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わたしの格差の話。表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬を読んで

旅に出れないストレスを旅行記で癒やそうと、手にしたのがこの本だった。飢えた心に旅という彩りを与えたくて読んだのに、まさかこんなに悲しい気持ちになるとは思わなかったなあ。


約10年前の春。大学進学に格好つけ、大嫌いな実家を出た。けれど逃げるように駆け込んだ東京の暮らしは、ただただ残酷だった。

まだ幼さを残した子供たちが、整った制服とダークカラーのランドセルを背負いホームで電車を待つ。一方のわたしは週7のバイトで疲れ果て勉強に集中できず、ギリギリまで授業を休んだ。白米とふりかけだけのご飯をよく食べた。米は実家から送ってもらっていたので困らなかった、有り難かった。

田舎は良かった。家庭ごとに差はあれど、選択肢が少ないおかげでみんな似たような暮らしをしていたから。どうして生きているだけでお金がかかるんだろう、お金がなかったら生きることは許されないと言われているような気がした。

18歳のわたしにとって東京は、世界の縮図のようだった。


そんなとき大学で出会った、新自由主義と資本主義。一億総中流社会なんてとっくに消え去っていて、格差と貧困が蔓延る世の中。どうして日本は社会主義や共産主義を選ばなかったのだと憤ってみたはいいものの、海の向こうの大国がその闇を語る。

当時社会学の分野では北欧の福祉国家が夢のように語られがちで(今もそうかな)、わたしも例に漏れず手厚い社会保障と個人を尊重する制度に憧れた。北欧ではホームレスにさえ支援金が出る国もあるというのに、どうしてわたしは学生の本分を忘れてバイトに明け暮れているのだろうと思った。


自分自身の生きづらさを言語化できるようになったのも、この頃だった。絶望的に低いコミュニケーション能力。自己肯定感の欠如。自己開示をしようとすると涙が溢れて何も話せない、自分の感情が自分でもわからない。個人主義のように振る舞うのは、集団に溶け込むのが苦手なことを隠すため。こんな性格だから人と仲良くなるのに1年以上かかる。その間に大抵の人は離れていく。

また、わたしは不完全機能家族で育ったアダルトチルドレンなのだと気づいたのも大きかった。家族を呪う気持ちは、今も日増しに強くなっている。年齢を重ねるにつれ、自分の容姿や性格が大嫌いな母親に似ていくことが恐ろしくて仕方ない。母親のようには絶対にならない、それがわたしの生きるモチベーションだと思うと笑えてくるけれど。


あんなに悩んで絶望した新自由主義や資本主義。今やわたしはその歯車のひとつ。その中で大きな絶望も感じず暮らしていけているのは、自分が最底辺でないという自覚があるから。上を見たらキリがないけれど、7万5千円の家賃を払いながら貯金をし、奨学金も少しずつだが返すことができている。裕福ではない、でも社会の最底辺でもないという自信が、今日もわたしを支えている。わたしはいつのまにか、格差社会の中で生きやすささえ感じていたのだ。無自覚に誰かを蹴落として、その椅子に居座る。わたしが憎んだ競争社会そのものに、わたしがなっていた。


この本を読んでもうひとつ、思い出したことがある。社会に絶望し、無力な自分を嘆いていたころ、東日本大震災が起きた。不謹慎にもわたしはその時、少しだけ安心してしまった。誰もなんにも、できなかったから。みんな無力だったから。わたしだけじゃないと、気づいたから。自分にできることなんて何もないと思う方が楽だった。自分に過度な期待を寄せなくて済む、傷つく機会も減らせる。

できることなんてない。その絶望はやがて、できることをやっていけばいいという、希望になった。


わたしのできることってなんだろう。とりあえず働いた、自分ひとり十分に暮らせるお金を稼ぐことはできた。わたしは一人でどこまで行けるんだろう、そう思って一人旅に出たら思ったよりも遠くへ行けた。英語の勉強をしたいと思ったからTOEICを受けて少しずつ点数を上げることができたし、綺麗になりたいと思ってダイエットを続けることもできた。こうしてnoteだって書いている。

わたしはわたしにできることが、思ったよりも多くあることを知った。


憧れた北欧の国も、要は新自由主義を突き詰めた社会だし、自分らしさを求められすぎて疲弊する人もいるそうだよ。みんなが生きやすい社会なんてないのかな。社会とは個人に対して外在し、強制力を持つものとされる。社会を作るのが個人なら、そんな皮肉はないよね。




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