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【エッセイ】同じではない同じについて

夢から覚めるためにはもうひとつ別の夢が必要だ。幻が別の幻によってしか打ち破れないのと同じように。

なにかが壊されたところでは必ず同じなにかが生まれている。あるいは、なにかを壊そうとすれば、同じ存在にならなないといけない。

この「同じ」にしても、どういった同じなのか? 夢には夢を、幻には幻を、目には目を、歯には歯を。いや、目には眼、歯には刃、といったふうに、その同じさはいつも、意表をつくような同じさに思える。

昨日の自分と今日の自分も、同じ自分ではあれ、私たちには思いもよらないような仕方で同じなのだろう。

なにかとなにかを「同じ」だと言ったとき、その「同じ」とは別な「同じ」が、その「同じ」のなかに身を潜める。こういうわけで、「同じ」であることには終わりがない。

「同じ」であることはそれ自体が千変万化の様態をもつ。それらが結びついたときの「同じ」と、それから長い月日を経てたしかめられる「同じ」が同一のものであるとは限らない。

数年前の「私」と今の「私」をつなぐ同一さと、数年前+一日の「私」と今の「私」をつなぐ同一さの異質さについて、考えを巡らせる。

たしかに幻は幻によってしか報いることができない。毒をもって毒を制す。だが、その二つの幻はおそらく「現実」との距離が違う。そして「現実」との距離が違うなら、幻とはいってもまったく異質なものになる。毒が死との距離によって薬になっていくように。

「現実」と幻の距離は無限だ。

同じであることは同じではない。相いれるもの相いれないものをふくめたいくつもの「同じ」たちがそこには入り混じり揺らめいている。


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