見出し画像

#61 現代社会の問題④(経済と承認の倒錯)

次の文章は2011年に出版された「絶望の国の幸福な若者たち」からの一節である。これを読み、あとの問いに答えなさい。(90分)

問1 課題文において筆者が問題としている内容をまとめなさい。(200字以内)
問2 課題文にみられる問題を改善するためには、どのようなことが必要か、あなたの意見を書きなさい。(400字以上600字以内)

スライド10

 日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められている。「健康で文化的な最低限度の生活」は時代や社会状況に大きく依存するが、僕は「Wiiが一緒にできる恋人や友達のいる生活」や「モンスターハンターを楽しむことができる生活」あたりが妥当だと考えたことがある。WiiやPSPを買えるくらいの経済状況で、それを一緒に楽しむことができる社会関係資本(つながり)を持っていれば、だいたいの人は幸せなんじゃないかと思ったのだ。
 言い換えれば、僕は幸せの条件を、「経済的な問題」と「承認の問題」の2つに分けて考えていることになる。
 これはどれくらい難しいことなのだろうか。まず経済的な問題を考えてみよう。若者が厳しい社会状況に置かれているのは、色々な人が難しそうな顔をしながら語っている通りだ。しかし日本でいくら若者の貧困問題を語ろうとも、どこかリアリティがない。それは「わかりやすい貧困者」がなかなかいないからだろう。街を歩いても、若者たちは小綺麗な格好をして幸せそうに歩いている。決して安くはないスマートフォンを、芸能人から大学生から道路工事のお兄ちゃんまで持ち歩いている。統計的にも若者の「わかりやすい貧困」を見つけるのは難しい。たとえば日本における餓死者は2009年には1656人だったが、そのうち20代は4人、30代でも15人に過ぎない。おそらくネットカフェ難民は「わかりやすい貧困」だったからこそ、実数に関係なくメディアでも注目を集めたのだろう。
 僕たちの社会は、一見あまりにも豊かなのだ。若者たちは、一見あまりにも幸せなのだ。
 もっとも、その豊かさと幸せが、どれだけ持続するかは怪しい。若者の貧困問題が見えにくい理由、それは若者にとって「貧困」が現在の問題というよりも、これからの未来の問題だからだ。
 若年層ほど世代内格差は少ない。正社員であっても、フリーターであっても、20代のうちは給与格差があまりないからだ。今でも年功序列、終身雇用を前提とした給与体系の多い日本の大企業では、どんなに働いたところで若いうちの年収は抑制されている。一方でアルバイトでは、日数や時間帯を調整することで、同世代の正社員以上に稼ぐことも可能だ。たとえば居酒屋のアルバイトだと、深夜シフトを多くした場合、月収に換算して30万円から40万円ほど稼ぐことも難しくはない。アルバイトから正社員への道が制度上存在する場合もあるが、肝心の若者がそれに魅力を感じないことも多い。大手居酒屋で働くフリーターのケンジ(21歳、♂)は「決まった日に来ないといけないし、給料も安い」ことが理由で正社員になろうという気持ちはないという。しかし正社員と非正社員の違い、優良企業の社員とブラック企業の社員の違いは、彼らに「何か」があった時に明らかになる。たとえば病気になった時、結婚や子育てを考えた時、親の介護が必要になった時。社会保険に入っていたか、貯金があったかなどによって、取れる選択肢は変わってくる。
 日本において、若者の貧困が顕在化しない大きな理由の1つに「家族福祉」があると言われている。若者自身の収入がどんなに低くても、労働形態がどんなに不安定でも、ある程度裕福な親と同居していれば何の問題もないからだ。今の20代や30代の親は50代から60代。まだまだ現役で働いている人も多く、介護が必要となる年齢にも達していない。しかも彼らには総じて、お金もあって家もある。世帯主が50代の家の平均貯蓄は1593万円、60代だと1952万円になる。また平均持ち家率は50代で86.7%、60代で91.3%だ。
 世代間格差の話をしたが、若者たちの親世代がまさに高度成長期の恩恵を受けてきた「勝ち組」世代なのだ。だからマクロで見た世代問格差も、実はミクロで見れば格差ではなく、家族内で様々な資源の移転が行われている場合も多いだろう。たとえば、18歳から34歳の未婚者のうち、男性の約7割、女性の約8割は親と同居している。特に「パート・アルバイト」など非正規雇用でその割合が高い。働いている子どもが家にお金を入れている場合もあるが、大抵の場合、その額は家族を支えるほどのものではない。家事をほとんど分担しないケースも多い。また親と同居している未婚者のほうが、同居していない人よりも生活満足度が高いという調査もある。
 高度成長期においては、地元に職がなくて都会へ出たというケースも多かったが、地方都市の発達は若者たちの「地元化」を可能にした。「地元化」とはつまり、日本の経済成長とともにストックを形成してきた親世代にパラサイトすることでもあったのだ。ただし、今は「子ども」として家族福祉の恩恵を受けている若者たちも、20年後から30年後にかけて、親世代の介護問題に直面することになる。さらにその頃には、持ち家だった場合もメンテナンスが必要になってくる。(中略)
 多くの若者にとって「未来の問題」である経済的な貧困と違って、承認に関わる問題は比較的「わかりやすい」形で姿を現す。未来の「貧しさ」よりも、今現在の「寂しさ」のほうが多くの人にとっては切実な問題だからだ。承認欲求を最もシンプルに満たすためには恋人がいればいい。全人格的な承認を与えてくれる恋愛は、その人の抱えるほとんどの問題を少なくとも一時的には解決してしまう。だって、たった1人から愛されるだけで誰もが「かけがえのない存在」になることができるのだ。(中略)
 恋人と同様に承認の問題を考える上でなくてはならないのが、友人だ。若者の幸せを考える上で、友人関係の重要度は非常に高まっている。また、若者たちにとって「ないと不幸なもの」の1位は「友人」という調査もある。同調査を受けて作家の津村記久子(32歳、大阪府)は、「ブスなら化粧で化けられるし、仕事がなくても、不景気だからと言い訳できる。でも、「友達がいない」は言い訳ができない。幼少期から形成されてきた全人格を否定されるように思ってしまう」と分析する。確かに「恋人がいない」とは笑って話せるけど、「友人がいない」とはなかなか笑って話せない。しかし現代日本には、恋人や友人に依存しない形で、僕たちの承認欲求を満たしてくれる資源が無数に用意されている。しかも、結果的にそれは広義の「友人」を増やすツールにもなる。
 ツイッターでは、たとえ無名の人であっても、面白いことをつぶやけば何百人もの人がリツイー卜してくれる。面白いことをつぶやき続ければフォロワー数はどんどん増えていく。かつては作家や署名人しか味わえなかった「自分の発言することが数千人、数万人に読まれている」という感覚を、多くの人が味わえるようになったのだ。ニコニコ動画も格好の承認の供給源である。好きな動画にコメントを投稿するだけでも他者と「つながっている」感覚を得られるのかも知れないが、自ら動画を投稿することによって、それまで無名だった人に数千人のファンがつくこともある。(中略)
 ただし、おじさん向けビジネス雑誌が騒いでいたように、ツイッターなどのソーシャルメディアが大規模ビジネスや商売に向くとは思えない。たとえば、約20万人のフォロワーがいるツイッター上の有名人が呼びかけたイベントで、集まったのはたった20人だったという。しかもそれを本人は悲しむでもなく「実際に足を運んでくださる人がいる」ことに歓喜していた。そんなものなのだ。
 同様にツイッターやソーシャルメディアが「社会を変える」ツールになるとも思えない。それらが個人の承認欲求を満たしやすいメディアであることを考えると、機能はむしろ逆だ。ツイッターで適当に社会派っぽいことをつぶやいて、フォロワーたちに賞賛されて、たくさんリツイー卜されることだけで、多くの人はただ満足してしまう。結局、ツイッターの提供する「共同性」に、「社会を変える」という「目的性」は回収されてしまうんだろうと僕は考えている。
 貧困は未来の問題だから見えにくい。承認欲求を満たしてくれるツールは無数に用意されている。なるほど、多くの若者が生活に満足してしまうのも頷ける。幸福度研究によれば、幸せを感じるのに大事なのは実際の所得水準よりも、社会問題を「認識」しているかどうかだから、「今ここ」を生きている若者ほど幸せなのは、当たり前と言えば当たり前である。もっとも、残念ながら、どんな関係も、どんな居場所も、現代社会ではとても壊れやすい。友人関係や恋人関係というのは、何の制度的な担保もない以上、壊れる時はすぐに壊れる。企業体や家族など社会制度を通して結ばれた人間関係は、壊すのが難しい分だけ長続きする傾向はあるが、それも絶対的なものではない。
 震災の影響でみんな忘れてしまったが、2010年から2011年にかけて、日本は「無縁社会」ブームだった。「無縁社会」というのは「つながりのない社会」を意味する造語だ。引き取り手のない「無縁死」が毎年32000人にのぼることをセンセーショナルに報じたNHKスペシャルで一躍「無縁」は流行語になった。「無縁社会」は、家族とのつながりという「血縁」、故郷とのつながりである「地縁」、会社とのつながりである「社縁」が失われた先に登場した社会として描かれる。だけどそれらは、かつて「選べない縁」として批判の対象となっていたものだ。(中略)
 最悪の場合、僕たちは「無縁」になる可能性もあるが、自分が付き合う人やコミュニティを自由に選択していくことができる。複数のコミュニティに所属してもいいし、参入や離脱も自由だ。ルールがなくても緩く続いていく関係。そのような実利実益から離れたコミュニティが増えることで、承認先は分散され、僕たちのアイデンティティを保障してくれるものになる。それらのコミュニティで提供されるぬくぬくした相互承認のおかげで、若者たちは社会の様々な問題を解決せずとも生きていけるようになる。だって、どんなに悪い労働環境で働いていても、どんな不安を抱いていたとしても、仲間のいるコミュニティに戻ればいいのだ。経済的な不満も、未来に感じる不安も、様々な形で提供されるコミュニティが癒してくれる。
(古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」2011年)

【解答例】

問1
筆者は若者の幸せを巡り、経済的な問題と承認の問題とを挙げる。が、若者にとって経済的な問題は、現在の豊かさが維持できなくなった時に顕在化する未来の問題だ。だから非常に見えにくい。一方、承認の問題は若者にとって現在の切実な問題だ。そのため若者は承認を満たそうとソーシャルメディアをよく利用する。それは不安を癒やすための手段にはなるが、しかし、そこには社会を変える力や未来の経済的な問題を解消する力はない。(200字)
問2
 問題の本質は、若者が未来を想像し、そこから現在の自分を考えられない点にある。いわば、若者は現在という固定的な視座から自分を見ており、現在から未来へ向かう流動的・相対的な視座から自分を見ることができていないのである。したがって問題を改善するためには、こういった感性や価値観を変容していく必要がある。
 そのためには未来に目が向く文化や社会の気運が必要だ。例えば、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような世界観は良い例であろう。この映画には昭和30年代の貧しかった頃の日本が映し出されている。けれども、人々は貧しくとも未来へ希望を見出し、前向きに頑張っている。これは現在の貧しさを未来への希望が支えている情景と言ってよい。しかし、現代の若者には未来へ向けた忍耐がない。課題文のケンジの台詞からもわかるように、現在の苦境を忍耐するインセンティブやモチベーションが若者には見出せないのである。
 この状況を改善するためには、まず不況を解消する必要がある。もしくは社会保障制度を充実するべきだ。まずは経済的不安を解消するところから始めるべきであろう。でないと、ケンジのように若者はリスクをとってまで新しい可能性を追求することはない。しかし、ひとまず経済的に不安がないのであれば、現状とは違う可能性に挑戦する若者も出てくるはずだ。そうなれば、若者も未来から相対的に自分をみることができるはずである。(583字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?