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「外国人」というレッテルが独り歩きしてしまうとき

※この記事には、差別的な言葉も記述されています。そうした差別があってはならない、という内容ではありますが、読まれる方はご注意下さい。

ラジオやテレビの報道番組では、政治の不祥事、政策の不備に対して批判的にコメントすることが多々あります。その度にSNS経由で、発言への「批判」というよりも、「罵詈雑言」の言葉が寄せられます。

「こんな反日分子は排除しなければ」
「外国人が日本の政治に口出すな」

中には「どう見ても”朝鮮耳”、日本人じゃない」と身体的な特徴を、侮蔑的な文脈で揶揄するものもあります。

私は父が在日コリアンだったことを度々記事などで伝えてきました。それが分かると今度は「ああ、”やっぱり”」という声が寄せられるのです。”やっぱり”、”日本人ならこんなこと言わないだろう”、と。

こうした言葉は特定の「誰か」に矛先を向けたものに限りません。気がかりなのは不特定の「外国人」という大きな主語が独り歩きしてしまうことです。

例えば、何か深刻な事件報道があると、全くその背景が分かっていない段階から「こんなものは外国人がやったに決まっている」という書込みが溢れたりします。

自分と意見の違う人間に「外国人」というレッテルを貼れば、「自分は間違っていない」と安心できるのかもしれません。悪質な犯罪を「外国人」のせいだと頭の中で片づければ、「自分たち日本人の社会でそんなことが起こるはずがない」とそれ以上考えずに済むのかもしれません。

「集団的ナルシシズム」という言葉があります。

「日本」という大きな主語と自分自身を一体化させてしまい、「日本政府」や「日本人」を批判されると、「自分」を批判されたかのように感じがちな状態を、心理学の世界ではそう呼ぶのだそうです。それが有害な形で表れてしまうことを、荻上チキ氏がヘイトスピーチの解説の中で指摘しています。

「外国人」というレッテルで差別の言葉が出回ることは、こうした”一体化”の感覚と表裏一体なのだと感じます。

本来は切り分けて考えるべきことが切り分けられていない、ということを改めて感じたのが、先日のつるの剛士さんのTwitterでの書き込みでした。


大切に育てた農作物が被害に遭うこと自体はとても深刻なことです。ただ、「目星」という推測の域を出ないものを、誰もがアクセスできる場で表現することの影響も同時に考えなければならないと思います。

残念ながら起きてしまったことの全容はまだ、分からない段階です。「日本人」であろうと「外国人」であろうと、犯罪はあってはならない、ということをつるのさんご自身もおっしゃっています。だからこそなおさら、ここで「外国人」という「属性」を、わざわざ表に出す必要はなかったはずです。

現に、ここに連なるリプライの中には、「やっぱり外国人は…」「外国人を安易に招くとこういうことが起きる」という趣旨のものや、特定の国籍を名指しするものもありました。

とりわけ、つるのさんの他の書き込みには具体的な市町村名もあることから、「犯人はあの人なのでは?」という憶測が、特定のコミュニティーで広がる危険性もあります。憶測はいじめや暴力につながるリスクを伴います。その矛先を向けられてしまう当事者からすれば、「恐さ」というよりも「脅威」でしょう。

日本社会の中で「外国人」というレッテルがどのように使われがちなのかは、すでにお伝えした通りです。それを考えればなおさら、犯罪の深刻さを伝えたいという動機の中で、不確かな属性を敢えて表に出す妥当性はなかったはずです。

ちなみに、リプライで書き込まれているような「外国人犯罪が増えている」という”イメージ”も正確ではありません。外国人の人口が増えているにも関わらず、外国人による犯罪の検挙件数は減っているという警察のデータがすでに公表されていることを、この記事にも書いています。

メディアや、あるいはメディアに携わる影響力のある人物が不確かな情報を無為に流すことが憶測を呼び、その不安は暴力につながることがあります。「ここに叩いていいターゲットがいる」と理不尽な旗振りをしてしまうこともあるでしょう。

大切なのは発信者の「差別を煽ったつもりはない」という意図の有無ではなく、もたらしてしまう影響とどのように向き合うのか、でしょう。手軽になってしまった発信も、言葉には常に責任が伴うことを置き去りにしてはならないはずです。

参考:



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