怪物は「誰」なのか
私は「誰」なのか
私は保利先生に自分の像を重ねた。
ほとんどズレがないほど近いと思う。
自分が小学校の教師だったら、作文課題の際にかつて自分が書いた作文を引き合いに出してしまうだろう。
子供たちの小さな争いごとはその場で解決できるように無理に促してしまうだろう。
書籍の誤植探しとまでは言わないまでも、人の論理矛盾やミスを見つけては、にやりとしてしまう底意地の悪さがあるだろう。
だからこそ、物語の中盤ではたと気づいてしまった。
物語序盤の描写を思い出して、自分はもしかしたら、自分の意図しないところで、想像だにしない見え方をしてしまっているのではないかと。
最後のシーンが終わり、エンドロールが流れはじめて、自然と涙がこぼれた。
それが、この映画に対する私のもっとも純粋な感情の表出である。
今、鑑賞から一夜明けて、まだ自分の中で咀嚼しきれていない部分があることに気づく。
問いを放り投げる形になるかもしれないが、それらを勢いのままに書き連ねてみたい。
組織、あるいは社会構造について
物語は3部構成からなる。
第1部は湊の母である早織が、保利先生、ひいては小学校という組織への疑念と怒りを強めていくストーリーだ。
早織が校長先生に対して、あなたは人間か?と問い詰めるシーンは鬼気迫るものがあった。
校長は人間なのか、はたまた怪物なのか。
校長は、「自分は人間である」とかろうじて声を絞り出す。
生気の削がれた目からは"人間"は依然として感じられない。
背後には組織という影が見え、その組織を守ることを第一義とする、"人間ではない人々"の様相がもはや滑稽に見えるほどであった。
(事実、私の隣席に座っていた方は、教員たちの謝罪シーンで笑っていた。)
人間と対峙したい早織と組織は決して相容れることは無く、謝罪会見において保利という"個"を犠牲に事態は収束した。
この一連の流れは、小学校という現場にとどまらず、社会のあらゆる場に敷衍できるだろう。
あらゆる要因によって組織は怪物になり得る。
今回であれば、その要因は小学校に対する評判や教育委員会の目といったさらに上位の社会構造によるものかもしれない。あるいは、守るべき最上位のものが組織であるという、校長の幻想によるものかもしれない。
しかし、組織、あるいはその象徴でもある校長が必ずしも怪物であるとは言い切れない。
組織によってさまざまな効率化や互助機能が担保され、人々の暮らしが豊かになることは歴史が繰り返し証明している。
組織が個人を守り、個人の心の支えになるということも一つの大事な側面である。
物語の中で、校長は湊に救いの言葉を投げかけた。
校長は対峙する人によって対応を変える人間なのだと言われたらそれまでだが、音楽室でのその不思議なやりとりに、組織と個人も手を繋げるのではないかと希望を見出してしまうのである。
善良な組織とは何だろうか。
組織の利と"人間"的な判断を共存させることはできるのだろうか。
社会の構造に絡めとられず、常に最善な判断を下せる組織は実現することができるのだろうか。
社会的な役割について
組織が如何に希望のあるもので、健全であったとしても、人は自らの社会的な役割に縛られて認識を違えることがあるように思う。
保利は、教師として子供たちの"些細な"紛争や"いじめ"を何とか解決しようとした。子供たちの言葉を信じた。正しさを教えようとした。
しかし、そういった"教師とはかくあるべき"という思考が大きな誤謬を生んでしまった。
保利は彼女である広奈に笑顔がおかしいと指摘される。
広奈は、いい先生であろうとする必要はなく、そのままでいいんだという言葉をかけた。
単に保利を気遣うような言葉にも見えるが、いま振り返ると、彼が犯した大きな間違いを示唆するようなシーンに思えてしまう。
G.H.ミードは、自我が社会的な相互作用の中で形成されると考えた。
我々は子供の頃に、ごっこ遊びなどを通して他者の役割を理解し、野球などのゲームを通して集団内での自己の役割を位置づけていく。
こういった役割は内面化し、簡単には取り払うことができないものになる。
保利は教師という"役割"を無意識に演じてしまい、本来気づくはずの小さな違和感や嘘を看破することができなかった。
奇しくも、教師という社会的役割をはがされたことで、彼は自らの誤解に気づき、嵐の中麦野家へと走るのであった。
役割は職業に限った話ではなく、家族という最小の共同体においても生じる。
湊を気に掛ける早織は、母親として湊の幸せを願い、"普通"の未来を期待してしまった。
結果として湊は普通ではない自分を怪物であると感じてしまう。
自らの役割を取り払って純粋な目で物事を捉えることはできるのだろうか。
そもそも社会的な動物である限り、役割から逃れることはできないのではないだろうか。
群衆心理について
湊と依里がいたクラスの子供たちは自分たちの発する言葉や行為の重大さには気づかないまま、心無い言葉を二人に差し向ける。さながら人の心を感知できない怪物のようだ。
ル・ボンに言わせれば、子供たちは群衆心理に動かされた付和雷同な集団であろう。
依里が異質な存在であるという暗示は子供たちの中に"感染"し、無批判に受容されていく。はじめは湊も例に漏れず、依里が触れた髪の毛を自ら断つという行為が触発された。
これは子供という未熟な存在だからこそ起こるのである、という論は的外れであるように思う。
教室は社会の縮図であり、心無い言葉を振りかざす子供たちは我々自身だ。
"みんな"の意見に、意識的または無意識的に乗っかることで、どこかの誰かを不当に弾劾して傷つけている可能性は十分すぎるほどにある。
群衆は怪物になる可能性を常に孕んでいる
群衆の中にいて、自らの考えを純粋に保つことは可能なのだろうか。
あるいは、群衆の盲目的な暗示を解く環境を整えることは可能だろうか。
嘘をつくことについて
湊の隣の席に座る少女は保利に嘘をついた。
湊と依里は大人たちに嘘をついた。
そういった"嘘"が様々な誤解をドライブさせ、大きな事態へと収斂していった。
多くの場合、嘘には強い意志は介在していない。
中動態としての嘘をつく行為である。
そういった、”つかざるを得なかった嘘”によって、人と人との関係には少しずつ乖離が生じていく。
子供たちのついた嘘は自らの強い意志によるものだったのだろうか。
それとも、彼らがいた状況が、その嘘をつかせたのだろうか。
なぜ、嘘をつかねばならなかったのだろうか。
絶対悪について
映画の中で登場する人々の描かれ方として、一つ疑問に感じる点がある。
それは、星川依里の父親という存在だ。
映画の中では最後まで絶対悪として、つまりは、この物語の限りでは怪物とみなされるようなキャラクターであった。
今回の映画の構成に倣えば、この父親にも良い側面がある、というような描き方もできたはずである。
しかし、そういった描き方はしなかった。
ここで、一つの仮説として、製作者は鑑賞者に思い込みを埋め込もうとしたのではないかと思う。
つまり、悪としての存在を残すことで、作品の鑑賞後も、我々が認知の枠をはずす試みを止めないように、余白を残しているのではないだろうか。
現に、今この瞬間、私は依里の父親が絶対悪なのだろうかという問いに直面している。
彼が、自分の意志に反して酒に溺れ、どこかから借りてきた信条のもとに依里を"教育"しようとしているのではないか。それを促す社会的な構造がどこかに隠れているのではないかと。
そして、絶対悪という存在を認めるべきかという問いも残る。
例えば、核兵器は絶対悪とされる存在として、多く話題にあがる。
私もその考えに異論はない。
しかし、何かしらの概念を絶対悪としてラベリングする行為は、大きな間違いを生みかねない。
それは、ここまで述べてきた内容からも明らかである。
絶対悪という存在を認めてもよいのだろうか。
善悪を判断する行為を誤謬なく遂行することは可能なのだろうか。
怪物は「誰」なのか
ここまで書いてきて、結局のところ怪物は「誰」なのかわからなくなってしまった。
それは特定の人なのか。組織なのか。あるいは、より抽象的な社会構造なのか。
さらには、自らの中にも怪物となり得る萌芽を認めざるを得ない。
新たな怪物を生み出さないためにも、怪物の存在を探し続けなければ、と強く思った。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?