アイデンティティの在り処
“アイデンティティ”
その言葉を初めて知ったのは、日本の高校に通っていた頃の家庭科の授業だった気がする。
日本語では“自己同一性”とも言われる。
さまざまな立場における自分自身の在り方について、「これがほかならぬ自分なのだ」というまとまりをもった確信のことである。(Wikipedia)
分かりそうで、分からないような、分かるような…、そんな言葉。
この言葉に出会って約10年。色々な経験を経て分かってきた意味。
その上で最近、環境が変わって、また強くアイデンティティを感じることが多くなってきた。
私の中では以下の3つがアイデンティティに強く影響していると考えている(あくまでも個人の意見)。
・家庭環境
・出身地
・当事者意識
私の場合、
日本という国の岩手県山田町出身。三姉妹の長女で、中学3年生の時に東日本大震災に遭い、父子家庭&二人姉妹に。進学した高校を中退し、オーストラリアに17歳で留学。現地の高校、大学を卒業し、大阪の企業に就職。
田舎で育ったこと、被災したこと、自然が豊かなところにいたこと、海外の日本人コミュニティという特異な環境にいたことが影響した価値観を持つ。
というようなところがアイデンティティかなと。
“アイデンティティ”と簡単に言ってしまっているが、結構脆いものでもあると個人的には感じる。
なぜなら環境によって色々な影響を受けるからだ。
その一方、環境の変化がありつつも、最近ではアイデンティティのおかげで生きやすさを見出せている。
そんな私のアイデンティティの在り処と、なぜそこに至ったのかという経緯を書いてみようと思う。
家庭環境
2011年3月11日。中学3年生、卒業式まであと少し、という時に東日本大震災が起きた。
その時私は学校が終わり、外に立って友達を待っていたが、それでも分かるくらいの揺れ。
大きな揺れから少し経って、慣れ親しんだ地元が一瞬で変わった。
思い出の通学路も、暗くなるまで友達と遊んだ公園も、15年間育った家も、思い出の品も黒い波に飲み込まれ、その時家にいた父方の祖父母、母、当時1歳半だった妹もいなくなった。
その直後に高校に進学したけれど、人見知りで友達もほとんどおらず、そして震災のショックが癒えていなかったため、どんどん不登校になっていった。
家庭内でも、母がいなくなった悲しみと不安が、一気に長女の私に押し寄せてきた。
妹の不安も、父の期待も受けながら日々過ごしていくうちに、16歳の私には”長女”という肩書きが重くのしかかり、いっぱいいっぱいになっていたのだと思う。
出身地
そんな悩みを抱えていた、高校2年生の10月。
担任の先生に勧められて、Beyond Tomorrowという団体が主催している東北未来リーダーズサミット2012に参加した。
被災地出身の高校生・大学生の参加者がほとんどの同イベントは私と似たような経験をした人たち。
そのなかで出会った数人は、Beyond Tomorrowの奨学金で高校留学していた。
みんなそれぞれの思いを抱えながらも、異国の土地で学び、悩み、ただその姿はとても活き活きとしていて、とても眩しく見え「私もこんなに活き活きと学生生活を送りたい!」と思うようになった。
これがきっかけとなり、私は“高校留学”という道を選ぶことになる。
––––––––––
2013年4月。これから6年間居ることになるオーストラリア・シドニーでの生活が始まった。
まず通ったのは語学学校の高校準備コース。
結果的にこのコースに7カ月通うことになるのだが、その期間、周りの国籍は
95% 中国人
3% 韓国人
2% そのほか
みたいな感じで“私しか日本人がいない”“日本人の友達は私が初めて“という、ものすごく特異な環境で濃厚な時間だった。
その反面、“日本=なつみ”という環境。
日本の歴史、宗教、言葉、食べ物など、日本のあらゆる情報は私が全て知っていなければいけなかった。
特に、台湾、韓国、フィリピンにとって日本は、歴史的にセンシティブかつ深く関係している国であり、その話を聞くたびに無責任なことは言わないということをマイルールにしていた。
その時に改めて「日本人として日本のこと、日本が周りの国にしてきたことをもっと知っておかなければ」という、アイデンティティを自覚し始めた。
語学学校修了後、高校、大学と進学したが、周りに色々なバックグラウンドを持った人や愛国心が強い人たちが周りにいて、自分のアイデンティティをすごく意識するようになった。
海外で長期間過ごし、年に一度くらい地元へ帰るという日々を過ごすうちに
「震災後、廃れていっている地元を見るのが悲しい」
「地元の素敵なところをもっと周りに知ってもらいたい!」
という思いも強くなっていった。
––––––––––
2020年4月。親族も友達もほとんどいない大阪で就職することになった。
「地元の素敵なところをもっと周りに知ってもらいたい!」という思いの一歩を実現できる会社だと思う。
社内だけでも彩り豊かな経験を持つ人たちがいて、世界一周をしたことがある人、元高校体育教師、メキシコにいた人、ドイツ出身の人…と色々居る。
だからこそ、このアイデンティティがかなり重要な役割を担っている仕事でもある。
そんな中で岩手県出身で、被災していて、6年間の長期留学をしていて、海外大卒で、現地での就労経験もあってというポジションは、どこを探してもそうそういないと思う(少なくとも社内にはいない)。
最近では“自称・岩手のプロモーター”として、岩手のことを布教しまくっている。
※自社のことももちろんプロモーションしてます
この”プロモーション”活動によって、岩手のことに興味をもってもらったり
実際に「行きたい!」と思ってもらえることが嬉しく楽しいのは「自分のアイデンティティが認められた」と感じられるからかもしれない。
当事者意識
上記からもアイデンティティとして大きな割合を占めているのは出身地や家庭環境だけど、その環境の中で経験してきたことを通して得る当事者意識(例えば「被災者である」「日本人である」)こそが人生の針路を示し、行動に影響するファクターだと思う。
震災直後はまだ子供で、何もできなかった。
それから9年経ち25歳になる今、「自分が何かしなければいけない」という謎の使命感と、「私だからこそできること結構あるじゃん」という無責任な希望と自信が生まれている。
引っ越したばかりで家具も家電もない状況下の自粛期間中に、「どう自分を楽しめさせれるか」をいう所に楽しみを見出せたのはなにもない田舎出身ならではだとも思うし、
大阪の自転車の量とか、都会なのに店員さんが優しくていちいち感動するのは岩手県出身だからだとも思うし、
移りゆく季節の植物を美しいと感じるのは海外に行っていたからだと思うし、
今の不安定な状況でも「死なない限り、なんとかなるっしょ」と捉えているのは震災と海外生活を経験しているからだと思う。
もちろんこんな不安定な世の中で、金銭的にも精神的にも安定することは難しいことではあるけれど、少しでも生き抜いていく希望を見出すためにはアイデンティティというものを見つめ直すことが大切なのかもしれない。
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