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【エッセイ】体の内は私の外で、だから私はどこにもいなくて

私たちは感情以前の感情を感じたことがない
どんなものも、それが喜びや悲しみという形をとってはじめて感じはじめる。それ以前から触れていたはずなのに

ただ触れることの激しさについて。ただ触れるだけの接触は、あまりに激しすぎてそれをどんなふうにも処理できない。

なにかに触れた瞬間に有るようにして無い、瞬間の資格さえない忘我。その前後で、息をしている私たち。

私、という体の内と外のあいだ。触れるという出来事はこの「どこ」なのか知れないものが司る。

なにかに触れたとき無が爆ぜる。誰もいない場所、誰もいない時間、場所も時間もなにもない。接触の、どこにともいえない、いつかともいえないところにあからさまに潜んでいる。

体の内側から発する感覚は、私たちの感覚それ自体を脅かす
私たちはいつだって内と外という枠組みに慣れ親しんでいて、
そもそもこの体がその発想の根幹だったはずなのに、それが裏切る
いや、最初に裏切ったのは私たちのほうなのか

体の内で痛みが起こるとき、どこへ逃げればいいのかもはやわからない
そのときはじめて、空間が幻想だったことを知る
空間という慣れ親しんだ考えのなにかがおかしいと文句をつけはじめても、その逃げ場のなさは、あまりに空間という考えをあてにしすぎたツケだろう

体の内側も私にとってはひとつの外側だ
だったら内側って何なのか
ここまで来れば私の内側という考え自体が使い物にならなくなっているのに、まだそれを引きずる
なにかがそこに隠されていて欲しいと思っている

私は空っぽでさえない。なぜならこの世界に場所を占めていないから。けれども、ある無の残影というか、残響かなにかではあるのだろう。あのなにかが感じられる前の接触から、私たちはここにやってきた。というより、常に到来しつづけている。

私は存在しているのでもなければ、存在していないわけでもない
私たちには居場所がない
だから考えるわけだが、その考えのなかにも居場所はない
そして居場所がまったくないからこそ、そこからかえって、私たちがそこにいるかのような錯覚が生まれてくる


読んでくれて、ありがとう。

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