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世田谷区の郷土資料館で地域を学ぶ

天気が良いので住んでいる地域の理解を深めるべく、世田谷区の郷土資料館へ。

江戸時代の世田谷区は彦根藩世田谷領。江戸日本橋まで10〜20キロと彦根藩の中で最も江戸に近いエリアで、農業が盛んだったこともあり、物資や商品、労働力の拠点だったそう。江戸に住む人にとって日帰りや1泊旅行で訪れる行楽地の側面もあったらしい。

世田谷領を管理していた世田谷代官は「世田谷領は20も村があり、しかも江戸から労働力の要請もあって忙しいのに部下をつけてもらえない」と嘆いていたと書いてあった。いつの時代も中間管理職と役人は大変。

当時の世田谷は現代の日本に置き換えたらどのあたりが該当するのだろうか。江戸を東京として、神奈川千葉埼玉なのか、それとも静岡ら辺か。少し考えたけど全然ピンとこなくてすぐ諦めた。

今では世田谷区に90万を超える人が住んでいるらしい。面積が広いのもあるけど、それにしても多い。人が行き交う場所というルーツがあり、かつ農作物が取れたことから戦後人が集まるようになったのだろうか。

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は彦根藩主。当時の世田谷の人にとってのトップであり、暗殺の一件は大きな衝撃を与えたとのこと。歴史で習った井伊直弼、案外自分の生活の近いところにいた人だった。

明治に入り学校教育の制度改革が始まり、学校が次々作られたが、学校の設立も運営も費用は全て民間人の持ち出しであり、「地元住民の協力あってこその開校」だったとのこと。

大多府島で「頭島と本土に橋を架けるべく島民でお金を積みたてて行政に働きかけた」と聞いたことを思い出す。現代の東京に住んでいると地域のために住民が動くという発想はないけれど、過去を振り返ればそうやって地域は発展してきたのであり、今のわたしたちはその恩恵に預かって生きている。

今の世田谷区ができたのは1936年で、まだ100年もたっていない。香川で廃藩置県によって四国が2県になったり3県になったりしたという解説を読んだ時も思ったが、今の日本のベースとなっている都道府県や市区町村は案外最近できたもの。この世に確固たるものなんて何もないのかもしれない。

1957年の小学校教材の地図がよかった。地図記号に「とかい」がある。東京の他、浦和や甲府なんかも都会とされていたよう。こんなことを書いたら浦和や甲府の人に怒られる。

那覇は「なわ」
キャンベラはカンベラ

去年12月に初めて行った世田谷ボロ市、起源は500年くらい前まで遡る。昭和30年代にゴミ問題により住民から中止を求める声が上がり、開催が見送られていた時期もあったが、長年の歴史あるボロ市を復活させようとボロ市推進委員会が立ち上がり、再び開催されるようになったとのこと。

驚いたのは、ボロ市推進委員会の中心になったのが大場家当主だということ。大場家は江戸時代に世田谷代官を務めていた家。現在も家が存続していて、当主が今なおボロ市を仕切っている。

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