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「キミとずっと喋っていたい」

【前書き】
 イラストレーターの綾瀬寧は、ポテやんという喋る犬を飼っている。ポテやんの愛の告白に立ち会ったり、一緒に海までドライブしたりと楽しい日々だ。そして、寧にも恋の話が。さぁ、この恋どーなる?
 「話中話」の形式なので、A面(第1〜5話)とB面のトーンがガラッと変わります。戸惑われるかもしれませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。



【本編】


A面「喋る犬の飼い方」
 
 第1話 ポテやん、喋る
 
 桜の薄桃色が青い空に映えている。春満開の舗道を散歩する、
 私の名は綾瀬寧(あやせしずく)。犬を飼っている。名前はポテ…豆柴とミニチュアダックスの雑種だ。茶色い短毛と長い尻尾が柴犬、短足胴長なのがダックスの血筋だ。目は垂れ気味で口の周りが黒く、なんだかおっさんぽいので私は彼を“ポテやん”と呼んでいる。今日は散歩がてら、ポテやんのゴハンを買うつもり。
「あらあ、ポテちゃん。お散歩でちゅか?」
 近所のおばさんにつかまってしまった。おばさんは遠慮なく近づいて、ポテの顔をわしゃわしゃ撫で回す。
「こんなに尻尾振って。ポテちゃんは、おばさんのこと大好きでちゅねえ」
 愛の押し売りに、ポテは困惑気味に尻尾を左に振る。誤解されがちだが、犬が尻尾を振るのは嬉しいときばかりではない。右に振れば喜びの表現だが、左に振るのは警戒心や不安感の表れなのだ。されるがままにさせて、愛想笑いを浮かべるポテは、わがペットながら健気だと思う。
「おやつあげたいんだけど、今日は持ってないわあ」
 おばさんは飼っているチワワ用のおやつを常備していて、たまにポテにもくれるのだが、今日はリターンのないコストを浪費してしまったようだ。尻尾の動きが止まり、ポテの表情が引きつり始める。
「う…うおあん」
 う…嘘やん。私には、そう聞こえた。
「じゃあね。しずくちゃん。ポテ」
 去っていくおばさんの後ろ姿を睨みつけて、ポテが吠えた。
「ワワンワ、ウォバン!」
 さわんな、おばん!に聞こえる。
(空耳?)
 そのときは、一片の疑惑でしかなかった。
「ポテやん。お待たせ~」
 紙袋を抱えてペットショップから出た時、雨滴を顔に感じた。柱につないだリードを解くころには小雨がぱらぱら落ちている。
「…あ!」
 大事なことを思い出した。と、直後にポテが続けた。
「洗濯物!」
 言うやいなや走り出し、私も引っ張られるように追いかけていく。疑惑は確信に変わった。
 アパートに戻ってベランダの洗濯物を取り込んでいる間、ポテは素知らぬ顔で毛繕いをしていた。間に合ったことに安堵し油断しているようだ。私はすかさず話しかけた。
「危ないとこだったねえ。ポテやん」
「ほんまや。間一髪ちうやっちゃな…あ!」
 やはり、か。
「あんた、喋れるのね?」
「…」
 しらばっくれて後ろ足で耳の下を掻いてから、黙って立ち去ろうとする。
「晩御飯だけどさ…」
 立ち止まる。
「さっきショップで、国産鶏ハーブを贅沢に使った“犬有頂天”買ったよね…」
 袋から買ったばかりの生缶を取り出す。ポテの尻尾が激しく右に振れる。
「でももったいないから、カリカリにしとこうかな?」
 尻尾が左に振れる。
「有頂天」
 尻尾がブルンブルン右に。
「カリカリ」
 だらんと左に。
「ポテやん。尻尾じゃわからないわ。言葉にして言ってくれないと」
 私がゴハンを片付けるフリをすると案の定
「ねーちゃーん!」と涙目で私に飛びついて、ペロペロ顔を舐めてきた。
「そないなナマ殺し、殺生でっせえ!」
 簡単に、落ちた。
「今日のねーちゃん、はんでーしょんのノリがよろしなあ。ごっつ別嬪さんでっせ…へへ、てなわけで“犬有頂天”あんじょう頼んますう」
 よく見ると尻尾は左に振れている。つまり、前半はテキトーなお世辞なのだ。それを隠すかのようにグルングルン廻ったりピョンピョン跳ねて、必死に愛想をふりまいている。
「今まで猫をかぶってたわけね?犬なのに」
 今度ポテやんに、猫耳の帽子を買ってあげよう。楽しくなりそうだ。
 
 『喋る犬の飼い方① 喋り始めるまでは、根気よく待ちましょう』


 第2話 恋

 五月の河川敷を散歩する。今日のポテはスーツっぽいワンコ服を着ている。
「いつもは服着せようとすると嫌がるのに、今日はどーゆー風の吹き回し?」
「…デートの約束してん」
「え?」
「いつもシッコする電柱あるやろ」
「ああ。ペットショップの前の?」
「シッコってただの排泄行為やなくて、わしらの通信手段やねん。臭いの中に個人情報が盛り込まれとるわけよ。電柱もネット掲示板みたいなもんで、すなわち『S犬S』やねん!」
(SNSとかけてんのかな?)
「わしが前に書き込んどいた自己紹介代わりのシッコに、『今度ゆっくりお話したいです』いうシッコの上書きがあってん。ⅮⅯいうやっちゃな。あ、あの子の臭いやってピンときたわ。『ほなら、ドッグランでどないだす?』とお返事をしたためたわけよ」
(知らなかった。犬の世界にも、マッチングサイトがあったとは…)
「あ、お花や」
 そう言って、ポテが道端のかすみ草を口で摘み、前足で器用に花束を作った。
 河川敷のドッグランに着いた。柵の外から眺めてみるが、人間にはどのワンコのことかわからない。
「あんたのマッチング相手はどれよ?」
「あ、ほれ。あの子や、あのスラッとした毛の長い…」
 ボルゾイというロシア産の大型犬種だった。スラリとした容姿と気高い雰囲気を醸し出している。
「な。めっちゃ、ええ娘やろ?」
「すごいプロポーションね。人間だったら、スーパーモデルとかになれそうだよね」
「ロシアから来た帰国子女やねん。最近引っ越して来たらしくて、いつもああして独りでおんねん」
「体長は、ポテやんの五倍くらいあるけど…」
「男は見た目やない!ねーちゃん、わしの一世一代の晴れ舞台、しかと見届けとくんなはれ」
 ポテやんはかすみ草の花束を咥えて、ボルゾイの前に走って行った。その勇気に感心しながら、私は木陰に隠れてそっと見守ることにした。
「お待たせしてすんません。わしがいつもあんさんのことフォローさせてもろてる、ポテいう者です」
 ボルゾイの尻尾は左に振れ、少し驚いた様子だった。すかさず花束をボルゾイの前に放る。
「その花、あんさんに似合うんやないかと思うて…」
 ボルゾイがかすみ草の匂いを嗅いでから、尻尾を右に振る。
(あ、喜んでる)
 どうやら警戒心を解いて、穏やかな気分になっているようだ。ツカミはOK。
「わし、ずっとあんさんのことを見てました。そんで、めっさステキなひとやなって思てました…」
 思いつめた声に聞き入るボルゾイ。
「もし良かったら…やねんけど…」
 ボルゾイの尻尾の動きがピタリと止まる。共鳴するように私までドキドキしてきた。
「わし、わしと…」
 ボルゾイの尻尾が右に振れる。だが、ポテの緊張はピークに達しているようだ。
「わし、わし、わしわしわし…」
(さぁ、その先を言って。女の子なら聞きたいはずよ)
「わしと、交尾してください!!」
 ボルゾイの目がキラリと光る。次の瞬間、ポテの首をカプッと咥えて数メートル放り投げていた。  
「ひゃああああああ」
 小型犬の身体がくるくる回って、私の足元に落ちた。
 ボルゾイは「フン!」と踵を返し、何事もなかったかのように立ち去っていく。
「なんか…ごめんなさい」
 私は飼い主として、彼女の後ろ姿に頭を下げた。
 
 家に戻ったポテは、着くなり国語辞書をめくり始めた。背後から覗いてみると「交尾」の欄を見ているようだ。右に目を移すと「交際」の欄が見える。
「あ、しもた。『交際』言うはずが『交尾』って言うてもおた~」
「マジか」
 ポテは短い手(?)足をじたばたさせて、ギャンギャン泣き出した。
「ぶふぇ~ん。わし、立ち直られへん。わし、もう…恋なんて、せえへん!」
 私は苦笑いするしかありませんでした。
「…春はまた来るよ。ポテやん」  
  
 『喋る犬の飼い方② ボキャブラリーを身につけさせましょう』

 

 第3話 裏切りの応酬

 今、私はあの日のことを思い出している。地元の保健所で開かれた保護犬譲渡会。広場には多数の保護犬がいて、柵で囲ったサークルの隅には生後五か月のポテがいたっけ。あなたはずっとビクビクおどおどしている子犬だった。
「はーい。みんな、ご飯だよ」
 保健所の人が皿を並べていくと、ワンコたちが我先に走って来る。ポテもよちよちと歩き出したけど、ほかの犬に飛び越され追い越され、あげくに踏んづけられてしまってた。まだ小5だった私は思う。
(なんか…トロい犬)
 ようやく餌置き場にたどり着いたときには、お皿は全て占領されていた。みんながガツガツ食べるのをぽかんと見ているポテ。そして、諦めたようにまた隅っこに戻る。私は母親に言った。
「ママ、あの子飼いたい!」
「ホントにこんなとこの犬でいいの?ペットショップで血統書付きの…」
「あの子がいい!」

 窓の外からは初夏の日差しと蝉の鳴き声。当時の私とポテを映した写真を手に取る。
「子供心に思ったの。この子は私と似てる。他人を押しのける人生より、争わない生き方をする犬だって」
 ポテは部屋の隅で畏まっている。
「奪うくらいなら、奪われる方を選ぶ」
「…えへ、えへへ」
 後ずさりするポテ。
「…でも、あなたは私の期待を裏切った」
 私はテレビ台の裏から、ボロボロになった靴下やリモコン、それに犬用のレインコートを取り出す。
「奪い過ぎだっつうの!」
「で、出来心でんがな。これなんか歯ごたえええもんやから、ついつい噛んでまうねん。堪忍や」
 “POTE”と書かれた雨合羽を、申し訳なさそうに私に差し出す。
「…なあ、ねーちゃん。まえまえから聞こう思てんけど、わしってなんで“ポテ”いう名前なん?」
「ぎく」
「え、なになに?そのリアクション。聞いたらマズイことなんか?」  
 ポテがその場でぐるぐる回り出した。これは犬一般に見られる不安行動である。
「あれは、ポテやんがうちに来たばかりの頃でした…」
 私は遠い目をして、また別の日のことを思い出す。

 近所の動物病院の受付で、母がぐったりしているポテを抱きしめていた。私は診断の申し込みをしにいく。
「あの、すみません。うちのワンコなんですけど、ずっと下痢が止まらなくて…」
「ワンちゃんね。じゃ、これにお名前を書いて待っててね」
 受診表を差し出されたけど、小5の私には荷が重かった。
「ねえ、ママ。これ、どうしよう?」
 と、母に「犬の名前」という欄を示す。
「あら、困ったわね。あの、この子まだ名前が決まってないんですけど…」
「ああ…それでは便宜上、適当に“ポチ”とでも書いといて下さい」
「あ、はい。ママ手が離せないから、あなたポチって書いといて」
 
「でもこのとき、初めての動物病院に動揺してて…『ポチ』って書いたつもりが『ポテ』になってしまったのよ」
「…」
「それでまあ、それっきり…」
 私の話をポテは愕然と聞いている。
「う、嘘やろ?」
「あ、朝ドラの時間だ」
 壊れたテレビのリモコンをとって、テレビをつける。
「なんで?なんで、そのあと正式名考えへんかったん?なあ」
 ポテはすねたように私の背中を前足でゴシゴシする。
「名前ってさあ、一生もんやねんで。ほかにもっとあるはずやん。デコピンとかベッケンバウアー略してベツクとか、可愛い系やったら、ゆず君とかさあ」
「ほら、この女優さん初主演なんだって。大抜擢だよね。応援したくなるわあ」
 などと話を濁して、ポテの嘆きをやり過ごす。
「このお、裏切者!」
「あ、そこ。ちょーど痒かったのよねえ」
 ポテやんは、痒い所に手が届くワンコだなあ。

 
 『喋る犬の飼い方③ 名前は慎重に付けましょう』

   
 第4話 夏をあきらめて

 ポテが恍惚の表情で悶える。
「あ、あん、ええ、ええわあ。ねーちゃん、もっと下…そこ」
「うるさいなあ」
「たまらん。わし、わし、もう辛抱たまらん」
「やめた」
 私はブラシを放り投げる。
「あん、ごめん。もう悶えへんからあ」
 頭をスリつけて、謝りながらおねだりしてくる。豆柴の血が入っているポテやんは短毛なので手入れが簡単そうに思われがちだが、換毛期には大量に毛が抜け落ちる。私はビニール袋いっぱいの抜け毛を眺めながら、これ使って人形とか作れないかなあ、などと考える。
「お世話かけまんな。けど毛えが抜けるんは、わしのせいちゃうで」
「あんたじゃなきゃ、誰のせいよ」
「夏の、せいさ」
 ポテはサングラスをかけて、窓の外の太陽を見上げた。
 
 オープンカーをレンタルして海岸線を走る。助手席には麦わら帽とグラサン、アロハ姿のポテが座っている。カーステレオからはTUBEの音楽。
「♪夏を待ちきれなくて~」
 尻尾をブイブイ振ってテンションが高い。
「海かあ。思い切り砂浜を走り回って、スイスイ泳いで、スイカ割り…楽しみやなあ」
「今年はまだ、海行ってなかったもんね」
「ねーちゃん、一緒に行く男おれへんもんな」とボソっと呟くのを、私は聞き逃さなかった。急カーブを切る。
「ひいい!」
 ポテの体が車から飛び出し、かろうじて後ろ足でこらえる。麦わら帽子が飛んでいく。
「ねーちゃん、危ないや…」
 あの日のボルゾイのように、私はギロリとポテを睨む。ポテは黙って、カーステレオを消した。                                       
 さあビーチに着いた。パラソルや荷物を持って、砂浜に足を踏み入れる。と、監視員の笛が鳴る。
「ちょっと、そこの方」
「はい?」
「犬は、砂浜に入れられませんよ」
「え?どうしてですか?」
「排便したり吠えたりするから、ほかのお客さんに迷惑なんです」
「ポテやんは、そんなことしません!」
「みんな、うちの子に限ってって言うんです。でも規則だから…」
 なおも食らいついたが、そのやり取りをポテが悲しげに見ているのに気づきあきらめた。
 帰りの車の中、ポテは後部座席でフテ寝していた。私自身も納得がいかず、車内の空気は重々しかった。
「去年は、あんな規則なかったのに…」
「ねーちゃんだけでも海入ったらよかったんちゃう?わしは車で留守番するし」
「そんな寂しいこと言わないの。あ、そうだ。せめて海の見えるレストランで食事でもしようか?」
「やったあ。わし、ピザ食べたい!」と、ポテは身を乗り出した。
 テレビなんかにも紹介されてる海辺のレストランに立ち寄った。だが、そこにも「ペットの連れ込み禁止」という看板。さらに雨まで降り始めてきた。
「帰ろっか」
 夜になって雨脚は強まり、アパートの窓を叩きつけていた。
 私とポテはテイクアウトしたピザを、黙々と食べる。
「…ポテやん、ごめんね」
「…ねーちゃん。あんま気にせんとってな。わし楽しかったから」
「…」  
「海岸線のドライブ、気持ちよかったし」
 ポテの気遣いに、私はうるっときた。
 と、窓の外で雷が鳴る。
「ぎゃん!か、かみなり~」
 ポテが尻尾を巻いて、私の背後に隠れる。
「ポテやん、大丈夫よ」
 ぶるぶる震えるポテを抱き上げた。
「今日は、一緒に寝よっか」
「あん、あん」と情けない顔で、うんうん頷く。
「よし。じゃあ、ちょっと早いけど…」
 ポテを抱いたまま立ち上がりかけると、スカートがずぶ濡れになっている。見ると、ポテの股間から滝のように流れ出るものがあった。
「…あ、堪忍」
「そりゃあ、ビーチにゃ入れねえわけだ」
 私はボルゾイよろしく、カプッとポテの首を咥え、二階の部屋から放り投げた。
「きゃい~~~ん」
 ポテのシルエットが、雷光に照らされ浮かび上がる。嵐の中に咲く花火のようだった。

 『喋る犬の飼い方④ 喋る喋らないに関わらず、シモのしつけはしっかりと』 


 第5話 職業選択の自由

 私のアパートのリビングは、仕事場兼寝室でもある。今日もPCを使って単行本の装丁のデザインをしている。その間、ポテはベッドに寝転んで「犬たちのハローワーク」という本を読んでいた。
「なあ、ねーちゃん。わし働こう思うねやんかあ」
「働く?ペットなのに?」
「けど世間では、ペットでも立派に働いとる犬がおんねん。ほら」と、警察犬や盲導犬の写真を見せる。
「ポテやんは、何になりたいの?」
「やっぱオス犬の憧れいうたら、警察犬ちゃう?」
「…無理」
「え?なんでなんで?」
「だって、ポテだもん」
 
 私はイメージする。冬の東尋坊。荒れ狂う波。警察犬ポテが、犯人を崖に追い詰める。
「そこまでだ!」
「くそ。国家のイヌめが!」
 犯人は振り返り、拳銃を取り出す。
「ふふふ。犬の瞬発力を甘く見るな」
 ポテの目がキランと輝き、犯人の拳銃目がけて飛びかかる。
「銃を捨てろ!」
 しかし小型犬の上に短足なので、拳銃には届かなかった。仕方なく犯人の足元でぴょんぴょんジャンプする。
「ほら、ワンちゃん。おやつだよ」と、犯人が懐から犬用のガムを取り出して放り投げる。
「あ、ミルク味のLサイズ!ついに出たんやあ」
 放り投げたガムを嬉々として追いかける。ガムは転がって崖の下へ。ポテも一緒に落下していく。
「あああああああああ」

「ひいい、命あっての物種やなあ」
 ポテも谷底に落ちていく自分の姿を想像して、前足で目を覆う。
「もっと他の職業を…あ、これは?」
「なになに?」
「麻薬犬」

 今度は空港をイメージする。税関職員がポテに命じる。
「ポテ号。怪しいやつを見つけたら、即座に報告したまえ」
「了解!」
 と、見るからに怪しげな男が、スーツケースを引いてくる。
「む。このにおい…」
 ポテが脱兎(犬だが)のごとく駆け出して、男の脚に噛み付く。職員も駆けつける。
「うわあ!」
 男が手放したスーツケースが倒れる。蓋がパカっと開く。
「こ、これは?」
 中に入っていたのは、大量のミルク味のガムだった。
「あふ♪あふあふ」
 ポテは中毒患者のようにそのガムを貪り食い始めた。

 どうイメージしてもポテやんにはムリ。私はぱたっと本を閉じる。
「…ないね」
「え、ほんなら、これはこれは?」
 盲導犬のページ。
「あんたに命を預ける人間はいない」
 私は作画の仕事に戻る。
「え、なんなん?わしがせっかく、ねーちゃんの負担減らそう思てるのにい」
 私の椅子を前足でガリガリして、ぎゃんぎゃん吠えるポテ。
(ポテやんの一番の仕事は、そうやって喋ることよ)

 『喋る犬の飼い方⑤ 身の丈に合った仕事を選びましょう』  


B面「しあわせの正体」

 (なるほど。動物ものか。ストーリーやキャラ設定はブラッシュアップが必要だが、画の感じは悪くないな)
 「月刊少年ステップ」の編集部では、編集長の大竹が送付されたマンガ原稿を読んでいた。封筒の表書きは「編集部・杉本様」となっている。
「編集長、吉村先生の原稿上がりました。これから印刷所に…」
 出先から、その杉本浩史が戻ってきた。
「おう、杉本。ちょっとその前に」と机上の原稿を見せる。
「…綾瀬さんの、連載コンペの原稿ですね?」
「うん。急いでたから先に読ませてもらった。絵柄がウチ向きだし、ショートショートの動物ものは今ないから、試験的にやってもいいかもな」
 浩史は受け取った原稿の表紙を見た。
「喋る犬の飼い方?」
「あと5、6話見たいから、お前彼女についてやってくれんか?彼女の挿絵(カット)もずっと担当してたろ」
「…」
「なんだ。何かあんのか?」
「いえ」
「あ、まさか手つけちゃったとかじゃないだろうな。あの子かわいいもんな」
「ちゃいますよ!手つけるとか、そんなゲスい関係やないっす!」
「どっちでもいいから、すぐにツナギ入れとけ。俺も電話したんだが、彼女出ないんだ」
「…彼女、電話は…」
 大竹は何かを思い出したようだ。
「あ、そうか。そうだったな。連載はキビしいかあ?」
「や、彼女にチャンスあげてください。あんじょう頼んます!」
「ま、リモートや文章でやりとりできる時代だしな」
「俺がしっかりサポートしまっさかい、大船に乗った気でいとくなはれ。へへ」
 ヘラヘラ顔で媚を売ってきた浩史に大竹は脱力する。
「杉本さあ。お前の関西弁って…誠意のかけらもないよな」
「ヘヘ。まいどどーも」
 言うなり部屋を出て行く浩史の後ろ姿に大竹は(喋らなきゃ、いい奴なのにな)と溜息を送った。
 窓の外には小雪が舞っていた。綾瀬家に向かう電車の中で、浩史は寧が描いたマンガ原稿を読んでみた。第1話には、ポテという犬が関西弁を喋るシーンが出てくる。
(関西弁?)
 浩史は思い出す。三年前、編集部の会議室で初めて寧と彼女のイラストを見た日のことを。寧が描いた読者ページに載せる挿絵をチェックしたのだ。当時の寧は、4年生になってもまだ就職先が決まっていない美大生だった。
「え、本チャン?いや、綾瀬さん。今日はラフでよかったのに…」
 浩史は鮮やかに色どられた流麗なカットに見入った。
「こらゴッツいわ。めっさ綺麗やし、絵が喋りかけてくるみたいや」
「…」
 言ってる意味がわからず、寧はきょとんとしている。
「あ、すんません。ぼく大阪なもんで、興奮するとコテコテになってまうんです」
 (コテコテ?)と口元が動いて小首をかしげる寧の姿に、心房細動のような動悸が高鳴ったのを憶えている。
(か、かわいい)
 寧のアパートまで、最寄りの駅からタクシーで向かった。第2話のポテがボルゾイに告白するシーンを読む。
(かすみ草…)
 次の回想は先月のフランス料理店だ。スーツを着て、畏まっていた自分。目の前には、どこか居心地悪そうに食事している寧。
(大丈夫や。つきあってもう三年も経つし、いつも笑てくれるし…)
 ぐっと飲み干してワインの力を借りる。一本2万円もしてんねんから、しっかり背中押してや!
「ねいちゃん。今日は大事な話があってん」
 プライベートでの浩史は、しずくのことを寧(ねい)ちゃんと呼ぶようになっていた。ポテやんが「ねーちゃん」と呼ぶように。
「こ、これ」
 と椅子の下から、大きなバラの花束を取りだして寧に贈る。
 食べ物を頬張ったまま、私に?というジェスチャー。花束の中には小さな箱が入っている。蓋を開いてみると、中に婚約指輪が。
「しずくさん。ぼ、ぼくと…け、け、こ、こ、けこ、けこけこ…」
 あぁ。ポテが「わしわし‥」言ってたのと同じか。
 寧はしばらく指輪を見ていたが、やがて蓋を閉じ花束ごとそっと押し返した。
(受け取れません。ごめんなさい)
 という意味の手話をしてから、頭を下げたのだった。
 二階建てアパートの玄関前で、浩史はチャイムを押すべきか躊躇っていた。
(め、めっさ気まずい)
 10分ほど立ち尽くすうちに、誰かが階段を上がって来た。
「…あのう。うちの娘になにか?」

 寧の母で菜穂と名乗る女性が、いま浩史の前で寧のマンガ原稿を読んでいる。第3話「裏切りの応酬」のようだ。
「…昔、家で飼ってた犬の話ね」
「この作品、春の改編で新連載候補に挙がっているんです。その件もあって、なんとか話をしたかったんですが…」
「…ホントに仕事の話だけ?」
 と見透かしたように顔を覗かれ、浩史は少なからずうろたえた。
「寧とは、どんなおつきあい?」
「は、はい。結婚を前提に…実は先日、そのうプロポーズをさせて頂きました。お聞き及びではない…んですよね」
「で…あの子、なんて?」
 浩史は何も言わず、頭を垂れて答えた。
「杉本さんは、なぜあの子を選んだの?病気のことは知ってるんでしょ?」
「もちろんです!喉頭(こうとう)横隔膜症(おうかくまくしょう)…生まれつき声だけが出ない病気ですよね。でもぼくは彼女のことを全力で支えるつもりです」
「かわいそうな保護犬を引き取る、みたいな感じでプロポーズしたんじゃないの?」
「まさか!そ、そんな」と興奮して立ち上がる浩史に、菜穂は第3話の原稿を見せて言った。
「…って、この回のお話はあなたに問いかけているのかもね」
 第3話は、保護犬譲渡会で小5の寧がポテやんを選ぶ話だ。
(そうか。このマンガは、寧ちゃんの実体験が散りばめられてるんや)
 菜穂が、今度は第4話のページを示してくる。
「ポテがビーチに入れてもらえない話…これなんか、私には身につまされるわ」
「身につまされる?」
「あの子が中学に上がったばかりの頃、呼び出しを受けたの。特殊養護学校に転校してみてはどうかって。悔しかった。この子は喋れない以外は至って普通の子なんです。授業だってちゃんと理解してます。それなのに、なぜですか!ってね。校長先生は言ったわ。おかあさん。これからは小学校とは比較にならないくらい、授業内容が高度かつスピーディーになっていくんです。例えば質問をしたいときに、筆談や手話でやりとりするだけの余裕は教師側にはありませんし、娘さんにとってもそれがいいことかどうか…こっちに配慮してるような言い訳を、私と寧は黙って聞いていた」
 あぁ、そうか。寧ちゃんはビーチに入れてもらえんかったポテやんみたいに、拒絶されたんやな。他の人に迷惑やからって。浩史は今起きたことのように、唇を噛んだ。
「帰り道私ばかりが怒ってて、寧はずっと無表情だった。でも家に着くなり、いつものように迎えに来たポテを抱きしめて泣いたわ。何があったかなんて犬にわかるわけないけど、ポテは寧の涙をなめながら、あの子を慰めてくれたのよ」
「‥」
「もちろん、ホントのポテは喋ったりしないけど、何かを語りかける度に頷いて、前足で寧の背中をさすったり、傍目からは会話しているように見えたわ。あの子には、ポテの声が聞こえていたのよ。ポテは喋っていたの」
「‥」
「それからはあまり勉強にも身が入らなくなって、ずっと絵ばかり描いてたわね。高校生になると絵画コンクールで入賞し始めて、東京の美術大学を受験することになったの」
「頑張り屋ですよね、彼女」

 その頃寧は、毛布にくるまって風邪気味の身体を休めていた。
「ワン!」
 ぱっと目を覚まし部屋を見渡すと、生後五か月のポテがおすわりしている。
「…あ、うちに来た頃のポテやんだ。ポテ!こっちよ。ほら、ねーちゃんよ」
 何度も呼ぶが、ポテには聞こえない様子で、座ったまま小首をかしげている。
「…聞こえない…そう、そうよね」
 改めて自分の境遇を思い知り、悲しい気持ちになった。

 菜穂は浩史の顔をまじまじと見た。
「…担当さん…杉本さん…杉ちゃん…いや、スギちゃんはワイルド過ぎるでしょ」
「はい?」
「ヒロくん…ヒロぽん…ヒロポンはさすがにヤベえぞって返したら…ヒロやん」
「た、確かにLINEでは、ヒロやん↔ねいちゃん、で話させてもろてます」
「私もあなたのことは、家族LINEで知ってたわ。あの子毎日のようにノロけてくるんだもの。ふふ」
「え?え?」
 寧の母親は、ポケットから鍵を取り出して言った。
「あの部屋の合鍵よ。あとは任せるわね」
 浩史は「…お、おかあはん」と、くしゃくしゃの涙目で受け取った。
「がんばれ、ポテやん!」
 菜穂は相撲とりにするように、バンと浩史の背中を押し出した。

 …………
 

 喋る犬の飼い方 第ⅹ話「しあわせの正体」 

 ポテやんです。今日は、わし目線で“ねーちゃん”こと綾瀬寧ちゃんのお話をしまっさ。
 ねーちゃんの職業はイラストレーター。ちうてもフリーなので、下請け孫請けの仕事ばかりで正直儲からへん。日がな自宅で仕事。で、一区切りついたら…わしをお散歩に連れてってくれるんや。
 この日も紅葉が色づく近所の舗道を散歩する。会社勤めやないから外に出るのはこんときぐらい。お散歩、買い物…以上。そんなわけでねーちゃんには“出逢い”ちうもんがおまへん。けどねーちゃんも、犬年齢で言うたらもう3歳のお年頃。(犬年齢3歳=人間年齢24、5歳)。スーパーで特売の野菜や肉を買っているねーちゃんを見とると、あまりにもさびしい青春やないか、とつねづね心配してますんや。
 今夜もアパートのこたつに下半身だけ入れて、ゴロゴロしながら待つ。
(ねーちゃん、今日は珍しく飲み会や言うとったけど…遅いなあ)
 窓の外を見ると、落ち葉が舞ってる。
 夜も11時を回ったところで、ようやくドアが開く音がした。
「あ、帰ってきた」
 玄関に走っていくと、酒に酔ったねーちゃんが帰ってきた。
「おかえり。女子会どやった?なあ」
 手には手羽先の土産を持っとる。わしは狂喜して迎える。
「…ポテやん」
 言うなりねーちゃんは、わしをぎゅっと抱きしめてきた。
「痛い、痛い」
 ねーちゃんからは鍋料理の臭いがしたので、たぶん。女友達とコラーゲン鍋でもつついてたんかなあ。こたつの上に手羽先と缶チューハイを載っけて、グチ大会が始まった。
「どーもこーもないわよ。お決まりの恋ばな大会でさ。私はいつもどおり聞き役。挙句の果てに…」
 ねーちゃんが手羽先を犬用のフード皿に入れてくれた。
「美大時代の同級生が聞くわけよ。『寧って犬飼ってるんだって?』『うん。かわいいよお。待受け見る?』って返したら『いや、羨ましがってないから』『そうそう。ペット飼ってると婚期逃すって言うよ。気をつけな』とか、ぬかしやがんのよ!」
 ねーちゃんの目は座っとった。
「結婚だけが幸福なのか、っての」
 わしはおとなしく聞きながら、皿の手羽先を見つめる。よし、と言われるまで食べないのが、名ペットと心得とるからや。
「お前はどう思う?ポテ」
「…お、おっしゃるとおりです。価値観はひとそれぞれかと…」
「よし、気に入った。飲め」
 ねーちゃんは、チューハイをフード皿に注ぎ始めた。
 わしはチューハイでひたひたの手羽先を見て、人生に絶望する。
「私だって、結婚の話ぐらいあるんだから」
「え?ほんまなん?爆弾発言やあ。なあなあ、相手どんな男なん?」
「いいひとよ。でもいいひとだから、私といるときっと無理をすると思う。私はもう、誰かに迷惑をかけたく‥ない‥の」
 糸が切れたように卓にうつ伏し、そのまま寝落ちしてもうた。
 わしは寝室から毛布を咥えて引っ張ってきて、ねーちゃんの肩にかけてあげた。しばらくねーちゃんの寝顔を見る。
「いいの。私にはポテやんがいるから…いいの…」
 ねーちゃんの涙が頬をつたう。
(ねーちゃんは、わしと暮らさない方が幸せなんかなあ)
 …………
 
 ラストは、ポテが泣きそうな顔で独白するカットだ。寧のアパートに入って、浩史はPCに描きかけのエピソードのデータを見た。ポテの方が語り部になっているその話は、コンペに出した5本と違いウェットな内容だし画風も異質だった。
(寧ちゃんがいつも描く繊細で丁寧なタッチが、綺麗ってよりちょっと不気味な感じや)
 母親から聞いたところでは、風邪をひいていたらしい。あるいは、体調不良が自省的でネガティブな絵を描かせたのだろうか?
 浩史がそんなことを考えていた頃、寧は寝室で夢の続きを見ていた。
 成犬となったポテが、寧に背を向けて歩き始める。
「待って、ポテやん。どこ行くの?」
「お別れや」
「え?」
「もうわしの役目は終わったはずや。このまま天国に戻らせてもらいまっさ。ほな、さいなら」
「嫌。待って」
 寧が追いかけようとすると、ポテが牙を剥いた。
「ついてくな!」
「ど、どうしたの?何を怒ってるの?」
「あんたがとんでもないアホねーちゃんやからや」
「…」
「幸せを怖がったらあかん。もっと貪欲でええんや。わしが犬チュール食べる時みたいに」
「…でも私…幸せなんて…わからない」
「それ、本気で言うてんのか?」
 ポテが寧の頭をポカリと叩いたところで、目が覚めた。
(ポテやんに、叱られた)
 叩かれたおでこをなでていると、キッチンから物音が聞こえてきた。
(おかあさん?)
 部屋着に着替えて行ってみると、浩史がお好み焼きの生地を作っていた。
(え?どうして、ヒロやんが?)
 寧に気づいた浩史は「ごめん。台所借りてる…あ」と言ってから、慌てて手話に切り替えた。
「(手話)きみのおかあさんにバッタリ会って、鍵を借りました」
 鍵を貸すなんて、おかあさんに気に入られたってことね。少しだけ寧はホッとした。
 ふたり分のお好み焼きが、こたつの上に載っている。浩史がおたふくソースを手に取る。
(お好み焼きにはやっぱり、このソースが一番!)と手話で伝えたあと
「『おたふく』って手話ではどう表現すれば、ううむ」と、言葉に出して考え込み始めた。
「(手話)声は聞こえてるから、普通に喋っていいよ。無理しないで」
「いや、別に無理してるわけでは…」
「(手話)いつもの他愛のない話をして。関西弁で」
「…うん」
 しばらくふたりは無言で、豚玉お好み焼きを食べた。
 浩史は、さっきお母さんから聞いた話を思い出す。
 ―あの子が美大を受験する直前に病気が発症したの。今度は、犬の方にね。犬の死因の半分は、人間と同じ“癌”なのよ。しかも発見しにくいの。お腹に腫れものが見つかったときには、もう手遅れだったわ。美大受験の直前だったから、私と夫はあの子に『ポテは風邪をひいてるから、しばらく入院させる』と嘘をついてね。受験を終えたあの子が東京から帰ってから、動物病院に連れて行った。でもその時には、ポテはもう犬用のお棺に入れられていたの。あの子は言葉にならない唸り声で号泣した。あとで聞いたら『ごめんね、ポテ。私だけいい大学入って、幸せになろうとして、ごめんね』って謝ったそうよ。もしかするとあの子、そのときのことがトラウマになって、幸せというものに罪悪感を感じているのかもしれないわね―。
 その話を聞いて浩史が思いを寄せたのは、愛犬の方の気持ちだった。
(そんなんあかんよ。そんな風に思われたら…ポテが、かわいそうや!)
 つい先日フラれた女性に対して、ダメ出しのようなことを言うのは躊躇われた。だが、言わずにおれない。
「あのさあ…犬ってさあ、ご主人に飼うてもろてるから、恩に感じてなついてくるわけやないと思うねん」
「…」
「ただただ喜んでほしくて、ずっと一緒にいたくて、お手もするしジッと帰りも待つし…見返りなんか求めてへんねん」
「(手話)何が言いたいの?」
「ええと。結婚が無理なら、しばらくヒロやんという喋る犬を飼ってみるのは、どうやろ?」
「…」
 寧は、夢の中で自分が言ったことばを思い出す。幸せなんて、私わからない。いや。私は幸せを知っている。寧の脳裏にある光景が浮かんだ。高校三年生の頃の自分の家だ。私はデッサンや描画の実技演習に疲れて、肩や首をもみながら二階から降りてくる。リビングには、ソファに寝そべってお笑い番組を見ているポテがいる。
「あ。この芸人、またカミよった。プロ失格やでえ。ネタもいまいっちゃなあ…」などと、お笑い番組を観ながらツッコミを入れている。この頃の私は、ポテの独り言さえ聞こえるようになっていたな。
 ポテの隣に座り、コーヒーカップを手に取る。そう。私は「幸せ」を知っている。大好きな絵を描いて、疲れたらテレビを見ながら暖かいコーヒーを飲む。そばにはいつもポテやんがいる。それが、私の“しあわせの正体”だったんだ。
 ポテやんが欠伸をして、私の膝に頭を載せてきた。
(あれ?) 
 気づくと、想像の中のポテはヒロやんに変わっていた。
 寧がそんなことを考えている間、浩史は「待て」と命じられた犬のように、辛抱強く待っていた。
「(手話)そうね。それくらいの気持ちでいいのかもね。お互いに無理はしない、ってことで。だいたい私達に、フランス料理やバラの花束なんて似合わないよ」
「うん。フランス料理よりお好み焼き。バラの花束より…」
 浩史は、こたつの中にしのばせてあったかすみ草の花束をとり出した。
「かすみ草って、冬でもあんねんな。花言葉は…『幸せ』やて」
「…」
「もしかして…この花も間違い?ぼく、首根っこ咥えられて放り投げられる?」
 寧は笑いながら首を振る。かすみ草の花束を受け取って立ち上がり、飾る場所を探した。棚には犬を模したフェルト人形が飾られている。第4話でねーちゃんがポテの抜け毛で人形でもできないものか、とつぶやくシーンがある。この人形は現実に亡くなったポテの毛をあしらって作られたものだ。寧はかすみ草を花瓶に挿して、ポテ人形の隣に置いた。
「お好み焼き、おいしかったね。コーヒー、淹れるね」
「うん、ありがとう。ちょうど飲みたか…って…え?」
 いま、寧の声が聞こえた。
 いや。そんなはずはない。だが寧は背を向けてるので、口の動きを読んだわけではない。花瓶を手に持っていたから手話でもない。だから、やはり喋ったのだ。寧は何事もなかったように、コーヒーメーカーをセットしている。
(第1話。ポテやんが「洗濯物!」って喋るシーンや)
「あの子には、ポテの声が聞こえていたのよ。ポテは喋っていたの」というお母さんの説明が蘇る。喋るはずのない者が、ある瞬間から喋る。それは受け手の問題なんや。ずっと自分がポテやと思うてたけど、ぼくはねーちゃんの側にならなあかんかったんや。
 いつの間にか浩史は、寧の背後に立っていた。
「今、ねいちゃんの声を聞いた。きみの描く絵みたいに、丁寧に何かを伝えようとする優しい声やった」
 寧は背中を向けたまま、何も答えない。
「ぼくはやっぱり、キミの描く絵が好きや。ずっと見ていたい。あれがキミの声なんやろ?だったら‥キミとずっと喋り続けたい‥」
「‥」
「一緒にいたい!」
 浩史はキムタクのようなバックハグをするつもりだった。だが結局、号泣しながらポテやんのように寧の背中をゴシゴシこすっただけだった。
 コーヒー豆が煎られるいい匂いがした。永遠の幸福は理想だけど、この香りが続く間だけでもいいな。うん。確かに、私はしあわせだよ―棚のかすみ草とポテやんに、寧はそう語りかけた。

  「喋る犬の飼い方⑥ 愛があれば、言葉はいらない」
  
                (終)


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