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甲陽コンプの京大生

甲陽に入りたかった

 中学受験で甲陽に入りたかった。甲陽学院とは関西中学受験界隈で灘に次ぐ進学校とされている我が市にある私立中高一貫だ。自由な校風が売りで、灘より校舎が綺麗だったり知る人ぞ知る名門校だ。西宮北口のどの塾も灘甲陽東大寺神戸女学院の実績を垂れ幕にして喧伝する。この塾銀座において甲陽は輝かしい錦なのだ。僕は甲陽も灘も見たことがなかった。灘なんて自分が行けるとは思わなかったし、校舎がボロいと聞いていたので視界にも入らなかった。物好きな僕は甲陽派だった。行ったことも見たこともない校舎を夢見ていた。
 しかし浜学園で一番下のH3クラスにいた自分にとって甲陽学院など夢のまた夢で届くことはなく公開学力テストで偏差値は常に40代。小5の冬に親から中学受験の撤退を打診されて泣く泣く浜学園を去ったあの日のことは昨日のことのように覚えている。西宮北口の阪急電車神戸線の下をチャリで潜り抜けて浜学園の本館に辿り着き自転車を止めて授業を受ける。あのエリート意識の根城から自らの手で自らの決意で追放されたあの日の屈辱と寂寥は今でも忘れることはない。授業終わりにまた再度阪急電車の高架下を歩いて坂を登ってKONAMIスポーツの横に止まっていたエスティマに乗り込んで今日の授業では模試が帰ってきて成績が悪かったと親に報告したあの日も昨日のように覚えている。
 幼少期から神童だった私は、あの塾で凡庸な凡人であり上には上がいることを悟った。夏期講習や冬季講習で8号館にいるV1の神々たちが勉強するのはH3の分厚い基礎テキストとは違う。薄い志望校別の藁半紙、彼らの闘志のように赤く燃え広がった表紙のカラーコピーを抱えていた神童たちを指を咥えて見ていた。僕は目の前のテキストには何が書いてあるのか全くわからないし、自分のアイデンティティはこの塾に通学してオルパス君の金色のキーホルダーを持っていることだけだった。見栄を張って学校に力の5000題を持って行ったこともあった。それでもいつかはV1に上がりたかった。そして神々の一員だと認められたかった。その一心で今は撤退すれども、必ずや「この場所」に戻ると決心し僕は浜学園を去った。

浜を辞めた後

 浜学園を辞めた後、小学校では中学受験組と少しずつ疎遠になった。小学生時代は塾に通うことが一種のステータスだった。地獄と噂に聞く公立中学に進学せずに勉学一本でこの地元を飛び抜けていく日能研や浜学園の神道たちが本当に羨ましかった。小6の1年間は塾をやめていたのにも関わらず、まるで塾があるかのように装って、自分は公立進学組ではなく中学受験組なのだと取り繕って放課後には友人と遊ぶのを特定の日付だけ控えたりした。1月13日の中学受験入試シーズンに学校に通っていた自分。右の席の友達も左の席の友達もみーんな欠席していて、自分だけが世界に取り残された気がした。無神経な友人には「お前中学受験するんじゃなかったのかよw」と言われ、いつもよりも人が少ない教室に甲高い声が響く。「ああ、俺実は受験やめて公立中に行くことにしたんだ。」目医者の息子の黄色い欠席ファイルにおやすみ連絡を詰めながら僕はそいつに答えた。だけど、自分が“中学受験組じゃなくなった”ことは隠したかったので声を抑えるように頼み込んだ。

友人たちの凱旋を眺めて

 中学受験組が学校に復帰して次々と灘や甲陽の合格を自慢し始めた。教室みんなで彼らの門出を拍手したのは今でも覚えている。8号館で闊歩していたあいつ、小4までは僕と学年一位はどっちか競って満点バトルをしていた彼、他クラスの神童と噂がされていた顔も見たことない名前だけ知っている同級生、皆が名だたる進学校への合格通知報告を行った。中学受験のクラス分けは残酷だが、子供ながらにして階級社会のリアルを教えてくれる。小学校4年生まで同じクラスでドッジしていた僕とアイツ。だがしかし浜学園8号館で出会ったらV1とH3。目も合わせないし会話もしない。持ってるテキストも違えば受けてる授業も違う。対等で何もないはずの友人同士だった僕らをクラスが目に見える形で分断した。VクラスなのにHと関わるようなやつはいない。後になって気づいたが僕のクラスは彼にとっての養分だった。

制服採寸

 しかし、中学受験組だと思い込んでいてもそれは確実にやってきた。制服の採寸イベントだ。地元の公立中学の採寸に行ってイヤミな友人とばったり会った。そいつの親から僕の家はてっきり中学受験するものだと思っていたが同じ公立中に進学するなんて、また3年間よろしくねと屈託のない笑顔で挨拶された。僕は顔が引き攣りながら親と一緒に中3になったら175超えるだろうからそれに合わせた制服選ばなきゃねと相談された。僕だけがこの冷たくてストーブ臭い、まるで負け組の値札を張られているかのような体育館での採寸を抜け出したかった。体が成長するなんて考えを巡らせる余裕もなかった。出来る限り知り合いに見つからないように、小6の自分は自分が公立中学に進学するという現実を受け入れたくなくてそそくさと帰宅した。

旅立ちの日に掛けられた言葉

 卒業式の日に大阪桐蔭や甲陽に進学が決まった友人から、「俺はお前が俺たちよりも賢かったの知ってたぞ、受けてたら甲陽受かったかも知れんかったのに、、、」と励ましとも嘲笑とも憐れみとも取れる言葉を、整列しているときに投げられた。「ハハハ、僕は君たちみたいに優秀にはなれなかったし塾のクラスも一番下だったから甲陽は無理だったよ、またどこかで会おうな」。“旅立ちの日に”を歌い両親や担任の先生に育ててくれた恩義を張り裂けんばかりの声量で感謝しながら、僕は長い長い戦いに入った。いつか、この中学受験で僕を置いてった彼らを追い抜き、巻き返してやる。「その日」が来るまで決して地元のイベントにも参加しない。彼らと顔を合わせることもしまい。決心した。夏祭りも初詣も行かなかった。

俺が聞きたい、「なんでお前がここにいる」

 公立中学に進学してまず最初に同級生から言われたのは「何でお前がここにいるんだ?」。それもそうだ。小学校時代の知能では満点続出、側から見たら中学受験しててもおかしくないスペックの僕が地元の公立中学に進学するのは一般人目線変な話に思える。うちの中学では例年4月に小6生が中学校見学に来る。そのとき小学校5年生の時に担任だった教師と再開して、「何でお前レベルの学生がここいるん?」と最後尾に座ってる僕に小声で声をかけてきた。「中学受験を辞めてこの中学で頑張ることにしたんです」。浜学園に通ってた高飛車で全能感に溢れる小5の僕を知る担任はどこか誇らしげに、「そうか、じゃあせいぜい頑張れよ」と答えて別の教室に移って行った。僕はこんな場所に本来いるべきじゃないんだと魂で実感した。

 そこから先はもう意地だった。定期テストの5科目では絶対に学年一位を取ることを目標にした。自分専用の満点阻止問題が出されたがそれすらも対策して土日にガリ勉して満点を取った。いろんな同級生や教師からからお前は神童だ天才だ将来は官僚になって日本を引っ張れと励まされた。中学受験で撤退した僕に取って、この墓地で一位すら取れないようじゃ「彼ら」には一生勝てないと考えていた。陸上部にも入ったし生徒会にも入ったが、そこには彼ら神童たちに一歩でも追いつきたい思いがあったのだろう。

 兵庫県で一番学生が入る西宮北口の塾に入った。最初は市内でトップの公立高校に入ることが目標だった。学校でも一番頭のいい先輩はそこに進学していた。しかし、夏休みの三者面談で奈良県の某私立をお薦めされる。僕が中1だった2014年当時、その高校は名前すら聞いたこともないような謎の新興系進学校でどうやら東大合格者を多数輩出する魅力がある場所だったようだ。「お前は花粉症の影響で中学受験撤退になったが本来の力なら甲陽受かったはずだ、この高校で挽回しなさい」と念を押された。その時から志望校は市内トップではなく難関私立高校へと変わっていた。塾では公立トップを目指すコースに入っていたので、秋あたりから塾長に私立コースへの転属を相談した。そしてコース進級試験に合格した私は見事そのコースに上がり、新たな仲間と新たな勉強をするようになる。教室に入ったとき、先生から今までとは違いこのコースは舐めてたらやっていけないぞと念を押されたのを今でも覚えている。抜けるやつはいても上がってくるやつは滅多にいない特進コースに公立コースから入ってきた「部外者」だった僕を物珍しそうに教室全体が眺めてきた。緊張で背筋が凍りながらも、目の前の因数分解や二次方程式など中2中3の知識をとにかく習得し追いつくことに必死だった。

甲陽のリベンジを灘で果たすぞ

 難関コースに入って一年が過ぎ中3の全範囲が終了した。彼らに追いつくために全てを賭けた。人生で一番頭をつかって勉強した時代だった。塾長との面談で僕は将来東京大学に進学したいという旨を告げると、それなら灘しかないなとアドバイスされた。灘、甘美な響き。中学受験で最高峰の頭脳を集積する関西の雄。中学受験時代の僕からすると考えもつかない超絶進学校。歴史と伝統があり自由放任な校風、兵庫県に生まれたなら一度は灘を目指し同世代トップと頭脳バトルをしたいと闘争心が芽生えた。その日から僕は、中学受験の甲陽コンプを上書きするために日本最難関高校である灘高志望になった。

 公立中学では中学受験の反省を生かして市西を目指すと嘘をつきながら、腹の中では灘志望と覚悟を決めて引き続き定期試験は学年一位をキープした。自分の成績の話が他のクラスでも教師伝で伝わったり、色々自分を倒そうと1科目だけ特化したような友人が勝負を挑んできたが全て薙ぎ払った。勉強しかできないつまらない人間だと思われないために挨拶運動も頑張ったし、内申点稼ぎにも奔走した。今この劣悪な環境を抜け出して灘に受かり、住吉川のほとりで勉強を頑張り日本を背負って立つ東大生になるんだと燃えに燃えていた。
しかし、灘には落ちた。

落ちた後

 灘に落ちた僕はむしろ驚かれた。「お前レベルで灘が落ちるなら誰が受かるんだ。」無理もない、僕の中学で灘の受かったような学生は上を見てもそうそういないだろう。中学同期の中で上限だった僕が挑んでも落ちた。その現実は理科教師や数学教師をガッカリさせた。定期テストや実力テストで過大評価されていたんだ。中学受験組という仮想敵を上に想定していた僕はある種理解していた。このニュークラウンの延長に彼らはいないと。だけど470を取れば道が開けると信じていた。
 中学受験のリベンジを図るべく3年ぶりの戦いは敗北に終わった。
 しかし、中学受験の頃と違ったのは僕は確実に日本最高峰高校に兵庫に生まれた責任を果たすべく挑戦した点だった。敵前逃亡はしなかった。椅子と机が固定された冬の教室でストーブに当たりながら頭を真っ白にしながら数学の図形問題を解いていたあの日は今でも思い出せる。人生で最も緊張した日々だったし、今の環境を抜け出すためにとにかく全ての人生を賭けた大勝負だった。しかし、敗れてしまった。私は予言?通りに中1で面談時にお勧めされた奈良県の高校に島流しにあった。

快速に揺られて

 “A tarin we will soon be arriving at Shin-imamiya. ”親の声より聞いたアナウンス。甲陽に敗れて灘にも敗れた私は、この関西随一の滑り止め私立で東京大学法学部を目指して2度目のリベンジを図ることになる。

 そして結果から話すと東大撤退でこれも達成できなかった。阪神電車と大和路快速で幾度となく繰り替えしたシス単やネクステ、透視図の刃は東大の喉元までは刺さることはなかった。センター試験最終年度ということもあり常にA判定が取れていた地元で一番の大学を安定志向で受験した。

中学受験で甲陽に「入れなかった」
高校受験で灘に「入れなかった」
大学受験で東大文一に「入れなかった」

 三度の戦いに敗れ、妥協に次ぐ妥協でなんとか滑り込んだ京都大学法学部。
 ここで私は、予備試験という人生挽回の最後の手段に縋りつくことになる。 続く


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