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ヨーゼフvsホームズ 第二話:ヨーゼフ警視

 一方、我らがドイツ帝国の治安を守るドイツ帝国警察きっての哲学的名推理家フリードリッヒ・ヨーゼフ警視は、先程から興奮のあまりそのドイツ人らしい額を深き皺で浮き立たせ、そして全身の汗をにじませながら警視総監室で警視総監とともに英国の名探偵シャーロック・ホームズの到着を待っていた。彼は時々隣の警視総監オットー・ゴールドマン男爵を眺め、先日警視総監からシャーロック・ホームズを雇おうかと相談をうけた時のことを思い出した。

「フリードリッヒ君、私は今回処理しなければならぬ『ノイケルン区アパート666謎の怪死事件』の捜査にあのシャーロック・ホームズを雇うことにしようと思う」
 ヨーゼフはその時ゴールドマン警視総監が言っていることの意味がわからずに思わず聞き返したのだ。
「総監、今なんとおっしゃられたのですか?英国から探偵を雇う?何故に探偵なんぞを雇う必要があるのです。この偉大なるドイツ帝国には私をはじめとした哲学的知性のあふれる素晴らしい捜査官があふれるほど在籍しているではないですか。冗談も休み休みにしてください。我らドイツ人は冗談は大嫌いなのです」
「冗談?私は冗談を言っているのではない。本気でホームズ氏を雇おうと思っているのだ。私もドイツ人、冗談など言うはずがない。君たちが哲学的知性に溢れた素晴らしい捜査官であることは重々承知している。特に君は一捜査官を超えた我がドイツ帝国の英雄で有ることはわかりすぎるぐらいわかっているのだよ。しかし事態は外国から助力を仰がなければならないほど逼迫しているのだよ。君もわかっているだろう、今のドイツ警察が抱えている未解決の事件の山のせいで新しい事件の捜査に支障をきたしていることを。あの山を一刻も早く切り崩さねば我がドイツ帝国警察自体の機能が停止してしまう可能性だってあるのだ」
「だからあのような形而下学的な知性でしかものを考えられぬ英国人の怪しげな男を雇おうというのですか!我が崇高なドイツ帝国臣民の裁きをあの形而上学もわからない、下劣なゴールドにまみれた英国人にさせるというのですか!」
「下劣なゴールドとは私に対する嫌味かね。それはともかく、さっきから言っているようにもはや一刻の猶予もならぬ事態なのだよ。聞けばホームズ氏は君たちが短くても半年以上ををかけて行う捜査をたったの一日で終わらせてしまうということじゃないか」
「ああ!なんとバカバカしいことを考えるのですか!捜査は早ければいいというものではないでしょう!早いのがいいのだったらイエスを十字に架けたピラトのように、また東洋の暴君のように、怪しげな人間を見つけて片っ端から断頭台送りにすればいいという話ではありませんか!あなたがやろうとしていることはまさにそれなのだ。捜査とは哲学的にも人文主義的にも厳密な論証を経なければならないものだ。論証し検証しそしてそれ自体を完璧な哲学として仕上げなければならないものなのだ。それは偉大なる知性を持つ我らが形而上学民ドイツ人にしかなし得ないことだ。なのにあなたは我らが偉大なるドイツ人が行う裁きを、事もあろうに、よりにもよって形而下学でゴールドにまみれた英国人に捜査を依頼するという。その手っ取り早く片付けてしまえという思考はまさにギリシャ時代から培われてきた西洋哲学の外にある思考、つまりはアジア的な野蛮そのものだ!」
 ヨーゼフはこうドイツ帝国警察だけではなく西洋文明の危機にまで話を広げてシャーロック・ホームズなどという怪しげなゴールドにまみれた英国人など雇わないでほしいと自らが西洋文明の盾となる覚悟で説得したのだが、しかしヨーゼフが発したゴールドという言葉が引っかかったのか、警視総監はヨーゼフの説得に首を立てに振らずヨーゼフの説得をこう言ってはねつけた。
「だけどね。警察を統括している私の立場から言わせてもらうとね。君たちの捜査。いくらなんでも遅すぎるのよ。ただの夫婦ゲンカで起こった殺人事件の捜査がなんで半年もかかるのよ!」
 警視総監から発せられたこの唖然とするほどのドイツ精神に反する地の底にまで落ちるような形而下的な戯言にヨーゼフ警視は驚き、思わず目を剥いて警視総監を見つめた。ヨーゼフにとってこのゴールドマンの言葉は彼だけではなくドイツ帝国警察の職員、いや全ドイツ帝国臣民への侮辱であった。彼の中から崇高なゲルマン魂が立ち上り、早くこの汚れた世界から逃げ出してしまえと叫んでいた。彼はすくりと背筋を伸ばして立ち上がるとまっすぐ警視総監を見つめてこう言い放ち総監室を去った。
「捜査があるゆえ、失礼する!」

 その後警察をやめるとヨーゼフは辞表まで出したが、国民的英雄でビスマルクの個人的な友人でもあるヨーゼフにやめられたら大変なことになるとドイツ帝国警察どころではなくドイツ帝国政府まで動かして彼が辞職しないよう必死に説得に動いた。その結果ヨーゼフは辞職を思いとどまったが、それは意外なことに警視総監の次の言葉がきっかけとなっていた。
「君にとっては心苦しいだろうが今回の事件について私はやはりシャーロックを雇うことにした。今回の『ノイケルン区アパート666謎の怪死事件』は外国人の助力を仰がねばならぬほどの難事件なのだよ。しかし君は誤解しているようだが何もホームズ氏に捜査の権限を譲り渡すわけではない。彼はあくまで協力者だ。協力して捜査を行うがその時に意見の対立など多々あるだろう。しかしそのときこそ君にとっての機会なのだよ。君の名声は残念ながらこのドイツ帝国の外には全く伝わっていない。君がこの事件であの世界的に有名な探偵シャーロック・ホームズの鼻をあかせば君の名声は世界に轟くだろう。君はこんな機会をみすみす逃して警察を去るのかね。いや、シャーロック・ホームズから逃げるのかね」
 シャーロック・ホームズの名前を出されてこう言われたらもはや逃げることは考えられない。フルードリッヒ・ヨーゼフ警視は心の中に崇高なゲルマン魂が沸き立ってくるのを感じた。この哲学の崇高な論理の力であの形而下学の英国ゴールド男を叩きのめしてやると彼は決意しそしてこの間のように背を伸ばし警視総監の前でこう熱く宣言した。
「この本物の哲学的名推理家である私が英国の形而下学男のシャーロックなんぞに負けるはずがない。奴を哲学の力で叩きのめしてバルト海に流してやりましょう!」

 ヨーゼフは今か今かとシャーロック・ホームズの到着を待ちわびていたが、肝心のホームズはとっくに時間が過ぎているというのに総監室に現れなかった。ゴールドマン総監は何度も人を呼びにやったがそれでも誰も人の来る気配さえなかった。そうしてもうしばらく待っていると、慌てた調子で先程ホームズを警察庁内に案内したあの刑事が総監室に入ってきた。
「あの……ホームズ氏を見失ってしまいました。途中で一瞬目を離したら彼を見失っていたのです。その後庁内をくまなく探し回りましたが彼の姿は見つかりませんでした」
 まさかホームズは逃げたのか。おそらく道の途中で案内人の刑事からヨーゼフ警視の哲学的な捜査の綿密と正確さについて散々聞かされて自分の偽者ぶりがバレるのが怖くなって逃げたのだろう。その場にいた一同はそう確信し警視総監などはヨーゼフに媚を売って、「あの男はやっぱり詐欺師だったようだ。私も騙されていたよ。やはり事件は哲学的な検証を経て行われるもの。溜まっているからといって早めに処理しろだなんてあってはならないことなのだ」と下手なお追徴を述べたがヨーゼフ本人はホームズのこの突然の逃亡を哲学的に検証しなければと一人思考に耽っていた。あの形而下学の極みみたいな男が逃亡など考えられぬ。そんなことをすればやつの名声は地に落ちるはず。この逃亡劇には存在論的な認識論的な理由があるはず。考えろ考えろとヨーゼフが思考の闇に深く潜ろうとした瞬間だった。突如総監室の扉が開き、その扉の隙間からティーカップを手に持った痩身のいかにも不健康そうな男が現れたのである。彼はティーカップの中の紅茶を飲みながら部屋の中に入り紅茶を飲み干すと、干しカップを近くのテーブルに置いた。それからゆっくりとパイプを取り出して、そこに怪しげな匂いのする白い粉を入れて火でまぶした。そして怪しげな匂いで充満する室内で「やっと粉が見つかった。やはり私の推理は正しい」と独り言のようにつぶやき、ひとしきりパイプを吸うと、ヨーゼフはじめ皆に向き直って挨拶をした。
「はじめまして。英国から来ました。私がシャーロック・ホームズです」

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