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「世界は贈与でできている」近内悠太著 05 ~積ん読部屋からの便り
こんにちは。
なつむです。
数日、
この本と向き合って行きます。
世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) 単行本 – 2020/3/13
近内悠太 (著)
今回もまた、第1章からの引用を続けて行きます。
面白い切り口:親は孫が欲しい問題
なぜ親は孫がほしいのか(略)
なるほど、親は子に向かって「孫が見たい」と本当に言うのだな、と。(略)
なぜ親というのは、こうも孫の顔が見たい生き物なのでしょう?(略)
著者さんの、「あ、ドラマの中だけではなくて、親って、本当に、「孫が欲しい」「孫が見たい」って言うんだ・・・・!という気付きって、面白いなぁと思いました。
それをご自身の哲学の考察につなげてしまうところが、すごいなぁ。と。
これが題材として説明がつくというのは、なるほどと思います。
直感と合わない感覚:愛されるべき根拠を欠いた存在
「無償の愛」という誤解
(略)親が子を育てるのは一方的な贈与です。見返りを求めない、いわゆる無償の愛です。(略)無から生まれる愛、というのは誤解です。あるコミュニケーション(略)が贈与であるならば、そこには先行する贈与があります。その「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」に起動されて、贈与は次々と渡されていきます。
親の無償の愛の以前に、何があるか。(略)親もまた、その親から(略)「愛されるべき根拠」を欠いたまま育てられたのです。(略)つまり「不当に愛されてしまった」という自覚、気づき、あるいはその感覚が子に「負債」を負わせます。
このあたり、うーむ、なるほど・・・・とも思いつつ、直感的にはしっくりこないでいます。
どのあたりが、かというと、
凡人はあまねく、愛されるべき根拠を欠いた存在だと言われている感じがしていて。
そうなのかなぁ・・・・。
では著者さんの言うように、容姿が優れていたり才能があったりというスーパースターみたいな人は、その負い目がないんでしょうかねぇ。
綺麗事を言うつもりもないですし
自分の幸運自慢をするわけでもないのですが、
人って結構な割合で「愛すべき存在」な気がしています。
自分の身の周りの人達は、
いやぁ、すごいなぁ、楽しいなぁ、嬉しいなぁ、ありがたいなぁと思うような人がすごく多いですし、
愛されるべき根拠なんて、この世に同じタイミングで生まれて来て出会ったこと、だけで、十分なんじゃないのかなって、感じてしまうので、
「普通の人」(容姿が優れていたり才能があったりする人以外)がみんな、愛されるべき理由を欠いた存在だという、この本の中では当たり前の前提のようにさらっと語られることが、なかなか、納得がいかないなぁと感じてしまいました。
ただ、「すべて、仮説を立ててみているのだ」「これはそういう思考実験の話をしている」、と、考えると、しっくりは来ます。
もし、仮に、親からの愛を受け取ることに、何らかの負債を抱えている感覚があるのだとしたら、
自分が自分の親から愛されることによって感じていた負担感は、自分が子供を愛することによってではなくて、
自分の子が孫の親になることで、自分の子供が、そのさらに子供(孫)に負担を引き継いだ事によって、やっと自分が開放される感じがする、
のではないかと思うのですが、いかがですか、
という提示のされ方をしたら、
「実に面白い仮説ですね~~~!」
と、素直に感じることができそうです。
さて、お話は、いよいよ、映画「ペイフォワード」のお話に入っていきます。
ここから更に濃くなりそうなので、今日はこのへんにしたいと思います。
ではまたーーーーー!!
ではまたーーーー!!
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