っていただろう。
ちょうど1年前に知り合ったこの男は、4、5歳年下だったか。名前も住んでいる場所もよく知らないが、いつも忘れた頃に連絡がくる。背が高く細身のイケメンで、霊感が強い(ような気がする)。
夕方に待ち合わせし、郊外の駅まで電車で移動する。5月に「僕の誕生日祝って!」という誘いを無視して以来だが、全く気まずくなることもなく再会できる関係が気に入っている。
◇ ◇ ◇
電車の中で他愛ない「ホタルの話」で盛り上がっている時、私はふと思い出していた。ホタルを見に行くのは今日で何回目だっけ・・・?
初めて野生のホタルを見たのは大学生の頃。きっと今までで一番好きだった男と手を繋ぎ、誰もいない山奥で息を潜めて見入っていた。
2度目は最初の会社を辞めた時。一人で沖縄を旅しているときに知り合った男と、山に生息するホタルを見にいった。
そして今日が3回目。女友達と遊ぶことが圧倒的に多い私も、ホタルだけはなぜかいつも男と行く。
◇ ◇ ◇
終点駅からレンタカーに乗ると、雨が降ってきた。重く垂れ込めた真っ黒の雲から、大粒の雨が容赦無くフロントガラスを叩く。
「これはちょっと無理かもしれないね。ラーメン食べて帰るか?」
「わたしは晴れ女だから大丈夫。行って」
弱気になる男に、自信満々に答える。
悪天候の中、一面に広がる田んぼを見て感動する私に「この景色で感動するなんて、ナヲ子さん本当都会育ちなんだね」と男は笑った。
日が沈む頃、森の入り口に到着した。車内で長靴とレインコートに着替えていると、本当に雨が止んだ。
◇ ◇ ◇
こんなお天気なので普段は賑わう駐車場も閑散としている。人気がなく外灯も一切ない真っ暗闇の森の入り口は不気味だったが、これからホタルが見られるかもしれない期待感で不思議と恐怖は感じなかった。
「暗いから気をつけて。そこ、ぬかるんでるから、こっちからおいで」
この男はきめ細やかだ。でも何回デートしても、いくら足元が悪くても、決して手を繋ごうとはしない。ただ、ベテランガイドのように森の中を先導していく。
牛蛙の声を聞きながら、暗い森の中を臆することなく進んでいく男の背中を見て、私はこの男のこういうところが好きなのかもしれないと思った。夜の森を怖がらない、ゆったりとした足取り。
◇ ◇ ◇
しばらく進むと1匹のホタルが儚げな光を点滅させながら、ふわふわ〜と目の前を横切った。
「あ、ホタル!」
興奮する私をみて「よかった、雨降ったけどいるね」と男はほっとした様子。「もう少し奥まで行ってみよう」と、更に進んでいく。
人工的な明かりが一切ない夜の森は、野生の感覚を呼び覚ます。全神経が自然と一体となり、五感が研ぎ澄まされていくような不思議な感覚だ。異次元の世界に吸い込まれ、私はいつの間にか時間の感覚も麻痺していった。
◇ ◇ ◇
また雨がポツポツと降り出した頃、鬱蒼とした水辺の近くに出た。そこには無数のホタルがいた。
雨をしのぎながら、草むらの中でゆっくりと点滅する姿は私の呼吸に合わせるかのよう。
大きな声を出しちゃいけないような気がして「すごい、いっぱいいるよ!綺麗だね」と小声で興奮を伝えると「雨だけど見られてよかったね」と男も嬉しそうだ。
男が三脚を立てて撮影に夢中になっている頃、私は一匹のホタルを追いかけていた。目の前に現れたホタルがふわっふわっと小さな光を点滅させて「こっちにおいで」と言っているように見えたのだ。
森の中をしばらく進むと、大きな木がある沼地に出た。
雨はどんどん強くなってきたが、木が生い茂っているため雨粒もまばらだ。そこには先ほどよりも更に沢山のホタルがいて、思わず「わぁ」と声が出た。
誰もいない沼地で無数の蛍火に魅入られたのか、私はいつの間にか大学生のあの頃にタイムトリップしていた。
◇ ◇ ◇
「ナヲ子、足元大丈夫か?暗いから気をつけてな。ナヲ子は都会っ子だから」
小さく笑いながら手を引いてくれるこの男は、ホタルで有名な過疎の村に住んでいる。真っ暗闇の中、誰もいない獣道を進んでいく。人気のない夜の山は恐ろしいが、この男と一緒なら何故か怖くはなかった。
「ちょっと歩くけど、俺の秘密の場所なんだ。ナヲ子ならきっと喜んでくれると思って」
獣道を抜けると、突然パーっと開けた場所に出た。そこは小さな川が流れていて、驚くほど沢山のホタルが乱舞していたのだ。水辺の土手にも草むらにも木の上にも・・・ここかしこで黄色い光を点滅させている。
私は生まれて初めて見るホタルに驚き、その幻想的な美しさに感動して涙が出た。
「ホタル綺麗・・・。ありがとう」
「ナヲ子は涙もろいなぁ。おいで」
7月中旬とはいえ、山の中の水辺は涼しい。口数の少ない彼はおっとりした口調でそう言うと、静かに私を抱き寄せた。誰もいない山の中は、ふとこの世にもう二人しか人間がいないんじゃないかと思わせる。
川のせせらぎと虫の音とたくさんのカエルの声を聴きながら、もしかしたら今日が人生のクライマックスなんじゃないかと本気で思った。そのくらいホタルは美しく彼は優しかった。
◇ ◇ ◇
「そこにいたんだ。どこ行っちゃったのかと思って焦ったよ」
写真を撮り終わった男が、三脚を片手にこちらに歩いてくる。私は一瞬、昔の男が目の前に現れたかのような錯覚に囚われた。
長身だが体が細いことを気にして、大きめのTシャツを好んで着ているところ。手が大きくて指が綺麗で、器用にカメラの設定を変えて真剣に撮影しているところ。そしてちょっと汗臭いところ。
「撮影終わった?」
「うん、雨も強くなってきたしそろそろ戻ろうか」
男の後ろ姿を見ながら歩いていると、かつて愛した男がシンクロする。ホタルはあの頃と同じように綺麗だったが、今日は涙は出なかった。あの日のホタルほど感動できないのは私が大人になったからだろうか。
◇ ◇ ◇
森を抜けると、一気に現実に引き戻された。時空をおかしくしてしまう魔界の呪文が解かれたかのように、私はいつもの自分に戻っていた。
ビショビショのレインコートと長靴を脱ぎ、車のエンジンをかける。雨はだんだん強くなり、雷の音も聞こえる。
「結構歩いたから暑いね、冷房もっと下げて」
ドロドロの長靴をリュックにしまいながら、出発の準備を整える。電車の時間が気になって調べる私をよそに、男はのんびりしている。
「ホタル見せてあげられてよかったよ。雨でもホタルは見られるということがわかった」
「そうだね、雨でも飛んでたね。すごく綺麗だった。きっとこの夏1番の思い出になると思うよ」
「またまた大袈裟な」
笑いながら男が椅子を倒した。え?早く出発しないの??と思ったが、撮ったばかりのホタルの写真を満足げに眺めている男の邪魔をするのも無粋な気がして黙っていた。
◇ ◇ ◇
暗闇に目が慣れていたので、カーナビの明かりが眩しい。男が出発する素振りをみせないので、私も目をつぶって余韻に浸る。
「ねぇ、前に見たって言ってたホタルと比べてどうだった?」
男という生き物はどうしてこう何かと比べたがるのだろうか?それともこの勘のいい男は、私が20年近く前のことに思いを馳せていたのを敏感に感じ取っていたのだろうか。
「今日のホタルが一番綺麗だったよ」
私は半分嘘で半分本当の答えを返した。
「じゃ、ご褒美にキスしていい?」
・・・・。
なんのご褒美なんだ?と一瞬考えたが、そんなことはどうでもよかった。
「・・・いいよ?」
この男とキスをするのは1年ぶりくらいだった。出会った当初はデートのたびにしていたが、いつしか友達のようになり私の中で全く対象外の男になっていた。
「こんな感じだったっけ?」
頭に浮かんだことが、そのまま言葉になった。
「なにそれ、忘れちゃったの?こんな感じだったよ」
雨はどんどん激しくなり、冷房が効いた車内の窓ガラスが曇っていく。目をつぶってキスをしていると、またあの頃の感覚が蘇ってきた。細面の輪郭に骨張った大きな手。汗臭い湿ったTシャツの感覚までもが私の遠い昔の記憶を刺激する。
いや、でもやっぱり大好きだったあの彼とは違う。夜の森で五感が研ぎ澄まされたせいか、だんだん思い出してきた。そう、この男とのキスはこんな感じだったなと。キスする順番もゆったりした動きも、そういえばこんな感じだった。
よく食事とセックスの共通点について話を聞くけど、本当にその通りだと思う。食べた直後はこの料理のこんなところが美味しかったとか、あの味付けはいまいちだったとか覚えているが、時間が経てばどんな味だったかまでは正確に思い出せない。ただ美味しかったかまずかったかだけが記憶に残る。
今まで出会ってきた男との記憶も同じ。その時は絶対に忘れないと思うような素晴らしい思い出も、時間が経てばもう正確には思い出せない。若い時はそれを悲しく思っていたが、いつまでも記憶が生々しく残っていることの方が悲しいかもしれないなと最近は思う。
それでも私が今まで見た中で、やっぱりあの夜の風景が一番綺麗だったと思う。ホタルはいつでも変わらず美しいが、好きな男と見るホタルが一番綺麗だと思う。
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