日常に溺れ、さらに現実を思い知る。現実は時に残酷だ。

島から帰っての日常・父の介護・病気

マイナス作用の防衛本能

夏休みに、2週間に及ぶ島暮らしを経験して、島で暮らすことの魅力に魅了されたわけだけど。東京の日常に戻ると、その感動が信じられないくらい忘れ去られていった。島暮らしが、はるか昔のことに感じられ、何がそんなによかったのかすら、分かりにくくなっていってしまう。なんだろう、最早その感覚を忘れないと日常にフィット出来なかったのかもしれない。一種の防衛本能として、日常の環境に順応するために島での記憶や感覚を忘れさせるという。

だって、日常はあまりにつまらなくて、無機質で、さほど人のためにならない仕事に時間を割いていたから。あの島での濃密な時間、人間の心の温度、カラダにまとわりつく湿っぽい海風。それと比べるとコントラストが強すぎて、日常を受け入れられないから、防衛本能で素晴らしき記憶に蓋をする。

毎日ストレスを溜めて愚痴を言いながら擦り減らし、休みの日は嫁は仕事でいなくて、ぼっちでダラダラしていては擦り減った心のエネルギーの回復は十分でない。

自分の未熟さもあるが、この日常、ほんとに不毛だった。惰性で日常を続けていた。ネガティブなモチベーションだけ貯金し続けていた。

父の体調がわるくなり地元に戻ることに

この頃、父が歩けなくなり始めた。以前に肩を骨折してから、調子わるくて、足が痛いとか、腰が痛いとか言って歩くのがスムースじゃなくなっていたんだけど、肩の骨折とか治れば歩くのも良くなると勝手に思っていた。でも秋を過ぎた頃には100メートル歩くのに1時間かかるほど、歩くのが難しくなっていた。なんでか、足が前に出ない。

いま思うと、病院に連れて行けって話なんだけど、緩やかに少しずつ歩けなくなっていったことと、父が病院には行かないと言っていたことで、ぼくらはなんとなく様子を見てしまっていた。これまた惰性なのだ。でも父には介助が必要になりつつあり、事実上の介護生活がスタートしていた。

年が明けて、ぼくたち夫婦は実家のすぐ近くに引っ越しをした。嫁が、実家の近くで両親をサポートすべきだと言ってくれたからだ。自分一人ではこの決断にならなかったと思う。嫁にはほんとうに感謝している。久々に住む「地元」というのも何だか安心するものだったし、近くに大きな公園もあって、いい環境だった。生まれ育った土地なのに、今の今までその良さに気付いていなかった。

父の病気

介護を通して、実際に汗をかくのは母であり、父と母の間では介護の負担によるケンカが絶えなくなっていた。この老老介護の現実は想像以上に厳しいものだった。これって、日本の抱える問題だと思う。

それで、第3者を入れる意味で、介護サービス導入を役所に相談をしたのは2018年1月のことだった。ケアマネージャーさんをご紹介頂き、介護プラン作成。デイサービスの活用や介護器具のレンタルを実施した。父もまだ短い距離は自分で歩けたので、これくらいのサービスでよかった。

ケアマネさんからは、病院に行ったほうがいいとアドバイスも受けたので、父を説得し病院に連れて行った。ようやくである。そこでMRIや血液検査を受けた結果、パーキンソン症状が疑われ、詳しく調べて行くことになった。ほんとうに、もっと早く来るべきだったんだ。人がだんだん歩けなくなるのには当然原因がある。それを調べもせず、「なんで歩けないの?がんばって!」と無責任な言葉を掛け続けていたことに、ひとりごちた。

そして、暫定的にではあるが病名が宣告された。多系統委縮症。耳慣れないそれは難病指定の病気だった。徐々に身体を動かすことが出来なくなる病気だった。

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