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もう、痛みをひた隠しに隠さなくても生きたい。何食わぬ顔してるあの人も、本当は痛い

私が、感じ取りすぎてしまうのだろうか
人の感情に、敏感すぎるのだろうか
それとも、被害妄想がすぎるのだろうか

きっと、ぜんぶ"そう"なのだろう。

   

──いずれにしろ、私は自分を含めた"傷つく者"に関して、傍から見たら、異常なくらいに心を傷まずにはいられない。

   

自分が傷つくのも耐えられないが、

人が傷ついているのも、見ていられない。

   

  

私にとって、
きっとこのセカイは、まだまだ生き辛いときがある。

私にとっては、
"存在するとされているセカイ"だった。

"存在するとされているセカイ"では、自分の一部でありながら、すべてでもある感情は認められないように思えた。

   

だから、ときどき、ほんとうに、息がしづらくなる。

それでも、息をしているのは、「まだ生きていたい」と、どこかで思っているからだろうか。

「生きていたくない」と思ったとしても、希望をまったく失ったわけではないのだろうと、また、俯瞰する。

  

理由(わけ)がありそうだが、無いことにしておきたい涙が、落ち切らない夜だった。


私の見ているセカイでは、
皆傷ついているのに、更に人を傷つけることで、自分を傷つけているように見える。そうにしか見えなかった。

ほんとうは、傷つけているのに、気づいてない自分を演じることで生きることを赦している。

   

傷ついている人から目を逸らすのは、身近な人の傷を見過ごすためだろう。

   

   

  

私の見ているセカイは、存在してないんだと思っていた。加えて、私も存在してないと感じるときもあった。

しかし、いつも読んでいる、いちとせしをりさんは、そんな私ととてもよく似ていると感じた。


『ああ、同じ人がいたんだな、生きていてくれて、エッセイを書いてくれてありがとう。』

しをりさんのエッセイに、私は心が救われた。

エッセイを読んでは、涙していた。中には、嗚咽をするくらい泣いた記事もあった。

   

"存在するとされているセカイ"では認められなかった自分の感情が、しをりさんのエッセイの中では「生きていて良い」と言われている気がした─。

  

  

逃げ場のない感情が、たまに込み上げるときがあって、そんなときに表現できるのは"書くこと"でしかできなかったから、ここに書きました。

詩のようになったのかな、なんでもいいか。

   

こんな文章でしたが、読んでくれてありがとう

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