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【第4回】「心配」には2種類の視点がある|言葉とこころの解剖室

言葉から人の心やコミュニケーションのヒントを紐解きたい。その思いから『言葉とこころの解剖室』という連載を書いています。

 無意識に使う言葉や、言葉に対する感覚から「自分」を知り、言語コミュニケーションを通じて「相手」を知ることができます。決して正解のない世界ではあるものの、言葉という高度な道具をできる限り大切に、そして有用に使いたい。 

 執筆業に携わる者としても、いち人間としても、言葉と心をもっと追求したい!ここは言葉やコミュニケーションを分解、分析して明らかにする「解剖研究」のお部屋です。

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誰かを「心配する」ということについて、少し考えが巡っていた。

わたしは「心配する」というのは、誰かの暮らしや気持ちを想って、配慮することだと思っている。

それは、何か気の利いた一言をかけることかもしれないし、何も言わないことかもしれないし、何かを手伝ってあげることかもしれない。どれも、今まで当たり前のようにやってきた「心配」だったように思う。

ただ、このところ自分の使っている「心配」と、誰かが使う「心配」が違うように感じることが立て続けに起こった。

たとえば、わたしが全く心配していないことについて過剰に「大丈夫?心配になっちゃうんだけど」と根掘りん葉掘りんしてくる人。「心配なんだよ」と言いながら必要なアクションを何も起こさない人。「心配をかけたくないから」と言って、大事な事を隠してしまう人。

いろんな「心配」からくる疑問があった。もしかしたら、わたしもどこかでやっているかもしれない……と不安になるほど、自然になされている。

「心配」とは、一見良心的な言葉だと思う。心配と言われれば、ありがたいと思いたくなる。自分も心のどこかで、自分や誰かの心配をしている。人間は心配するようにできているという話もある。

でも、自分の生きてきた人生という大枠の中で捉えてみても、嫌な感情を持つことが多かった「心配」という言葉。

しかし、この言葉を調べてからじっくり考えてみると、この疑問はなんとなく解消される気がした。

心配には2種類の“視点”があった

「心配」という言葉の意味を調べてみた結果がこちら。

①あれこれ考えて悩むこと・気がかり・不安

②心くばり・気づかい

(例解学習 国語辞典/小学館 より引用)

①のあれこれ考えて悩むこと・気がかり・不安というのは「自分主体」の意味になると思う。

②は気遣いなので「相手主体」になる。


この意味を踏まえ、知人のKさんが以前言っていたこんな言葉を思い出した。

「年をとった今は、仕事も家事の両立も楽にできる。昔は今より断然体力があったのにね。子育て中はとにかく精神的に子どもが気がかりで、心配で、余裕がなかった。今はその気がかりがなくなったから、年をとって体力が落ちても、仕事と家事の両立なんてどうってことない」

Kさんは子どもに対してあれこれ悩み、いつも気がかりで、不安だった。そこにかけるエネルギーがとても大きかったのだそうだ。

なるほど、親なら誰しもそういう一面があるだろうと思う。ただ「親が自分に対して不安や気がかりばかりを持っていたら、子どもはしんどい思いをするかもしれない」というのがわたしの見解である。気がかりで不安な要素が“我が子”、というのは子どもからするとなかなか苦しいものがある。

そして別の知人Aさんは、わたしの息子のことを過剰に心配してくれる。

「〇〇君、最近どうしてる?学校どう?いつも登校ギリギリなの見かけるから心配で……」

Aさんは決まってこのような「心配」から始まる連絡が多い。彼女との会話は、最初「わたしやわたしの子への心配」から始まるが、最終的にはAさんの話を聞くターンになって終わってしまう。

彼女は「心配だよね」「心配だから」を本当によく使うので、話しているだけで正直気持ちが滅入ってしまうこともある。心配、というよりも「不安」が前面に強く出ているのがわかってしまうのだ。

Aさんも、自分自身があれこれ悩んでしまう、気がかりで不安なことを、相手への「心配」として使っているようだと思った。

とある企業での話。管理職のTさんは、考え方が古く凝り固まった価値観にとらわれた部分のある人。お世辞にも、若い現場の部下たちに慕われているとは言い難い。

Tさんの直属の部下であるEさんは、年齢も若く考え方にも柔軟性がある。異例の大抜擢でEさんが現場から技術職へ出世する話が持ち上がってしまった。Eさん自身もとくに出世願望はなく、できれば現場のままでいたい。しかし技術員たちからは「ぜひEを技術の方に欲しい」ということで、半ば押し切られる形でEさんは出世していく。

ただ、直属の上司であるTさんとEさんは考え方が根本的に違うので意見が合わない。上司と部下という物理的上下関係があるために、Eさんは上司のTさんから否定的な発言を毎日受け続け、精神的に疲弊してもいた。

そんな中、上層部はTさんをすっ飛ばしてEさんを技術職に引き上げようとしている。しかしTさんはEさん対し、この辞令の件に関して一言も触れることはなかった。直属の上司と部下の関係で「話題にも出さない」というのは不自然なようにも思う。

ただ、Tさんに上層部が「Eさんの辞令の件についてどう思うか」と話を持ち掛けられたところ「非常に心配している」とのことだった。

果たして、心配しているのは部下であるEさんのことだろうか。もしくは、自分のことだろうか。Eさん自身は「僕のことを心配しているのであれば、何か一言あるのではないか。自分を一度も認めてくれなかったTさんが心配しているのは、自分の今後のことなのでは」と言った。

わたしの親族の中には「心配をかけまい」という姿勢を崩さない人がいる。ただ「何かあった」という事実は臭わせておくが、その事実が何かを明かさないことが多々ある。

それはすべて「若い者に心配をかけたくないから」という理由からである。事実の詳細を伏せ「心配かけたくないから話さない」というのは、こちらとしては余計に「気がかり」で、心配な気持ちを伴うものだ。

相手の方が年長者なのだし、若輩者に心配かけたくない気持ちも、確かにわかる。でも、わたしが子どもたちに「何かあった」という気配を知られた場合、知られてしまった以上は率直に事情を話すだろう。たとえそれが検討中の事例だったとしても「今こういうことが起こっているんだ」という事実は伝える。仮にそれを聞いて、子どもが泣いたとしても。

先日、夫が遠方に長期出張になるかもしれないという話が出た。そのとき夫は6歳と12歳の息子たちとわたしを呼び「“みんなに”話がある」と言って、検討中であることも含めて事実を話してくれた。長男はうろたえたが、それをわたしたち親が後々対話を繰り返し、フォローしていくというフォーメーションをとるのが自然なように思った。

家族全員にとって大事な事実なのであれば、たとえ年齢が若くても話を聞く権利を得られることが「一員の証」だと思うからだ。

さまざまな「心配」の事例を見聞きしてきて感じるのは「自分主体」と「相手主体」の2種類が明確に分かれているということ。そして、自分主体の心配を、相手への心遣いとして「使う」ことは往々にしてあるということだ。

自分の心配なのに、相手への心配だと言ってみせることには違和感を伴う。そこには信頼のかけらもなく、言葉を巧みに使っているような印象さえ受けてしまう。(わたしはね)

誰かに心配を寄せるときは「相手が今、何を求めているか」を考えるものだと思う。「自分が今与えたい」「与えたいものがある」は余計なおせっかいにしかならないし、下心にも見えてしまう危険性を秘めている。

ただ「心配だから」という、一見良心的な言葉を使ってしまえば、相手はたとえ余計なおせっかいであっても「ありがたいもの」として受け入れざるを得なくなる。


さらに言えば、心配をもっと分解した場合、心を「配る」という言葉が出てくる。配は「物を適切にわりあてて渡す」や「心をいきわたらせる」の意味をもつ。

前者は物の分配に関することだが、わりあてるというのは大事な要素ではないだろうか。不要なところに配る必要はない。相手への心遣いと、自分の気がかりや不安を一緒くたにしてしまうと、適切な分配にはならないのだ。

相手が自分に何を求めているか、まるでわからないときもあるだろう。わたしは、相手が何を求めているかわからないときは、何も言えない。自分には今何もできないと思えば、何もしない。しかし、心配対象の相手が何かを求めてきたときには二つ返事で応じる。それが心を、適切な分配でいきわたらせることだと思うからだ。(事実と思考のこじつけかもしれないのだけど)

たとえ親子や夫婦という親密な関係であっても「過剰な心配」は、関係性や物事をぐちゃぐちゃにしてしまうものだと思う。

「あれこれ思い悩むこと、気がかりで不安なこと」は自分に対して使う心配であって、他人に対して使う心配は「心くばり、気づかい」の方なのではないか。

「心配」とは、想像以上に重みのある言葉である

相手の気持ちがわからないなら、無理に心を与えなくていい。それに、自分の心配を相手への気遣いと呈して便利に使わない。起こった事実に対して「心配するかどうか」は相手次第。

それを、多くの人が「あなたが心配だから」「心配かけたくないから」と言う。あたかも他人を気遣っているつもりで自分の心配を押しつけたり、妙に引き下がりすぎたり、駆け引きしたりする。そういう言葉のカラクリは、けっこう簡単に見えてしまうものだと思う。

決して、どう扱うのが正解で、どれが不正解というのを問いたいわけではなくて「心配」という言葉は、もう少し慎重に扱った方が安全な言葉なのではないか、と思ったのだ。

便利な言葉というのは実際多くある。でも「ここでこの言葉を使ったほうがいいのか」「別の言い方ができないか」と一度踏みとどまることは、必要なのではないかと思っている。

ちなみにわたしは最近、要らぬを心配されたときは「心配ありがとう」と言うようにしている。それは誰かの「気遣い」であると、どこかで信じたいのかもしれない。それが自分の心配の押しつけであっても、とりあえず「心配ありがとう」と言う。心の中がしっかり「まっぴらごめん」であっても。







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