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ブロンズ像の厳しいまなざしが見つめる先は?

この像は、日曜日を除いて毎朝、食料品や衣料品を売るメルカート(市場)が開かれとても賑やかな、ローマでも有名な広場の一つカンポ・デ・フィオーリにあります。広場の名前を日本語に訳すと「花畑」。もともとこの場所には、花畑が広がっていたことからこの名前がつきました。または、古代ローマ時代には、この地にポンペイウス劇場があり、ポンペイウスに愛されていた女性の名がFlora(フローラ)だったからだという疑わしい説もあります。

1450年頃、ポンペイウス劇場の遺跡の上に名門貴族オルシーニ家が宮殿(ブロンズ像の左後ろ)を建てたことなどにより、重要人物が行き交う場所となったカンポ・デ・フィオーリ。1456年にローマ教皇カリストゥス3世により石畳が敷かれ、整備されました。その後、職人のお店や宿が立ち並ぶとても栄えた地域となりました。当時は馬のメルカートも週に2回開かれていたそうです。

ただ、この広場は華やかな場所なだけではありませんでした。ここは、死刑執行、ロープを使った拷問の場としても使われていたのです。1600年2月17日、生きたまま火あぶりの刑にあったのは、異端の罪をきせられたドミニコ会の修道士であり哲学者であったジョルダーノ・ブルーノ。1548年ナポリ王国ノーラで生まれたジョルダーノ・ブルーノは、宇宙の中心は地球であると考えられていた当時のキリスト教社会で「地球も太陽も宇宙の一つの星に過ぎず、宇宙は無限である」と主張しました。異端審問所の追求を逃れるため、スイス、フランス、イギリス、ドイツと大学での教授職を探しながら13年間の放浪をつづけますが、やはり母国に帰りたいと思ったのか、ヴェネツィアの貴族の家で記憶力の教授の職を受け入れた後、涜神者として訴えられます。最終的にローマの異端審問所に引き渡されたジョルダーノ・ブルーノは7年間の牢獄生活ののち、自説の完全な撤回を拒絶したため異端判決が下り、ここカンポ・デ・フィオーリ広場にて処刑されました。

このジョルダーノ・ブルーノのブロンズ像は、1889年彫刻家エットレ・フェッラーリによってつくられました。キリスト教権威は、像の設置を強く批判し、1929年ローマ教皇庁がムッソリーニの政権下のイタリア王国とラテラノ条約を締結した際も撤去を要求しましたが受け入れられませんでした。(ラテラノ条約で、ローマ教皇領は1870年にイタリア王国に占領されたままになっていた状態から、バチカン市国として独立することが認められた。)ジョルダーノ・ブルーノ像はキリスト教への非難の意味をこめ、バチカン市国の方角へ向いています。

カトリック教会が、ジョルダーノ・ブルーノの異端判決を取り消したのは今からたった40年程前の1979年でした。

ちなみに、数あるローマの歴史ある広場の中で、このカンポ・デ・フィオーリ広場のみ、教会が一つも面していない広場です。

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