見出し画像

「ゲルハルト・リヒター展」 ~キーワードとともに語ってみました。

2022年7月初頭、「ゲルハルト・リヒター展」に行きました。
 
noteを始めたのが今月に入ってから。やむなく、出遅れた感があるかもしれませんが、私なりのキーワードを交えて、感想などをシェアさせていただきます。
 
本展は、巨匠リヒターのおそらく生前最後となるだろう回顧展です。自ずと気合が入ります。予習をして行く人も周りにいましたが、私はあえて不勉強のまま臨みました。事前にプロの論考を読むと、作品をそれに当てはめて観てしまいそうな気がしたからです。
そして図録に目を通す前に文章化し、大学のSNSへ投稿しました。この記事は、それを加筆修正したものです(図録はまだ読めていません~汗)。
 
回遊式の会場は、展示室ごとにまとまりはあるものの、その括り方と画業との連関を示す解説パネルは設置されていません。作品解説キャプションがいくつかの作品に付されているのみ。企画者、すなわちリヒターと学芸員らは、解説を最低限に留めて、鑑賞者が自分の見方で作品と対峙することを求めているのではないかと思われました。
 
リヒターといえば「フォト・ペインティング」が有名です。代名詞と言っても過言ではありません。例えばこちら ↓ がそれに類します。

《モーターボート(第1バージョン)》1968年


作品はそれだけではありません。リヒターは、「視る」ことについてさまざまな角度から思考と探究を続け、作品化してきました。
個人的には、今回、抽象画(油彩)の方が新鮮に感じられ、注目しました。

展示を見終えて浮かんだワードが、「層と相」でした。
 
私が考えた「層(レイヤー)」とは、一つには記憶の集積です。(ちなみに歴史も一種の記憶です。)
脳科学者・中野信子氏も指摘していますが、驚きや感情を伴う記憶は定着するといいます。アウシュヴィッツにまつわる経験は、若いリヒターに多大な衝撃を与えたのでしょう。忘れがたい記憶となり、彼の内で重く響き続けてきたことが、《ビルケナウ》が2014年(リヒター82歳)の作であることからもうかがえました。
同じものを見ても、蓄積された記憶を通じて視覚情報は翻訳され、目に映る「相」、呼び起こされる感情や想像は人によりヴァリエーションが生じます。アウシュヴィッツの凄惨な記録写真のイメージが下層にあることを示唆しながら、《ビルケナウ》は、その画面に何が見えるか、何を感じるかを鑑賞者一人一人に問うているように思われました。
 

《ビルケナウ》2014年
Tokyo Art Beat HPより引用
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/richter.exhibit-2022-report(2022年8月21日閲覧)


《ビルケナウ》が写真のイメージを下敷きにしたように、「層」はまた、絵具の層であり、イメージの層でもあります。
とりわけ《アブストラクト・ペインティング》のシリーズに顕著ですが、塗る作業と削る作業を一緒に行える「キージ」という長細い板状の道具を用いて、リヒターは画面に絵具を上塗りしつつ、その下に層をなす絵具とイメージを削り出すようにしてあらわにしています。こうして偶然性をも取り入れ現出した「相」には、制作過程やかけた時間の積み重ねも垣間見えます
 

《アブストラクト・ペインティング》1992年
シリーズの到達点の一つとしてリヒターが所蔵し続けているという作品


この「塗ると削る」といった相反する要素の共存は、リヒター作品の特徴の一つとされます。私はこれに関し、「グレイの追求」というワードをイメージしました。
実は本展では、一面灰色の《グレイ》というシリーズを展示しています。解説キャプションによれば、リヒターは、グレイを「無」を最も表せる色と考えているそうです。そしていろいろなテクスチャーを施した灰色の画面に、無と有の境目を見定めようとしているとのことでした。

《グレイ(樹皮)》1973年


私たちが「グレイ」と言う時、黒とも白とも区別しがたいどっちつかずの状態を指すことがよくあります。相反するものを含む曖昧なゾーン、それは両者をつなぐ架け橋であるとも、またそこから別の世界が展開する可能性、すなわち豊かさを秘めた領域であるとも言えるのではないでしょうか。
この「グレイゾーン」にリヒターは可能性を見出したのだと受け止めました。
 
……以上、私の見方と感想です。
 
この展覧会、会期が長くて嬉しいです。時間をおいて、図録のテキストを読んでからまた行きたいと思っています。2回、3回と行く度に、見えるものが違ってくるのではないかと期待しつつ!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?