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人間として生きようと思うからややこしくなる気がする。

北海道に移住してきて2ヶ月目。幸せなニート生活をしたのが丸1ヶ月。
毎日散歩したり、ゲストハウスの先輩であるわんことにゃんこと暮らして思ったのは、人として人間社会を生きようとするよりも、生き物として生きることをメインで人間社会を生きた方が最低限の力で生きられるのではないかということ。

人として人間社会で生きようとすると、世間体とか生きるには必要のない持ち物とか本当は欲しくない時間とかができる気がします。

毎日ニートを楽しんでいた私がしていたことは、とりあえずこのゲストハウスの先輩たちのライフスタイルを観察すること。これも世間体を気にすれば少しやばい人かもしれません。
でもこの2人は毎日幸せそうに生活をしています。この1ヶ月でなんとなく自分なりにその答えを見つけ出しました。

それはその時間その時間にとても真剣だということ。毎日気持ちよく過ごせる場所を天気や気温によって変化させ、誰かが料理を始めれば必ず台所チェックに行き、玄関からちょうど良い風が入ってきたら1時間でもそこでのんびりしています。

お休みだから絶対出かけたほうがいいということもないし、寒い日はストーブの前にいる時間を楽しんだらいいし、お昼寝をしたい気分の時は十分だらけて過ごしてもいい。動きたくなるか、そのまま1日を終えるかはそのだらけた後の感覚に従えばいいんだという単純なことに気がつきました。

多分その直感に従った後に罪悪感が生まれるから今までそれを避けていたのですが、その罪悪感自体が気のせいなんじゃないかという結論に達しました。

多分この子たちは善悪で物事を判断していないような気がします。(直接聞いたわけではないので真意は分かりませんが。)
寒い日に1日ストーブの前で転がっていても幸せそうだし、暑い日は1日涼しいベッドの下に潜り込んでいます。
寝たい時に寝るし、暖かい日はウッドデッキで外を楽しんでいます。

でも私が1日予定がなかった時に感じる罪悪感は少なからず休日の理想があるからです。この理想から外れていると今日はいまいちな日、今日は最高な日となるんじゃないかなーと。

それも小さい時からのいろいろなすり込みな気がします。平均何時間という言葉がたくさんあるから無意識にそれに縛られていたような気がします。

でもそれもただの気のせいなわけで、その時の直感を大切に善悪の判断もなければ、100%やりたいことをやり切った日になるんだと思います。

これを意識し始めてからさらに毎日がシンプルで楽しい気がします。
料理をしたいなという日は真剣にスーパーに行くということを楽しんで、食材選びにもすごく時間をかけます。カフェに行きたい日は朝ごはんをシンプルにして100%カフェを楽しむ時間に焦点を合わせます。

そんなことをすればずっとだらけたり、ずっと無制限にカフェに行くのではないかとも思ったのですが、そのひとつずつの行動にめちゃくちゃ真剣に取り組んでみました。
するとびっくりするほどの満足感。お店選びにも妥協せず、金額や距離も可能な限りで制限をかけなければ毎日同じ衝動にかられる日というはほぼないということがわかりました。(我慢が癖になっている時は多分もっと時間が必要です。)

みんながいいと言っていたから行くのではなく、その時100%行きたい場所に言い訳を考えずに素直に向かい、だらけたいと思ったら全力でくつろげる環境を整えてだらけたいモードをやり切ります。そうやってひとつひとつの生活を全力で楽しむだけで1日のスケジュールがとても充実して毎日特別なことをしなくても幸せです。

去年の10月から休みたいという気持ちに素直に週休4日の生活を続けてきた結果、溜め込んでいた休みたいの欲求の消化が終わったみたいで、休みたいというモードから活動したいに変わってきたような気がします。

仕事への捉え方も同じで、自分が生きることの延長戦上にある職場を選ぶようにしています。ただお金をもらうのが仕事だと捉えると、人間として生きなくてはいけません。自分のやりたいに忠実になれる上に社会で必要なお金を頂けるという感覚でお仕事をやり始めてから帰ってからストレス発散に時間を費やすことも無くなったし、体の負担が減ったように思います。

北海道生活ももう少しで3ヶ月目に突入。
まだまだ新たな発見がありそうでこれから楽しみです。

おわり

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