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自由と責任と”やってみよう”

自由だったな、と思う。
昨年の1月、私は賃貸契約を解除した。家を棄てた。
インスタグラマーがおすすめした無印の家具も、高級ハンドソープも人にあげた。何かを所有することをなるべくやめたとき、「理由」を無くすことに成功した。家に帰る理由、どこにも行かない理由、何かに挑戦しない理由・・・。そこまでしてようやく、私の重い腰が上がった。

それから1年半が経った。自由を手に入れた私は無敵だった。いろんな場所に行き、人と会い、職業選択の自由を行使して花屋になった。その途中に失ったものもあれど、好きな時に好きな場所で好きな人に会える日々は充実していた。間違いなく自分の世界は広がった。だけど、たまに抱く虚無感の正体は一体なんなんだろう?ずっと言語化ができなかった。

実は、旅人と呼ばれる人と話をするとき、あまり盛り上がれないことがある。ヨーロッパに2ヶ月滞在していた時、脱サラして世界一周にチャレンジしている人と出会った。あそこも良かった、ここも楽しかったよと伝えてくれる彼の話に耳を傾けながら、正直に告白すれば「それが何になるんだろう?」という彼の行動そのものに対して疑問を抱いた。本当に失礼極まりない話なのだが、純粋な自由の恩恵を受けている人は、どこか子供っぽく感じてしまって、何歳になっても夢を追う姿は素敵なのだけれど、最終的に私が目指す姿ではないなと思ってしまう。

結局、自由な環境の中では何も生み出せないし、何も残せないのではないかと考える。自由な環境は豊かだが、何かに向き合わずに済むという側面を持っているのではないか。極端に言えば、何か嫌なことがあったら逃げ出すことができるのが自由の特権だ。これが私の弱さに繋がっている自覚があった。私の友人は新卒で入った会社で順調に出世を果たし、4年目の今年は組織のリーダーとして部下を従えてプロジェクトを推進している。自分の仕事に「責任」を持ち、日々をこなし、着実に自分の地位と仕事を積み上げていくその姿は、同時に私の幼稚さを照らし出していた。自分の考えや行動に責任を持っている人はカッコ良い大人だ。

もちろん、私にも積み上げてきた経験がある。だけど、その経験が形になって現れているかといえばそうではない気がする。そして、それを形にする勇気はなかった。漠然と海外に行きたいという夢があった。でも、究極的に言えばそれはお金があればいつだって行けるし、行った後に何がしたいのかと言われれば特になかった。それよりも先に、勇気さえあれば、形にしたいことがある。

何かを作る、何かを所有する、自分の考えに対して毅然とした態度を取ることは全て「責任」のある行動だと思う。それにはストレスや後悔が伴うかもしれないが、その責任からしか得られない対価があると感じた。仕事なり家族なり人生なり、少なくとも私が素敵だなと思う人は、自分の信じたものに対する覚悟があった。自由を諦める、と言うわけではない。しかし、自由であることを言い訳に、責任を抱くことから逃げることをやめようと思った。

所有する勇気を持ってみよう。
信じたものに向き合ってみよう。
社会に対して毅然とした態度をとってみよう。

この話をお世話になった人にした時、「真面目に考えすぎるな。結果にこだわるな。そうでないと、できない自分を責めることになるから」と言われた。そして、「すべては『実験』だと思え。試してみるという感覚が大事だよ」と続いた。素敵で柔らかい考えだと思った。

もう一度言ってみる。

所有する勇気を持ってみよう。
信じたものに向き合ってみよう。
社会に対して毅然とした態度をとってみよう。

試した先にある結果を知ってみよう。そして、やって良かったと思えるものは宝物にしよう。そのために、責任ある行動をしてみよう。

そんな感覚で現在を生きている。

【次回】
「ソーシャル・フローリスト」として生きてみる。



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